忘れ得ぬことども

「ら抜き」と「超」

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 林望さんの「日本語へそまがり講義」(PHP新書)という本を読んで、なかなか面白かったのですが、そのラストに「ら抜き言葉」についてちょっと触れていました。言うまでもなく、「見れる」「食べれる」のたぐいです。
 九州地方では、近年のことに限らず昔からこういう言い方をしていたそうで、ら抜きが「正しくない日本語」だと言うならば、「九州の人はずっと正しくない日本語をしゃべっていた」ということになってしまい、それはいかがなものかということが書いてありました。なるほどと思います。
 ちなみに、上でら抜きの例を書こうとしたら、わがATOKは、いちいち「ら抜き表現」と警告してくれました。親切というか大きなお世話というか……(^_^;;
 そのATOKの判別によると、「来れる」というのもら抜き表現だそうです。これは私も気づきませんでした。私は基本的にはら抜きを使わない方ですが、「来れる」だけはなんの気なしに使っていたのです。

 自分では使いませんが、ら抜きが「日本語の乱れ」であるとは私は考えていません。違う意味合いで、語形的に衝突している場合、これを区別しようとするのは自然な言語運動だと思うからです。
 具体的には、「見られる」「食べられる」という言い方には、「見る」「食べる」という動詞の可能態受動態の両方の意味合いが含まれているわけです。
「こんな服を着ていると、エッチな眼で見られるわ」
「今から帰れば、5時からの番組が見られるわ」
このように、意味合いが違うにもかかわらず、語形として衝突しているので、人々が無意識にこれを区別したいと思っても不思議はありません。
 現代では「〜られる」という言葉は受動態のイメージが圧倒的に強いと思われます。それで、もっぱら受動態にこの形が使われ、可能態が追い出されてしまったと考えられるのです。
 ちなみに、「見える」では「見る」の可能態にはなりません。これは別の動詞です。「自分の意志にかかわらず、自然に眼に映る」のが「見える」であって、意志が反映された行為である「見る」とは違っています。
 受動態でら抜き言葉を使っている人は、いかなるヤンキーでもいない筈です。すべて可能態として使われます。
 とすると、これは日本語の乱れというよりも、より厳密な語形の分化と考えるべきではないでしょうか。数百年後の日本語の教科書には、
 ──20世紀中頃までは、動詞の受動態と可能態が分化せず、同じ語形を使っていた。1980年代以降、このふたつが分離したものと思われる。
 などと書かれることになるのかもしれません。
 ただなにぶんにも、現在のところやや耳障りなのも事実ですので、私は少なくとも文章の上では、「来れる」以外はら抜きを使っておりません。可能態で「ら入り」を使うことがかえって奇妙に思われる場合は、「見ることができる」のように書いています。

 そんなわけで私は「ら抜き」にはわりと好意的なのですが、「超」の使い方だけはどうしても我慢なりません。
 「超むかつく」「超かっこいい」
 これらがいけないのは、「超」という接頭辞はあくまでも体言修飾語だからです。「超」特急、「超」音速、「超」能力、などのように、あとに来る言葉は体言(ほぼ名詞と同義)でなければなりません。「むかつく」のような動詞、「かっこいい」のような形容詞はいずれも用言であって、「超」はこれらにかかるべき言葉ではないのです。
 「すごく」「とても」などの副詞の代用品として「超」を使うなどという、シンタックス(言語構造)の混乱こそ、ら抜き言葉などより遙かに深刻な日本語の乱れだと思います。
 前に新聞を読んでいたら、どこかの女子大生が
「『超』なんかはもう普通に使われてるんだから、認めて欲しい」
みたいなことを発言しているのを見かけましたが、いかにオヤジと言われようとも私としてはこれは認められません。
 前に電車の中で、乗り合わせた高校生がむやみやたらと「超」を使うので、試みに数えていたら(「チョー」という響きは目立つのでとても数えやすい)、1分間しゃべり続けているうちに15回くらい使っており、そのすべてが間違った使い方でした。こんなものを定着させてはいけないと思います。

(2000.7.22.)

