ここしばらくマダムが不在で、私は仕事がたまっていてだいぶ忙しかったのですが、なんとか一段落つけたので、息抜きに一泊旅行に行ってきました。 とはいえ、そんなにゼイタクな旅行をする余裕もありませんので、久しぶりに、鈍行とローカルバスを乗り継ぐ、チープな旅にしてみました。 鈍行とローカルバスだけですから、それほど遠くへは行けません。 どこへ行こうか迷ったのですが、なんとなく海が見たくなったので、銚子へ向かうことにしました。この夏は夏らしいことをほとんどしておらず、せめて海を見るくらいはしたかったのでした。私のところからですと、伊豆か房総かという感じになりますが、銚子電鉄に乗ってみたくなり、そちら方面に決めました。 銚子から足を伸ばして、何やら北関東をぐるっと廻るルートになりました。 銚子には特急「しおさい」が通じていますが、今回は特別料金の必要な列車には一切乗らない方針でしたので、鈍行で行く方法を考えました。いろいろ検討した結果、 ・川口から南浦和に出て、武蔵野線から京葉線を乗り継ぎ、蘇我へ。 ・東金線というローカル線に乗りたかったので、外房線から東金線に直通する鈍行列車に乗り、成東へ。 ・総武本線の鈍行に乗り換え、銚子へ。 というややこしいルートを採ることにしました。こういう切符の買い方は川口駅の窓口で手間取るかと思いましたが、最近の発券機は優秀で、ものの数分で出てきました。「経由:東北線・武蔵野線・京葉線・外房線・東金線・総武線」と長々と注記されています。 スムーズに切符が買えたため、最初の京浜東北線の電車は予定したより2本前のに乗ることができ、次の武蔵野線も1本早い電車に乗れました。しかしその次の京葉線は、結局予定した電車まで蘇我行きが無く、南船橋駅であてどなく待つはめになっただけのことでした。 蘇我からの電車は、懐かしい113系です。ずっと昔の横須賀線に使われていた電車と思って下さい。房総の千葉以遠には、まだこの古びた電車が健在なのでした。とはいえ、時々すれ違う列車の中には、ステンレスの新しい211系もあって、それらは予想通りロングシートの味気ない造りです。 JR東日本がロングシート車ばかり増備するのは、もちろんそれなりの言い分はあることでしょうが、少なくとも旅情の面では減殺されること甚だしいものがあります。私が最近あまり鈍行旅行をしなくなったのは、田舎へ行ってもロングシート車が我が物顔に走り回っているからに他なりません。 東日本ではなくてJR東海の話ですが、先日関西に行く機会があった時、しばらくぶりに新幹線や高速バスを使わずに──つまり普通列車で──帰ってきたのですが、浜松から熱海という長距離を乗った電車が運悪くロングシートだけの編成で、最後近くにはほとんどからだが硬直していました。2時間以上走る列車には、ぜひともクロスシートを装備して貰いたいものです。 113系は昔ながらのボックスシートですから、その点は満足です。長年の間にしみついた、多少便所臭い匂いも、充分に我慢できます。 電車は大網から東金線に入りました。ごく短い路線で、ずいぶん以前に乗ったことはあるのですが、すっかり様子を忘れていました。大網駅が外房線と東金線とで駅舎自体分かれていることなども全く記憶していませんでした。 なぜそうなっているかというと、分岐してから駅になっているからです。富山地方鉄道の分岐駅にそういうのがよくありましたが、駅舎まで別というのは珍しいです。電化に際しての線路付け替えの事情でこうなったようです。東金線の電車はほとんど全部が千葉方面から直通するので、そちら方向との不便はありませんが、茂原方面と東金線との乗り換えは大変面倒なことになりますね。 そういえばもう25年くらい前に東金線に乗りに来た時、にぎやかな外房線とうってかわってがらんとした東金線の駅舎で、なかなか来ない電車を手持ち無沙汰で待ったのを思い出しました。 20分ばかりで東金線を走破し、成東駅の0番線に到着します。 0番線というのは、以前はあちこちにありました。基本的には、1番線が駅舎に面している場合、駅舎から外れた部分のプラットフォームを切り欠いて、短距離列車やローカル支線など、編成の短い折り返し列車を発着させるようにしたのが0番線です。