成人の日というのは、以前は1月15日と決まっていましたが、体育の日と共に移動祝日となり、一月の第二月曜と定められてから数年が経ちました。 移動祝日は、月曜に定めることで、連休を多くし、ワーカホリックの日本人に少しでも余暇の活用をさせようという意図から始まったものと思うのですが、はたしてどの程度効果が出ているものやら。学校などでは、月曜日の時間数が必然的に少なくなってしまい、時間割作成に苦慮しているようです。 私が思うに、何も国民全部が一斉に休む必要はないのであって、子供だけの祝日とか、女性だけの祝日とかがあってもよく、実際そのように分けている国も少なくありません。移動休日は学校のような、曜日によって内容の違うところには適用されないようにした方がよいのかもしれませんね。
さて、成人の日には、全国の自治体で成人式が挙行されるわけですが、ここ何年か、成人式での不祥事が報道されます。昨年などは相当ひどかったようで、そのため今年は厳戒態勢をとるところも多かったらしい。そこまでして成人式などやらなければならないのかという気もしますが。 成人式というのは、読んで字のごとく大人の仲間入りをする儀式であって、たいていの民族にそれぞれ独自のものがあるようです。サモア島だったかではバンジージャンプをこなさないと大人とは認められないそうですし、その他にもある程度の試練を課される地域が少なくありません。われわれがそういう地域に生まれなかったのは、まあ幸いと思うべきでしょう。 しかしながら、成人したという意識が、そうした試練をこなすことによる「達成感」と結びついているということは、実は案外大事なことなのかもしれません。「何かをやりとげる」ことによって大人と認められるのであれば、本人にも大人の自覚というものがはっきりと刻みつけられるはずです。 戦前だったら、徴兵というイヤなものがあって、男子は確か2年くらいは兵営で過ごさなければなりませんでした。しかし、兵役から帰ってくれば、ともかくも国の役に立ってきたということで、これはもう立派に大人の仲間入りができたわけです。なお学生などは今と較べるとはるかに数が少なかったこともあり、戦争中を除いては徴兵は免除されましたが、同年代の若者たちのほとんどが兵営で苦労しているという意識は常にあったでしょう。それを考えれば、勉強しなければという気分になるのも当然です。 現代の日本では、成人するのになんの苦労もありません。ただただ、20年間生き続けることさえできれば自動的に大人と見なされるようになります。これでは、本人にも周囲にも、大人になったなどという自覚が生まれようもありません。 新聞の投書などで、しばしば20代も半ばを過ぎたような連中が 「あのような大人にはなりたくない」 なんてことを言ったりしているのを見ます。彼らは自分もまた大人なのだとは思っていないようです。 徴兵制の復活は願い下げですが、なんの達成感もなく成人してしまうというのは、ちと問題があるんではないかという気もするのです。
成人すれば、何か悪事をおこなえば実名報道されるようになりますし、刑務所に入らなければならなくなります。少年院と刑務所は全然別物だということがどのくらい認識されているものかどうか。 もちろん、税金を払わなくてはならなくなります。それから選挙に行って自分たちの代表を選ばなければなりません。選挙権という言葉から、どうも選挙というのは「参加してもしなくてもいいこと」だというイメージが出来上がっているようなのですが、とんでもないことで、民主主義を成立させるためには、成人には選挙で自分たちの代表を選ぶ「責任」があるのです。 20歳を境に、そうしたことが一挙にかぶさってくるのですが、それを自覚している新成人がどのくらいいるものでしょう。成人式で暴れるなんてのは、大人になるつもりなど全然ないのだとしか思えません。成人するつもりのない連中に、公費で成人式を開いてやる必要があるものでしょうか。
精神的な成長というのは人それぞれなのだし、全国一斉に成人式など挙行しなくてもよいように思えます。成人式は昔で言えば元服ですが、これはそれぞれの家庭で執り行われた儀式ですし、年齢もまちまちでした。12歳で元服ということもあり、18歳くらいまで延期されることもあったようです。 成人を機に、いろんな権利やいろんな責任が発生してくるのは事実ですので、私の意見としては、そういう意識を徹底するためのなんらかの講習のようなものがあって然るべきだと思うのです。20歳になってからの数年間くらいのうちに、そういう講習を何日か受ける義務を課し、それを修了したことをもって成人と見なす、というのはどうでしょう。同じ公費を使うのであれば、その方がよぼど有意義だと思います。多少の達成感も伴うようになりますし。 修了しないうちは選挙権もないし、喫煙や飲酒も違法ということにしてしまうのです。 とんでもないことを言う、と思われるかもしれませんが、現在の形の成人式など、戦後始まっただけの、さほど伝統のあるものでもありませんし、それもまた形骸化してきた昨今、そのくらい思いきった見直しをするのも一案ではないかと思います。 私の案だと22歳でまだ未成年、なんてことも起こり得ますが、それはそれでよいのではないでしょうか。選挙権のある20歳とない20歳が発生して、平等の原則に反する、という人がいるかもしれませんけれど、講習をいつ受けるかは本人の自由であり、機会は常に万人に開かれているわけですから問題があるとも思えません。 講習の内容などさほど問題ではなく、運転免許更新時の安全講習程度のレベルでよいのです。最後に試験をするなんて必要もありません。とにかくなんらかのアクションを自分から起こすことによって、選挙権なりなんなりを「獲得する」という気分があるのとないのとでは、「成人」という意識にかなりの差が生じるに違いないということです。それとも兵役があった方がよいですか?
ちなみに私の成人式はもう遠い想い出になりますが、一応実家のある区の区民会館まで出かけました。実家そのものが、その数年前にその区に引っ越してきたばかりでしたので、小学校の友達と再会するなんてこともなく、式場には誰ひとり知った顔がありませんでした。式典は別に面白くはありませんし、縁日みたいなのが併設されていましたがそれもどうということはなく、すぐ帰りました。 帰ってから、一応両親に今まで育ててくれた礼を言いました。言う私も非常に照れくさかったし、言われる両親の方もかなり照れていたようですが、そういう区切りをおろそかにはしたくなかったのです。 翌日から大人の自覚ができたとは到底言えませんが、まあ徐々にその気になったようでした。 今年成人式を迎えた、あるいはこれから迎える若い人たちは、照れくさくても、帰宅したら一応ご両親に挨拶することをお奨めします。それ自体に意味はないかもしれませんけれども、自分の気持ちの中でひとつの区切りがつくことは確かで、お役所お仕着せの成人式よりは有意義なんではないかと思います。
(2002.1.16.)
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