忘れ得ぬことども

カタカナ語と漢字語と

 「お客様の声」でカタカナ語の話題が出ていたので、少し考えてみます。
 最近、役所の公文書から無用の外来語を排除しようという動きが出てきたのは喜ばしいことだと思います。国語審議会がガイドラインを作ったそうで、そのこと自体には賛否両論あるでしょうが、役所の文書が国民に理解できないのでは困るわけで、今後もどしどしチェックして貰いたいものだと思う次第。
 概念語を翻訳するというのはなかなか大変なことで、特にその概念そのものがそれまで日本に乏しかった事柄の場合、日本語で言い換えることにより不正確になってしまうという危惧を抱く人が少なくないのも事実です。
 そこで、外国語のまま使ってしまえという発想になるのもわからないではありません。必ずしもカタカナで書いた方がカッコいいからそうしているというものでもないだろうと思います。
 しかし、読者に不親切なのは争えません。
 たいていの読者は、その概念の正確な意味を知りたいなどとは思っていないのであって、大体想像がつけばそれでよしとするものです。
 カタカナ語の場合、その字面をどんなに眺めていても、知らなければ絶対に意味がわからないという弱点があります。これに対し、漢字語というのは、正確さには欠けるかもしれませんが、眺めていると大体の意味が推測できるのです。

 つい最近、聴いていたラジオ番組で、そのお手本のような話がありました。
 パーソナリティの声優さんが、この前デジタルカメラを買ったという話題で、買う時にお店の人があれこれ説明してくれたのだがそれがさっぱりわからない、何語をしゃべってるんでしょ、と困惑した由。
 「しきりに、ガソ、ガソって言ってるんですけど、あれってなんなんでしょうねえ。わたし、ペソとか言っちゃいました」
というので、ゲストが一言。
 「日本語ですよ、それ」
「え? 日本語なの? じゃあちょっと待って、漢字を想像してみるから。ガ……ガ……あ、これって、図画の『画』じゃない? それからソ……うーんわかった。あの、糸みたいな字」
「味の素の『素』ですよ」
「ああやっぱり。『画素』っていうと……絵のもとになる小さな点々のことじゃない?」
「そうですそうです」
「ってあなた、知ってたの?」
「知ってますよお」
 私は聴いていて、思わず口の中で「お見事!」と叫んでいました。「ガソ」という響きから「画素」という文字を想像し、そこから意味までも推測することができるとは、漢字語ならではの強みと言うべきでしょう。これが店員が「ピクセル」と言っていたのであれば、彼女も決して意味が分からなかったに違いありません。

 外国語をそのまま外来語として使う方が手っ取り早いのかもしれませんが、少なくとも他人に分からせようという気持ちがあるのならば、適切な翻訳語を考案するのが親切というものでしょう。明治時代の人たちは、それまでの日本に存在しなかったおびただしい概念の奔流を前に、一生懸命に翻訳語を考えました。おかげでやたらと同音異義語が殖えてしまったというマイナス面もあったものの、その後の日本語がどれだけ助かっているか計り知れません。
 日本語だけでなく、この時期に翻訳された概念語の多くは、中国や韓国にも逆輸入されて定着しています。韓国語などではそのままハングル化してしまい、もとが日本の翻訳語とは誰も気づかないという言葉がたくさんあるようです。
 こんな文章を読むと、はたしてこの筆者が他人に分からせるつもりがあるのかどうか疑いたくなります。

 Lindowsは,数年前から行われているオープンソースのWindowsエミュレーションプロジェクト「Wine」を基盤にしている。Robertson氏はインタビューで,Lindowsにはプロプライエタリなソフトのほか,フォントを見やすくしたり,ソフトのインストールを簡単にするといった改善が加えられると話している。
 Linuxには,ワープロソフト「MS Word」や家計簿ソフト「Quicken」のようなメインストリーム向けのソフトがないことが障壁となり,一般的な普及が進まずにいる。Linuxのユーザーは,技術的知識を持つ人たちが中心だ。
 LinuxはUNIXクローンとして10年前に生まれた。Lindowsはより広いソフトウェア基盤を得ることで,Linuxの普及を図ることを想定している。「Linuxを使ったことがないコミュニティに,Linuxをもたらしたいと考えている」とRobertson氏。

 これは掲示板の話題のもとになった文章のひとつですが、これでは「一般的な普及が進まずにいる」のもむべなるかなという気がいたします。
 むろん、「エミュレーション」も「プロプライエタリ」も「メインストリーム」も、英和辞典を引けば大体の意味は分かります。カタカナ表記から英単語のスペルを推測するという、けっこう厄介な作業を介しての話ではありますが。
 しかし、日本文を読むのに外国語の辞書を備えておかなければならないとはなんたることでしょうか。そんな記事を書く記者は、そもそも記者の資格はないと断言して良さそうです。
 分かる人にだけ分かればよいのだという考え方もあるでしょうが、そうやって使う言葉の異なる階層が生まれてくるのは、日本にとって決して良いことではないような気がします。
 まずは公文書から、無意味な外来語を排除する方向になりつつあるのは何よりだと思いますし、だんだんと企業にも心がけて貰いたいものです。

(2003.1.28.)

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