現在は、駅舎の橋上化や、駅舎に面したプラットフォームの廃止が進んで、0番線を持つ駅はだいぶ減りました。成東駅に残っていたとは嬉しい驚きです。 総武本線の末端部には、八日市場や旭など、市制の敷かれている大きめの街もあるのですが、列車に乗っている限りにおいては、ひなびたローカル線以外の何物でもないように感じます。途中ですれ違った「しおさい」のオシャレなボディが、なんとも不似合いな気がしました。もっともその「しおさい」、末端の銚子ー成東間は特急であることをやめ、普通列車扱いになっており、乗っているのは高校生が大半でしたが。 ヒゲタ醤油の工場の脇を通り抜けて、銚子駅に到着しました。着いたプラットフォームをそのまま先に行けば、銚子電鉄の乗り場になっていますが、ひとまず外へ出て、切符を買い直して再度入場しました。 一輌だけの単行電車に乗り込むと、暑い空気がモワッとまとわりつきました。そういえば、冷房の無い電車に乗るのが久しぶりだったことに気がつきました。車輌は地下鉄銀座線のお下がりで、昔の銀座線の電車に必ずついていたドア脇の非常灯もそのままです。ただし単行運転するため、運転台は両端につけられています。私が銀座線に乗って大学に通っていた頃は、まだ冷房のついてない電車がけっこう多かったものです。今では信じられないような気がしますが…… 人気ゲームの「桃太郎電鉄」とタイアップしたジョイフルトレインでした。「『桃太郎電鉄』は銚子電鉄を応援します!」と書かれた車内広告や、外装のペイントはもちろん、座席のシートカバーにも桃鉄のキャラクターがプリントされています。 銚子電鉄はしばらく前に壊滅的な赤字を記録し、存続が危ぶまれていたのを、銚子市をはじめとする沿線からの援助、全国からの支援、副業の充実などで、なんとか続けられた鉄道です。全長6.4キロという小規模な鉄道だったために、ちょっとしたことでも大いに効果が上がったのでしょう。副業として有名なのは、銚子の特産である醤油を用いた「濡れ煎餅」で、今やネットを通じて全国から注文が寄せられるそうです。なんと本業である鉄道の3倍の売り上げを出しているというからすさまじい限りで、ほとんど煎餅屋が鉄道を経営しているような状態です。 途中の観音駅と犬吠駅などは、駅舎も何やらオシャレに改築されていました。切妻屋根の観音駅はタイ焼き屋と併設しており、陶板の駅名板を備えた犬吠駅には直営の土産物屋が附属しています。頑張っているなあ、と思いました。ゲームとのタイアップ企画なども、このミニ鉄道にとってはけっこうな収益になったでしょう。 単行の短距離路線にもかかわらず、ワンマンカーにしていないのにも好感が持てました。ワンマンになる時間帯もあるのでしょうが、私が乗った時には、高校を出たばかりみたいな若い車掌が、車内を行ったり来たりしていました。人件費を削減しなければならない観点からは無駄な乗務かもしれませんが、雰囲気を温かくして「また乗りたい」と思わせるほうが大切なのではないでしょうか。 6.4キロを20分ほどかけて走り、終点の外川(とがわ)に着きました。線路の先は急な下り坂になっており、その向こうは漁港です。まさしくどんづまりの終着駅です。外川を舞台にした23年前のNHK朝ドラ「澪(みお)つくし」(沢口靖子のデビュー作)の案内板がいまだに残っているのは、微笑ましいというか気の毒というか。 線路の先から少し振り返って外川駅の駅舎を見た時、前に銚子電鉄に乗りに来た時の記憶が一気に蘇り、時間を隔てた印象がぴったりと重なったので、われながら驚きました。ここに来たのは浪人中のことだったはずですから、ちょうど25年前……いま調べて「澪つくし」より前だったのが意外です。やはり線路の先に立って、この駅舎を眺めました。 その時、それからどうしたのかが記憶にありません。戻りの電車に乗って銚子へ帰ったか、あるいはバスにでも乗ったか。 今回は、漁港沿いの道路に下りて、犬吠埼まで歩いてみました。できれば犬吠駅の直営土産物屋にも寄ってみたいし、なんだったら銚子まで歩いても良いくらいの時間をとってあります。 少し歩くと長崎鼻があり、その北側に海水浴場もあるのですが、さすがにもう泳ぐことはできません。