忘れ得ぬことども

追悼 河井英里さん

 昨夜(2008年8月6日)、ある葬儀に参列してきました。お通夜に行っただけで、今日の午前中にあった告別式には出られませんでしたが。
 そんなにメジャーではなかったとはいえ、けっこうメディアがらみの仕事などもしていた人ですので、故人の名前を出しても差し支えないでしょう。シンガーソングライターの河井英理さんです。
 彼女は大学時代の私の同級生でした。
 同級生とは言っても、大学のことですから、取っている授業が一致しているとかでない限りは、そんなに親しい感じもしなかったりするものですが、作曲科というところは1学年で20人しか居ないだけに、それなりのつながり感みたいなものはありました。
 私の学年の20人中、高校から現役合格したのは3人だけでした。私は一浪で、人数としてはこれがいちばん多かったように思います。他の大学に数年通ってから入り直したという同級生も何人か居ます。
 英理さんはそのたった3人の現役合格組のひとりでした。言い換えれば、同級生の中でもっとも若かったということです。
 その彼女が、真っ先に逝ってしまいました。

 在学中から、他の作曲科メンバーとは少々毛色の変わった人でした。あやしげな理論をふりまわしてこむずかしい曲ばかり書いていた同級生たちを尻目に、ポップス調の自作曲を弾き歌いしていることが多かったようです。
 1年生の大学祭の時に、20人全員で何か書いてやろうということになり、唱歌の「海」(♪うみはひろいな おおきいな♪のほうです)の変奏曲を作る企画を立てました。そんなことになんの芸術的意味があるんだというような窮屈な文句を言う人も居ましたが、ともあれ全員がひとつずつ変奏を持ち寄りました。結局曲想もスタイルもバラバラで、はたして企画として成功だったかどうかは微妙なところですが、英理さんの出品したのは、やっぱり弾き歌いのニューミュージック風で、それでも前奏と後奏に、確かに「海」のモティーフが含まれていたのを憶えています。シンガーソングライターへの道は、彼女には当時からはっきりと見えていたのでしょう。ある意味、凄みを感じました。

 芸大には「学内演奏」という、れっきとした単位があります。演奏科の場合はもちろん、きっちり15分くらいのプログラムを組んで演奏するわけですが、作曲科の場合は作品発表となります。学年末の提出作品に較べればずいぶん自由に書けますし、やりさえすればとにかく単位はとれるので、気楽な課題ではあります。
 英理さんは確かここでも、弾き歌いを披露しました。単位ですから、当然先生が誰かひとりふたり聴きに来て、一応採点をするわけなのですが、少々戸惑ったのではないかと思います。
 ちなみにその時、私は小コミックオペラ「上野の森」を上演しました。学内演奏のためにオペラを書いたのは、私が初めてではないにしても、珍しいケースではあったと思います。他の人の作品を思い出してみても、けっこうその後の創作傾向の萌芽のようなものが感じられ、気楽な課題とはいえ、そう馬鹿にしたものでもありません。

 卒業してからはほとんど会うこともありませんでしたが、5、6年前に彼女のライブを聴きに行ったことがあります。
 やはり同級生で、英理さんよりはもう少し私と接触のあった人が、そのライブで共演するということで、そちらから案内があったのです。
 その時のパンフレットやトークで、英理さんがずいぶんと幅広く活躍していることを知り、驚きました。テレビ番組のテーマソングやサウンドトラックなどいくつも手がけているとは、まったく思いもよりませんでした。
 久しぶりに聴いた彼女の歌声は、学生時代からほとんど変わりのない、くせのない透き通る音色でした。
 声だけではなく、もう30半ばを過ぎているというのに、容姿すらほとんど変わっていないことに驚かされました。大学の頃でさえどちらかといえばベビーフェイスで、女子高生っぽい雰囲気が残っている印象でしたが、その女子高生っぽさが、15年以上を経てそのまま残っていたことに、感心というか不気味さすら覚えたほどです。
 葬儀で飾られていた彼女の遺影も、学生時代そのままという感じでした。
 あるいは、それだからこそ長く生きられなかったのかな、とも思うのです。
 彼女の、永遠──になってしまった──稚(わか)さは、ある意味、はかなさを蔵していたからこそだったのかもしれません。

 ライブの後、私は一言挨拶して帰ろうと思ったのですが、あまりの混雑に辟易して、差し入れだけ受付に預けて、早々に退散してしまいました。
 もっともそのあと、うちに電話がありました。打ち上げ会場らしきざわめきの中でしたが、礼を言いにかけてくれたのでした。ふたことみこと話しました。言葉を交わしたのは十数年ぶりであり、そしてそれが最後になってしまいました。

 5年ほど前にガンの手術を受け、その時は無事回復して、ぎりぎりまで仕事もやっていたそうです。40代くらいの場合、ガンの進行が速いので、5年間再発がなければ、まあ完治と考えて良いらしいのですが、残念ながら5年目で転移が見つかり、今度は耐え切れなかったのでした。
 訃報は、ライブの時に案内をくれた友人が知らせてくれたのですが、その友人もいささか混乱していたらしく、お通夜の開始時刻を1時間早く伝えてきました。私はそれと知らずに出かけたため、まだ設営でバタバタしている葬儀場に到着して、手持ち無沙汰な1時間を過ごすはめになりました。しかし、物想いにふける時間がたっぷりあったとも言えます。
 学校の同級生だったというだけで、決して親しい間柄であったわけでもないのですが、やはり知っていた人がこの世にもう居ないのだと思うと、心にぽっかりと穴があいたような気分です。
 世代が上の、例えば先生などの場合なら、もちろん残念ではあり悲しくもあるものの、こういう空虚感には見舞われないような気がします。同年代の人が逝ってしまうことが、こんなに虚しい気分になるものかと自分でも驚きました。

 ぎりぎりまで仕事をしていただけあって、献花の名札もずらりと並んでいました。手持ち無沙汰な気分で眺めていると、私も名前を聞いたことのあるタレントやら事務所やらの名前もたくさんあり、英理さんの活躍ぶりがしのばれました。マンガ家の美内すずえさん(「ガラスの仮面」の作者)なんて名前もありましたが、いったいどんなつながりだったんだろう。その他私の趣味の範囲で言えば、声優さんなどもたくさん居ました。アニメやゲーム関係の仕事もしていたのかな。

 滅多に会わない他の同級生や友人にも顔を合わせました。
 健康や病気の話題が多くなるのは、年代から言っても、葬儀という場を考えても、やむを得ないかもしれませんが、やはりいささか滅入ってしまいます。
 「こんなことになる前に、クラス会でもしておけば良かった」
 と同級生同士で言い合いましたが、それもまあ詮無いことでしょう。英理さんが、久しぶりの人たちに引き合わせてくれたと思うべきかもしれません。
 ともあれ、ご冥福をお祈りします。  

(2008.8.7.)

【後記】 このしばらくあと、もうひとり同級生が亡くなりました。そちらはあろうことか孤独死であったようで、連絡が全然ないのでいぶかしく思った弟子が訪ねて行ったら、たったひとりで死んでいたそうです。彼は私と同じ一浪でしたから、当然同い年で、なんともやりきれない気分になりました。

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