NHK特集で「日本人はるかな旅」というシリーズをやっていて、ご覧になっておられるかたも多いのではないかと思います。
人間だれしも、自分のルーツを知りたいという気持ちは持っているですが、日本人の場合とりわけその願望が強いような気がします。この島国でほぼ完結したような世界を古くから形作っており、言語も独特で他との類縁性がはっきりとしませんし、いわば孤立した船のような状態で、自分たちが一体どこから来たのかという想いが切実なのかもしれません。
また、評論のジャンルとして「日本人論」なるものが学問的に成立するなんて国も珍しいと言わねばなりません。書店へ行くと、内外の著者による日本人論の本が所狭しと並んでいます。「アメリカ人論」とか「インド人論」などは、あったとしてもひとつのジャンルとして成立するほど多くはありません。自分たちがどう見られているかということをこれほど気にする人々も少ないのであって、中には田ナニガシというヒステリックな韓国人女性のピンぼけな反日作文が時のベストセラーになってしまったり、何しろ侃々諤々です。これなども、「自分たちは一体何者なのか」ということを激しく知りたがっているからだと言えるでしょう。
ただ、これが歴史的に見て日本人特有の心情であったかどうかというと、そんなこともないように思えます。
昔は中国、明治以降は欧州、戦後はアメリカという、手本となる国が常に存在していた日本が、それらの「師」とことごとく肩を並べてしまい、もはや対等のつきあいをしなければならなくなった現在、「われわれはこういう存在であり、こういう考えを持っている」というナショナル・アイデンティティをはっきりさせることを世界中から求められているわけです。日本ほどに力のついた国のアイデンティティが不透明なのは、どこの国にとっても不安であり迷惑な話なのです。
しかし古来、あんまりそういうことを考えなくても大過なかった日本人としては、いきなり自己描写を求められてあわてふためいてしまった。あらためて振り返ってみると、自分でも自分のことがよくわかっていないことに気がついて愕然としたのではないかと思います。近年の日本人論の流行は、その戸惑いの顕れであるような気がします。
最近の考古学の成果はめざましいものがあります。まったく、なんでそんなことまでわかるんだというようなことまでわかるようです。モノが残されていればいろいろわかるに違いありませんが、地面にあいた孔なんてものまで発掘できるというのが、私にはどうしても理解できません。
ある考古学者が遺物の捏造をしていたのがばれて大問題になったのは記憶に新しいのですが、土器や石器といったものはともかく、炭化米など植物の捏造は難しいでしょう。最近はむしろそういう生化学を応用した分野から判明していることが多いようです。
そうした研究の結果、弥生時代からと思われていた稲の栽培が、縄文時代も早期ごろからおこなわれていたことがはっきりしてきました。弥生時代に入ってきたのは水田の技術であって、陸稲であればそのはるか昔から作られていたらしい。
縄文時代は素朴な狩猟・採集生活段階に過ぎなかったと従来は思われていましたし、私も子供の頃そう習った記憶があります。しかし、全国的な規模での交易もおこなわれていたし、大陸や半島との行き来も決して珍しいことではなかったようです。
言うまでもなく、異なった地域の人が出逢えば、そこに新しい文化が発生します。違ったものへの驚きが文化の起動力となるのです。
それは、一方通行ということはあり得ません。量的な差はあるにせよ、必ず双方に影響を及ぼします。
それで常々思うのですが、どうも日本人は、文化にせよ文明にせよ、どこかから流入してきたものだという意識が支配的すぎるのではないか。なんだか、自前では何ひとつ発明できず、常に外部から何かが流れ込んできて歴史を変えたと、無意識的に考えている人が非常に多いような気がします。
冒頭に挙げたNHKの番組を見ていても、どうもそうした先入観が感じられてなりません。まあ稲などはもともと日本列島に自生していたものでないことがわかっているらしいので、その起源を大陸に求めるのは順当だと思いますが、一事が万事その調子で、日本にあるものはすべて海外から伝わってきたものだと考えている。日本の文化の起源については、必ず海外に求めようとしてしまう。
逆に日本から海外に伝わった文化だってあるのではないか。いや、交易ということがおこなわれている限り、それがないなんてことはあり得ないはずです。
海外で日本の文化と共通するものが発見されると、すわこそそこが日本のルーツであると色めき立つのが常なのですが、古代の日本人がそこまで出向いていって文化を伝えたという可能性だって充分あり得ると私は思います。
どうも従来の説を聞いていると、日本は、半島、大陸、南洋などなど、あちこちの文化を呑み込むばかりで、何ひとつ発信することのない、まるでブラックホールのような地域であるかに思えてしまうのですが、常識で考えればそんな馬鹿なことがあるはずはありません。われわれはもう少し、自国の発信力に自信を持ってもよいのではないでしょうか。
(2001.11.15.)
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