外海なので波も荒いようです。 前方に犬吠埼の灯台が見えてくると、車道から分かれて、海岸沿いの遊歩道が出ていましたので、そちらに歩を進めます。途中にトンネルのある変わった遊歩道でした。白堊紀由来の岩場に辿り着くと、親子連れやカップルなどが何組もたむろしていました。遊歩道は犬吠埼の崖下を巻いて設置されていますが、落石などの危険があるようで、ところどころ閉鎖されています。気にせずに柵を乗り越えて先へ進んでゆく若いカップルなども居ましたが、私はもう若くないので、危険を避けて引き返しました。10年前なら乗り越えていただろうな。 灯台を見学したり、資料館や土産物屋を覗いたりしてから、犬吠駅へ向かって歩きました。そんなに遠くはなく、じきに着きました。銚子電鉄の役に立ちたいと思ったので、犬吠埼の土産物屋では買わなかった濡れ煎餅をここで買いました。 電車の線路に沿った道があれば良いのですが、それは無さそうなので、ほぼ並行していると思われる道路を歩き始めました。鉄道はかなり曲がりくねって敷かれていますが、道路のほうは直進に近いので、むしろ距離は短いかもしれません。 陽ざしが強いので閉口します。長雨が途切れて、すっかり晴天になってくれたのはありがたいのですが、汗がたちまちだらだらと流れ始めました。それでも、風が吹けば涼しく心地良く、もう秋なのだと感じます。 それは良いとして、どうも足の爪先が痛くて歩きづらいので参りました。風通しの良いサンダル風の靴を履いてきているのですが、足の薬指の先が革の角に押しつけられるせいか、爪の端がささくれて、そのささくれがさらにひっかかって、数歩ごとに叫び声を上げるくらい痛くなっていました。両足とも同じ症状なのですが、特に左足がひどく、よく見ると血がにじんできています。絆創膏でテーピングしなければ、そのうち一歩も歩けなくなりかねません。腰を下ろせる場所がなかなか見当たらなくて難儀しました。 ようやく見つけたのは日なたの駐車場の端に積まれた低いブロック塀でした。日陰が好ましかったのですが仕方がありません。下を向いて絆創膏を巻き付けていると、汗がしたたって眼にしみました。 テーピングのおかげで、だいぶ歩きやすくなり、結局銚子駅まで歩ききりました。最後のあたりはヤマサ醤油の敷地内みたいな感じでした。ヒゲタもヤマサも銚子の醤油屋だったのですね。そういえばつい数日前は、キッコーマンの本拠地である野田市を訪れる用事がありました。なんだか醤油づいています。 今度は成田線の電車に乗って、香取へ。鹿島線の分岐駅です。もっとも鹿島線の電車は全部ひとつ先の佐原が起点で、佐原まで行ったほうが待ち時間も少ないのですが、一応切符の規則上香取で下りなければなりません。たぶん下りなくとも誰も何も言わないだろうとは思いますけれども、自分の気がとがめるのはやむを得ません。 さらに切符の規則上では、今度は途中下車前途無効なので、香取では駅の外に出ず、プラットフォームで待っていなければならないのですが、無人駅で改札も無かったので、こちらは規則を破り、外へ出てみました。朱塗りの神殿のような香取駅のしゃれた駅舎を眺めただけで戻りました。 鹿島線の電車は学校帰りの高校生が多くて、今回はじめて坐れませんでした。香取の次の十二橋を出ると、長い長い利根川橋梁を渡って茨城県に入ります。潮来、延方を過ぎると、今度はもっともっと長い北浦橋梁を渡って鹿島神宮へ。どちらの橋も、ローカル線にはもったいないほどの長大な建造物で、鹿島線単体のコストパフォーマンスは、この橋のために著しく低いのではないかと心配になりました。 電車は鹿島神宮止まりでしたが、切符はその先の鹿島サッカースタジアムまで乗れます。この駅までがJRで、その先は鹿島臨海鉄道になりますが、列車はすべて鹿島神宮で乗り換えです。そもそも鹿島サッカースタジアムは、試合開催日以外は列車の停まらない臨時駅です。 私は鹿島臨海鉄道で水戸へ向かうつもりなのですが、乗換駅である鹿島神宮で改札を出てしまうと、前途無効ですから鹿島サッカースタジアムまでの運賃を再度払わなければなりません。そこで、発車までは時間がありましたが、プラットフォームの反対側に停まっていた鹿島臨海鉄道の列車にすぐ乗り込みました。 