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 この前「ら抜き」と「超」、ということを書いたら、「お客様の声」などで案外反響がありました。気になっていた人が少なくなかったのですね。
 「ら抜き」については、私と同様、
 ──自分では使わないけれど、語形の分化として認める(あるいは、認めざるを得ない)。
 という人が多いようです。文章では使わないけれど、日常会話では出てしまうこともあり、私も数日前、ついうっかり「見れる」を口にしてしまいました。こうやって徐々に、定着してゆくのかもしれませんね。
 「超」の方は、戸惑う人もいたようです。考えたこともなかった、とか。
 私は、シンタックス(言語構造)が乱れるからこれはいかん、と考えているのですが、実は半世紀以上も前に、似たような論拠により、意外な言葉遣いが批難されていたことがあります。なかなか興味深いので、その文章をここに転載してみます。

 近年はまた、「早く帰つて欲しいわ」などと云ふ変な「欲しい」がはやつてゐるらしい。前掲の流行語は、言葉の縮め方に無理なところがあつて、変な風に聞こえるとか、わざと妥当でない場合に使ふ為に、妙な響きを帯びるとか云ふことはあつても、言葉その物の組立ては別に間違つてもゐないが、現今流行の「欲しい」は言葉になつてゐない様に思ふ。
 「殺されて恨めしい」「喰ひ過ぎて苦しい」「離れて遠き満洲」等の用語は、下の部分の形容詞が、上の動詞語と原因結果の関係でつながつて居り、助動詞の「て」にその一句の段落がついてゐるが、それと同じ形の「殺して欲しい」には上と下とに意味のつながりがない。「欲しい」を助動詞の様に用ゐて、同類の「て」に連用しようとするのだから、無茶であり、国語の混乱のいい標本である。
内田百間「流行語」(昭和12年刊『北溟』所収)より

 何箇所か太字にしたのは私です。
 驚きましたねえ。「帰って欲しい」「殺して欲しい」の「……て欲しい」という言い方が、昭和初期の流行語で、心ある人の眉をひそめさせる言い回しであったとは。
 しかも百間先生は、まさに私が「超」について言ったのと同じ、シンタックスの乱れとしてこの言い回しを捉えており、この引用のすぐあとで、日本語の崩壊を憂慮しておられます。
 さらに古い例を挙げましょう。22日に書いた林望「日本語へそまがり講義」(PHP新書)からの孫引きなので恐縮ですが、江戸時代前期の1650年頃、安原貞室なる人物が「かたこと」という本を書きました。これが全編、日本語の乱れを憂うる内容なのです。現代文に訳して転載してみましょう。

一、物がいかめしく大きなことを、でこでっかいにくじなどと言うのは、実に聞き苦しい。言わずもがなのことであろう。
一、汚いものを洗い清めることをゆすぐと言うのはいかがなものか。すすぐと言えと言いたい。
一、「疾く(とく)と」と言うべきところを、「とっくと(とっくに)とはなんたることだ。
一、「あちこち」と言うべきところを、「あっちこっち」などと詰めて言うのは悪い言葉遣いである。
一、「同じこと」を、「おんなじこと」「余り」「あんまり」などと、はねて(「ん」を入れて)言うのも困ったことである。

 いかがなものでしょう。350年前にも、世間の言葉に顔をしかめるうるさ型のオヤジはいたのですね。
 もっと昔の室町初期の吉田兼好も、「徒然草」の中でこんなことを言っています。これも上記の「日本語へそまがり講義」からの孫引きですが……

文の詞などぞ、昔の反古どもはいみじき。たゞいふ言葉も、口をしうこそなりもてゆくなれ。いにしへは、「車もたげよ」「火かゝげよ」とこそいひしを、今様の人は「もてあげよ」「かきあげよ」といふ。(中略)くちをしとぞ、古き人はおほせられし。

 「古き人」が仰せになったわけではなく、兼好自身の意見であることに疑いありません。650年前にも、こんなことを言う人がいたのですね。
 何百年にもわたって、世の有識者は「言葉の乱れ」を憂い、このままでは日本語がダメになると警鐘を発し続けていたようです。
 しかし彼らの警告にもかかわらず、悪い(とされた)言葉は世の中に普及し、定着してゆきました。とすると日本語の品格は、この数百年、下降線の一途を辿り続けてきたことになりますが、日本語の表現力が兼好法師の時代に較べて格段に拡がってきたのもまた事実です。「徒然草」の文章で、国際政治や株式市場を論ずることは不可能なのです。
 頑固オヤジがなんと言おうと、便利な言葉、使いやすい言葉というのは世の中に拡がって定着するわけで、日本語自体はさして良くも悪くもなっていないというのが本当のところなのでしょう。

