私は夕方以降に外出することが多いのですが、この頃宵の明星がとても大きく見えるような気がします。つまり金星ですね。 外惑星と違って、内惑星である金星は、いちばん地球から近い時期(内合)には太陽と同じ方向になり、見ることはできません。いちばん見えやすいのは軌道上で90度くらい離れた時ではないかと思いますが、ともあれ太陽と月を除いては、全天でもっとも明るい星です。 子供の頃から、金星くらいはしょっちゅう見ていたと思うのですけれども、あんなにぎらぎらと輝いている星であったという記憶があまりないのが不思議です。星についていろいろわかり始める小学校の高学年くらいから眼が悪くなったせいかもしれません。小学6年生以来、ずっと眼鏡をかけていましたが、近眼鏡というのはものが小さく見えるものです。金星が大きく見え始めたのは、コンタクトレンズにして以降だったようです。 点状でなく、ちゃんと大きさを持った円状に見えるようにさえ思えるのでした。宵の口で、夕焼けの赤みがまだ残っている時間帯だと、血のような赤色に染まって見えることもあって、火星と間違えたりもしました。ともあれ、外を歩いていて西天に金星を見かけると、ついついじっと見入ってしまうのでした。
金星から地球を眺めたらもっと壮観かもしれない、と思ったりします。地球は金星より若干大きい上に、金星から見ると地球は外惑星ですから、いちばん近い衝の時に太陽と正反対となり、非常に見えやすいはずです。地球から見る金星よりも2倍くらい大きく見えそうな気がします。去年の夏、火星が数万年ぶりに大接近して、多くの人が夜半に空を見上げたと思いますが、金星から地球であればあれよりも距離が短く、しかも地球は火星の倍の直径を持っています。強烈に輝く青い星として見えることでしょう…… しかし、残念ながらそれは無理な話なのでした。金星は亜硫酸ガスの分厚い雲に完全に被われており、地表面に下り立っても、夜空の星を見ることは絶対にできません。摂氏400度以上というとてつもない高温であることを別としても、将来にわたって、金星に立って地球の輝きを見るのは不可能な夢のようです。
実は宵の明星・明けの明星というのは金星だけではなく、水星のことも指しています。水星はいちばん明るい時にはマイナス0.7等星(一等星より5倍くらい明るい)くらいになるようですから、決して暗い星ではありません。 しかし、水星を見たことがあるという人はかなり少ないのではないでしょうか。私も「あれが水星だ」と確信を持ったことは一度もありません。 天球の20度より高くなることはまずなく、たいていは10度より低いあたりをうろうろするだけですので、都会では周囲の建物などが邪魔になって、見るのは難しいでしょう。しかも太陽に近いので、太陽光にかき消されてしまう場合が多いようです。 上に、金星が夕映えに染まって赤く見えることを書きましたが、水星は太陽からの距離が短いために、まず確実に夕映えや朝焼けの色に染められるので、ピンク色に輝いて見えるそうです。 空気の澄み方や、周囲の灯火の明るさのことなどを考えると、水星は宵の明星としてよりも、明けの明星としての方が見やすいのではないかと思います。こんど東側に海を望んだ温泉場などに泊まることがあったら、夜明け前に露天風呂に漬かりながら水星を捜してみようかとも思っています。
ところで明けの明星のことを英語ではルシファーLuciferと言います。luc-というのは明かりや光を意味する言葉によくついている接頭辞なので納得できるのですが、ルシファーにはもうひとつ、サタンの異名という芳しからざる意味合いがあります。熾天使(してんし=セラフィムとも言い、天使の中でも最上位のランク)ルシファーが神に反逆して敗北し、地獄に墜とされて悪魔たちの王となり、サタンと改名したというのがカトリック神学の通説で、金星の高貴な輝きから考えるとずいぶん不名誉なことになったものだという気がします。 実はルシファーというのは本来バビロニアの国王の尊称のひとつであったそうで、その時代の意味合いはもちろん「明けの明星」でしかありませんでした。ところがイザヤという預言者が、バビロニアの凋落を予言して、
──黎明の子、ルシファーよ、あなたは天から墜ちてしまった。
と詠ったのでした。なんのことはない、政治評論家が週刊誌で「小泉はもう死に体だ」などとのたもうているようなもので、予言というよりいわば警世の句ですね。 ところがこのように詩的表現を用いたがために、後世の人々がこれを文字通りに、ルシファーなる者が天から墜ちたのだと解釈してしまったのでした。もとは天にいたのだからルシファーというのは天使だったのだろう、それが墜ちたということは、きっと神様に逆らったからに違いない……というわけで、堕天使ルシファーの誕生となった次第。 もっとも、金星の、他の星々を圧するぎらぎらとした輝きを見ていると、確かに魅入られるようでもあり、何やらまがまがしいものを感じぬでもありません。
ローマ人はこの星に、美の女神ウェヌスの名を奉りました。堕天使よりはだいぶ良いですね。英語読みするとヴィーナスです。ただ、ウェヌス、あるいはそのギリシャ神話ヴァージョンのアフロディテというのは、やはりバビロニアの地母神イシュタルとほぼ同一の神格と考えられているのですが、このイシュタルがまたユダヤ〜キリスト教世界ではアシュタルテ、あるいはアスタロトと変化して、サタンの片腕のような強力な大悪魔になってしまっています。どうもバビロニアというのはよほどユダヤ〜キリスト教世界から恨まれているようです。 「金星」と名づけたのは言うまでもなく中国人。惑星に神様の名前をつけたローマ人とは違って、中国人は肉眼で見える5つの惑星に、五行説の木火土金水の名を奉りました。即物的な気もしますが、逆にその星の名前から神様を作り出しておりまして、例えば「西遊記」ではしばしば金星が登場して孫悟空や三蔵法師を助けています。残念ながらヴィーナスのような官能的な美女ではなく、白いヒゲを生やした爺さんの姿で造形されているようで。
金星はこの先、4月半ば頃に最大の明るさ(マイナス4.5等星)に達するそうです。まだしばらくは、夕空に明るく輝く宵の明星を眺めることができるでしょう。
(2004.2.28.)
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