もともと鹿島臨海鉄道というのは貨物主体の鉄道で、鹿島サッカースタジアム駅の前身である北鹿島貨物駅から奥野谷浜というところへつながっていました。今でも貨物線としては営業しています。旅客営業もわずかながらしていましたが、鹿島神宮と、鹿島港南なるなんにもない場所を結んでいただけで、しかも確か一日3往復とかそんなものだった記憶があります。成田空港への燃料輸送の見返りに旅客営業をしたということですが、「乗れるもんなら乗ってみろ」とでも言いたげな、ホントに客を乗せる気があったのか疑わしいような路線でした。 しかし、鹿島神宮と水戸を結ぶ「国鉄鹿島線」の計画が、国鉄再建にあたって潰れそうになった時、鹿島臨海鉄道が名乗りを上げて引き受けることにしたのでした。そんなわけで、鹿島臨海鉄道は現在、貨物線の鹿島臨港線と、旅客線の大洗鹿島線の2線区を擁する鉄道となっています。 何度か乗ったことはあるのですが、全線乗りつぶすのはずいぶん久しぶりです。途中で陽が暮れてしまったのは残念でした。 水戸で一泊し、翌朝は水郡線のディーゼルカーに乗り込みました。ステンレス車体の最新型キハ130系4輌編成です。ロングシート電車偏重のJR東日本も、ディーゼルカーに関してはなぜかセミクロスシートが多いようです。ただし通路を挟んで2人掛け+1人掛けが相対する形で、旧来のボックスシートより座席数は減っています。 黄色やオレンジを多用した色遣いも派手ですし、軽量車体のため加速も良く、電車と遜色ない軽快さです。 水戸からしばらくは、高校生が入れ替わり立ち替わり乗ってきて、にぎやかでしたが、常陸大宮あたりで大半下りてゆきました。 そのあたりからはすっかり農村風景が続きます。前日の千葉県内の田んぼは、すでに収穫を終えたり、そうでなくとも稲が籾の重みでほとんど寝てしまっていたりしていましたが、茨城県の田んぼはもう少しタイミングが遅れているようでした。距離的にはわずかな差だと思うのですが、気候が案外違っているのでしょうか。 水郡線はその名の通り、水戸と郡山を結ぶ路線で、全線を通して乗ったことが2回、支線の常陸太田に行くために乗ったことがその他に2回ありますけれども、途中駅で下りたことはありませんでした。しかし今回は、郡山まで行かず、磐城棚倉という駅で下車しました。茨城県側に較べ、福島県側は本数も減り、全くのローカル線扱いです。磐城棚倉はその中では「みどりの窓口」が設置されていたりして、比較的大きな駅と言えますが、それでもこぢんまりとした田舎駅に違いはありません。 ここから、東北本線の白河まで、JRバスが走っているので、それに乗ってみようと考えたのでした。鉄道よりさらにひなびたところを走るのではないかという期待がありました。 バスは磐城棚倉の駅が起点ではなく、その少し先の祖父岡、もしくはレクリエーション施設のルネサンス棚倉から出ています。少し時間があったので、そちら側に向けて少し歩いてみました。かつて棚倉城というお城があり、その城址が公園になっているようなので、行ってみようと思ったのでした。歩いてみると、時間的に城址公園までは行き着けず、その手前にあった鐘突き堂を見るだけにしました。時刻がちょうど10時で、その鐘の音が街中に響いていましたが、鐘突き堂に人の姿はなく、電動で突いているだけのようでした。 鐘突き堂の下に、歴代棚倉城主の列伝があったので、それを読んでいるうちにバスの時間が近くなりました。初代城主が、あの朝鮮の役の猛将立花宗茂であったことに驚きましたが、よく考えると確かに、関ヶ原で敗れて所領を失い、しばらく後に柳河の旧領に復する直前、棚倉何万石とかの経歴があったのを思い出しました。 棚倉の手前からバスに乗ったので、白河までの運賃が数十円高くなったようでしたが、まあ構いません。 バスは国道を行くので、思ったほどのひなびた風景でもありませんでしたが、この路線、途中で不思議なことになります。なんと、「バス専用道路」なる、国道と並行した道を走るのです。 ふと気をそらした間に、なんだかえらく細い道を走っていたので驚いたのですが、それが専用道路でした。全くバス一台分の幅しかなく、クルマがすれ違うことは不可能です。