 カタカナの外来語を無批判に採り入れることの可否もずいぶんと論じられています。いまのところ単語の導入だけで、シンタックスが侵されているとは言えないので、私自身はそんなに心配していないのですが、理解できる人とできない人との差別が生まれる危険は感じないでもありません。現に、コンピュータ関係のマニュアルなどでは、註釈もなくいきなり使われているカタカナ言葉に戸惑う年配の方々がたくさんおられます。
 これにしても、奈良時代に漢語を導入した時などは、現在のカタカナ語以上の大混乱だったと思われます。現在でも日本語の語彙の6割が漢語だと言われるくらいで、当時、若い人たちが何を言っているのかわからず情けない想いをしたお年寄りも少なくなかったことでしょう。
 それを考えれば、カタカナ語の氾濫などもおそれるには足りないようにも思えます。ただ、漢語の場合は、漢字の音読みと訓読みという、天才的としか言えないような言語システムを考えついた人々がいて、難しい言葉でも、やまとことばに置き換えてなんとか理解するということが可能でした。現代のカタカナ語にはまだそういうシステムが発明されていませんから、意味がわからないとなると金輪際、どんなに文字を眺めていてもわからない。
 実を言うと、漢字に音読みと訓読みがあるということは、日本人の平均的な概念理解力を飛躍的に高めています。鈴木孝夫さんの本で読んだのですが、英国で講演した時に、集まった人たち(大学院生や、教授クラスの人もたくさんいたそうです)の前でpithecanthropusという単語をボードに書き、意味がわかる人は手を挙げてください、と言ったら、誰ひとりわからなかったらしい。日本で同じように「直立猿人」と書けば、別に人類学者や生物学者の集まりでなくても、まずほとんどの人が意味を理解するでしょう。pithecanthropusという文字列をどんなに眺めていても、意味を推測する手がかりは少しも浮かんでこないのに対し、直立猿人なら、「真っ直ぐに立った猿みたいな人」と読んで、大体のイメージが湧くわけです。
 日本語の漢字使用、そして音読みと訓読みの存在というのは、確かに国語の授業ではずいぶん手間がかかることですが、いわばフォーマットに時間がかかるけれども一旦入れてしまえばとてつもなく効率のよいOSみたいなものです。同程度の知的水準を持つアメリカ人と日本人が、同じ情報量の本をそれぞれ自国語で読んだとすれば、読み終えるのは疑いなく日本人の方が圧倒的に速いはずです。
 ところがまだ、カタカナ語はこのOSに最適化されていないところがあって、文章にカタカナ語をやたらと使うのは、せっかくの「日本語OS」のメリットを捨てているようなものです。やはり節度を持って使いたいものです。

(2000.7.30.)

V

 池上彰さんの「日本語の『大疑問』」(講談社+α新書)という本を読んだところ、またまた「ら抜き」「超」について触れられていたので、この話題、蒸し返します。
 このうち「ら抜き」については大体私が書いたのと似たような見解が述べられており、自分で使うつもりはないけれどもやむを得ない言葉の変化だろうと書かれていました。著者はNHKの現役アナウンサーなので、日常的に話し言葉を操らなければならない立場にあり、現場からの実感のようなものが感じられました。

 「超」については面白いデータが引用されていました。孫引きになりますが、東京外語大井上文雄氏の研究として、この言い方は主に静岡県内で使われていた一種の方言が、神奈川県を経て東京に持ち込まれ、さらにマスコミを通じて一挙に広まったことが判明したそうです。
 実際、NHKが静岡県の富士市で街頭インタビューした際、30代前半くらいの人たち──つまり私より僅かに若い連中ですが──が、小学生時代に「超ナントカ」という言い方をしていたと答えたそうで。私の子供の頃に、廻りにそういう言い方がなかったのは確かですから、この伝播経路は信用してよさそうです。