一般車はもちろん、歩行者もバス停近辺以外は立入禁止になっていました。ところどころに待避所があり、対向のバスとはそこですれ違います。本数はせいぜい1時間に1本程度なので、それで充分なのでしょう。 帰ってから調べてみると、これは大正5年から昭和16年まで存在した白棚鉄道に由来するとのこと。水郡線の全通により経営難となり、国鉄に買収されて白棚線になったものの、昭和19年に運行停止になりました。戦後、鉄道復活が何度か図られましたが、結局採算がとれるほどの需要が見込めず、かつての線路跡を舗装してバス専用道路として整備したそうです。単線の敷地を舗装しただけなので、バス一台分の幅しかないのも当然なのでした。国道289号線が未整備で、周りに舗装道路などあんまり無かった頃は、一種の高速道路としてかなりの威力を発揮したようです。現在は国道が整備されて専用道路区間がだいぶ減りましたが、それでも途中に信号というものがないので、渋滞知らずで好評なのだとか。 この専用道路が終わるあたりが「関辺」という地名で、近くに「関山」という地名もあるようで、きっと白河の関に由来するのだろうと思ったら、その通りでした。古代から中世、ここから先は別の国という感覚であったに違いありません。 バスは新白河駅を経由して白河駅へ向かいます。新白河は新幹線との接続駅で、駅舎も駅前も甚だ非個性的でしたが、白河駅のほうは風雪に耐えた風格のある、重厚な駅舎でした。新幹線が通ったあとに、新幹線との接続ができなかった大駅の例に漏れず、なんだか寂れてしまい、駅員も常駐でなくなったようで、かつての待合室もがらんとしたただの空間になり、没落旧家を見るような想いにかられましたが、それでも薄っぺらい新白河駅とは較べ物になりません。バスを新白河駅で下りておいたほうが、バスも鉄道も運賃が少しずつ安かったのですが、白河駅まで乗って良かったと思いました。 白河駅の裏手には、小峰城址があります。本当はこういう言い方はよろしくなく、「お城の前に駅がある」と言うべきなのでしょうが、今となっては仕方がありません。天守閣も復元されており、こんなに駅から近いお城というのは福山城くらいしか思い出せないほどです。白河駅は何度か、列車に乗って通過したことがあるはずなのですが、このお城のことは気がつきませんでした。 小峰城という名にはあまり馴染みがありませんでしたが、白河藩といえば、あの ──白河の水の清きに住みかねて元の濁りの田沼恋しき と揶揄された、寛政の改革の松平定信が藩主だったところです。「田沼」はもちろん田沼意次。定信は田沼の重商主義路線を全否定し、徹底した歳出削減と農本主義を推し進めました。定信の祖父であった八代将軍徳川吉宗の路線を復活させたわけですが、この時代の歳出削減というのは武家の出費を抑えるだけではなく、庶民にも倹約や、娯楽の制限を押しつけるものでしたので、きっと暮らしづらい世の中であったろうと思われます。人々は田沼の賄賂政治を批判して退陣に追い込みましたが、失われてはじめてその良さが偲ばれたというところでしょうか。江戸の人士は文句たらたらでしたが、地元白河では名君として称えられています。 少し時間があったので、城址公園の中を散策しました。 白河から東北本線の電車に乗り、今度は群馬県との境を越え、西那須野へ。 新幹線開通後、東北本線の閑散部分の凋落も甚だしいものがあります。今や編成の短い電車が1時間に1本くらいずつ走っているに過ぎません。十数輌の列車が停まれるように作られた各駅の長大なプラットフォームが、巨体を虚しく雨ざらしにしている様子は、もともとのローカル線よりもむしろわびしさを感じます。上越線などでも同じような光景を目にすることができます。 また、国鉄時代のこういう幹線の駅は、小駅でも2面3線という造りが基本でした。改札をくぐるとそのまま1番線で、跨線橋を渡って2・3番線のプラットフォームへ、という形が多かったのです。しかし、特急が通ることもなくなった現在では待避線の必要もなく、3本の線路のうち1本を取り外している駅も少なくありません。そもそも白河駅も、今や島式プラットフォームが1面あるだけですが、もともとどんな駅であったか、どうも思い出せないのです。