 それについて思い出すのは、例の「カレシ」のたぐいの上げ調子の発音です。これは、もともとは栃木県茨城県の発音であったそうで、確かにそのあたりの出身者のしゃべり方を聞くと、アクセントが平板で抑揚が乏しいのに気づきます。
 私の聞いた話だと、そのあたりから東京に遊びに来た女の子たちが盛んに「カレシ」と言っているのを聞いた他の地方の出身者が、それが東京の発音だと思って真似して使い始めたのが、全国的に広まったということでした。
 いずれにしても、一種の方言がトレンドとして普及したわけで、ある意味ではこれまでの東京一極集中的な情報発信に風穴を開けた快挙だと言えなくもありません。しかし、そんな微々たる単語の使い方やアクセントが流行したからと言って、方言復権の兆しなどと意気込むのもどうかとは思いますが。

 さて、「超」が無批判に「とても」「非常に」などの代用品として使われた結果として、笑うに笑えない勘違いが発生しているようです。上記「日本語の『大疑問』」に載っていた例ですが、
 ──超自然現象
 という言葉が大学の講義で出てきたところ、多くの学生が
 ──すごく自然な現象
 だと解してしまったというのです。をいをい、という感じですが、子供の時から「超」をveryの意味で使ってきたとすれば、この勘違いもやむを得ないかもしれません。まさかこれを読んでいる方々の中に、この解釈がどうしておかしいのかわからないという人はおられないと思いますが、もちろん超自然現象というのは、通常の自然現象として理解することのできない不思議な現象のことです。
 もっとも、そういう私もあまり人のことは言えないので、「超俗的」という言葉を見て「ひどく俗っぽい」と解してしまったことがあります。もちろんこれは「俗世間的な感覚から離れて超然としている」という意味で、俗っぽいのとは正反対なのでした。

 昔から使われているいろいろな「超」のつく言葉を考えてみると、「とても」「非常に」という意味が含まれているのは意外とごく一部であることがわかります。
 例えば超音波は、すごい音波などと解釈すると、耳を聾するような、ヘヴィメタのアンちゃんたちがガンガンにアンプのボリュームを上げてがなり立てているのがそうかというようなことになってきますが、もちろんそんな意味ではありません。人間の可聴域を超えた周波数を持つ音波のことであって、本来聞き取れないものです。
 超能力は、一見すごい能力のことかと思えますが、オリンピックで優勝した人とか、将棋の名人位の人とかを普通超能力者とは呼びません。そういう人たちの能力はまったく人間業とは思えないものがあるのですが、それでも人間の通常の能力の一部が極端にすぐれているだけのことであって、われわれのイメージする超能力者にはあてはまらないと思います。超能力と言うからには、やはり手を触れずに自由にものを動かす(テレキネシス)とか、一瞬で離れた地点へ移動する(テレポーテイション)とか、通常の感覚では全く説明できないことをやってのける必要があるでしょう。
 超特急となって、ようやくすごい特急という感じになります。古くは戦前、国鉄が満を持して投入した特別急行「燕(つばめ)は、東海道本線を8時間という、当時としては破天荒なスピードで駆け抜け、10時間近くかかっていたそれまでの特急「富士」「櫻(さくら)とは段違いでしたので、人々はこれは特急を超えた特急だ、超特急だと褒めそやしたのでした。戦後は新幹線ができた時、速達タイプの「ひかり」が「夢の超特急」と呼ばれたものです。現在の「ひかり」はスピードはともかく停車駅がいやに増えて、あんまり超特急という感じがしませんが、最初の頃は「こだま」とは料金も別で、堂々と「超特急料金」を徴収されていたのでした。
 3つしか例を挙げませんでしたが、他にもいろいろ考えてみてください。案外、「極度な○○」という用例は少なくて、「○○と似たカテゴリーではあるが別種のもの」という場合が多いことに気づかれるのではないかと思います。

 以前「お客様の声」phaos先生が書かれておられましたが、例えば英語で言えばsuperultrahypermetaなど多くの言葉が日本語では「超」と訳されます。私の知る限りではtransextraexcellentなども「超」になる場合があるようです。
 つまり、非常に多面的な意味合いが含まれている言葉であって、veryなどという狭い意味に閉じこめてしまうのはいかにも残念と言わねばなりません。
 前回は、私は文法的な観点から「超」の使い方にもの申したのですが、今回は意味の面から考えてみました。実のところ、適切な使い方でありさえすれば、私は「超」という言葉はけっこう好きなのです。

(2000.8.20.)

【後記】日本語の乱れといったようなことについて書くと、「お客様の声」などでの反響がいつも結構大きくなります。気になっている人が少なくないようで。

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