もう少し大きかったのは確かだと思うのですが。 西那須野も新幹線から外れた駅ですが、駅舎が橋上化されたりして、多少は近代化されていました。ここから再びJRバスに乗り、塩原温泉へ向かいます。海沿いから思いきって山の中へという対照の妙を楽しみたかったというのが第一義ですが、公共浴場でもあったらひと風呂浴びてゆきたいと下心もありました。塩原温泉からはさらに北上して、野岩鉄道の上三依塩原温泉口駅へ抜けるつもりです。 塩原温泉という温泉地をはじめて訪れましたが、実はひとつの温泉場ではなく、相当広域に及ぶいくつもの温泉場の総称ということのようです。その中で、バスターミナルはけっこう北の外れのほうにあり、残念ながら1時間ばかりで軽く入浴できるような公共浴場は近くには見当たりませんでした。 ただ、「もみじの湯」というのが近くにあるということを聞いていましたので、それを探してみました。 ほどなく見つけました。川沿いの散策路の途中に、ヨシズ掛けされた小さな野天風呂が……。 「浴場」というほどのものではありません。ただ道端に湯が湧いているのを、簡単に整備しただけという感じです。 対岸の建物から見えないように、目隠しはされていましたが、横手にある吊り橋の上からは丸見えで、女性にはお奨めできません。私も、入ってはみたものの、何やら落ち着かなくて、5分余りで上がってしまいました。それでも汗をかいていたので、多少はさっぱりした気がします。 塩原には多くの文人墨客が訪れたそうで、文学碑なども多く残っています。「もの語り館」という資料館があったので、そこで残りの時間を潰しました。斎藤茂吉の特設展示をやっていましたが、シアターでは尾崎紅葉を扱っていました。夏目漱石も来たことがあるそうです。 広域に渡る塩原温泉には、他にもいろいろなレクリエーション施設がありそうでしたが、何しろそれらを廻っている時間はありません。バスターミナルに戻って、上三依塩原温泉口駅行きのバスに乗りました。ゆーバスと名付けられた小型のバスで、200円均一ということですので、一種のコミュニティバスのようなものですが、れっきとしたJRバスです。 温泉街の北外れにあったバスターミナルから、さらにしばらく上流へさかのぼっても、ちらほらと温泉宿が目につきました。すでに温泉「街」という感じではなく、一軒宿があちこちにという様子です。 それも尽きると、峠越えの山道となり、やがて向こうの山肌に沿って伸びる野岩鉄道の高架線が見えてきました。 上三依塩原温泉口駅前には小さなバスターミナルと飲料の自動販売機の他、何もありません。駅舎に売店くらいあるかと思ったのですがそれもなく、業務委託されたらしいおばさんが出札口にぽつねんと坐っているだけでした。 北千住までの切符を買います。野岩鉄道は自前の列車を持たず、東武鉄道と会津鉄道の列車が乗り入れるだけの、いわゆる第三種鉄道業者です。東武からは、かつて急行「南会津」と快速電車が直通していましたが、「南会津」は廃止され、快速もほとんどが「区間快速」となってしまいました。快速は日光線と合流する下今市まで各駅停車でしたが、区間快速はなんと伊勢崎線と合流する東武動物公園まで各停で、当然時間も余計にかかるようになりました。現在の民鉄ではいちばん長時間走り続ける列車ではないでしょうか。 クロスシートなので救われるとはいえ、3時間半乗り続けるのはさすがにくたびれます。しかし、「特別料金をとられる列車には乗らない」という方針を貫くため、特急に乗り換えることはしませんでした。 東武日光線の末端、栃木以遠あたりは特急やかつての急行・快速で突っ走るばかりで、各駅停車でじっくりと乗ったことは無かったので、今回それなりに楽しめましたが、陽が暮れてきて、景色も見えなくなってくると、いちいち駅に停まるのがだんだん鬱陶しくなってきました。後ろの座席で、ワールドスクエアにでも行ってきたらしい若者のグループが、小佐越からずっと騒ぎ続けているのもうんざりしました。やはり快速の日中運転を再開して貰いたいものです。 久々に趣味全開の旅をしてみました。時々やらないとフラストレーションがたまるようです。 (2008.9.3.) |