忘れ得ぬことども

ローマ字表記法

 今度シチリアで演奏会をするために、私のプロフィールを求められましたが、これは当然イタリア語訳されて向こうに渡ることになります。
 私の名前も、ローマ字で表記されることになります。
 本名(猪間道明)をローマ字表記すると、もちろん「Michiaki Inoma」ということになります。
 いまだに姓名をひっくり返して言うという点も、一度じっくり考えなくてはならないところだと思いますが、とりあえず今は別のことを書きたいので、措いておきます。
 今日書きたいのは、ローマ字表記ということです。

 上の表記で、「ち」の音を「chi」という文字で表していますが、この書き方はヘボン式によるものです。ヘボンというのは幕末に日本に来て病院を経営し、また聖書の日本語訳に参加したり、明治学院の学長をやったりしながら明治25年まで日本に滞在したアメリカの宣教師ジェームズ・カーティス・ヘボン(1815-1911)のことで、ヘボン式は彼が考案した日本語のローマ字表記法です。なお、ヘボンのもとの綴りはHepburnで、あの大女優オードリー・ヘプバーンと同じ名前です。本来の発音はヘプバーンよりヘボンの方が近いとか。
 このヘボン式は長らく日本語の表記として使われていましたが、サ行・タ行・ハ行など、子音が一定していないので憶えずらいという欠点があり、日本人の手により日本式ローマ字綴り法も作られました。これによると、「ち」は「ti」になります。
 が、この日本式は結局定着しませんでした。tiという綴りを見ればどうしても「てぃ」と発音したくなるのが人情というものです。日本人の便宜上はよかったかもしれませんが、他の国の人が見てわからないのでは意味がありません。特に戦後進駐してきた米軍兵士には、ヘボン式の方が都合がよく、そのためGHQの指示によって、公式の場でのローマ字表記はヘボン式によるべきことが定められました。

 そのこととは別に、戦前からずっと「日本語ローマ字化運動」というものを繰り広げている人々がおります。漢字仮名交じりという現在の表記は非効率的で日本の発展の妨げになるから、ローマ字で表記すべきだと主張する人々で、確かに、もし彼らの主張が通っていれば、日本人がローマ字表記を憶えるためには日本式の方が都合がよかったでしょう。
 しかし、特に漢字仮名交じり文を改めることもなく、日本は現にここまで発展してしまったので、漢字仮名交じりが発展の妨げになるなどというのは根拠のないことであったことが明らかになりました。最近はローマ字論もだいぶトーンダウンしているようです。私の子供の頃は小学4年生で強制的に憶えさせられましたが、この頃はどうなっているのでしょうか。
 ともあれ、日本式ローマ字綴り法はほぼ廃れ、ローマ字表記としては昔ながらのヘボン式が生き残っているわけです。

 ところが、私の作品がローマで演奏された時のプログラムなどをつらつらと眺めていて、ふと気づきました。
 イタリア語で「chi」という綴りは決して「チ」とは読みません。「キ」になります。「Michiaki Inoma」という私の名前を見たイタリア人は、「ミアキ・イノマ」と読むはずです。イタリア語で「チ」という発音を表すためには、hを抜いて、「ci」と書かなくてはなりません。
 そう考えると、フランス人も「chi」を見たら「シ」と発音するであろうことに思い至りました。ドイツ人は「ヒ」と読むでしょう。「chi」を正しく「チ」と読んでくれるのは、英語圏の人間だけではないでしょうか。
 どうも、「チ」を表すためには、「ci」の方が合理的なのではないかという気がしてきました。
 こう書いても、フランス語では「スィ」と読まれてしまうでしょうが、まだ「チ」に近い発音で読んでくれる人が多そうです。ただ英語圏の人は、「チ」か「スィ」か迷うかもしれません。英語というのは発音と綴りが一致せず、一名を「悪魔の言語」といいます。

 もうひとつ、前から気になっているのが、
 ──ラ行をRで表記するのは妥当だろうか。
 ということです。
 日本人のラ行の発音は、上顎の固いところに舌を当てて出します。
 これは英語で言うと、RとLの中間に当たります。英語のRはもっと奥の軟口蓋に、舌を当てるか当てないか程度に軽く触れさせて出します。一方Lは、ラ行よりもっと前の、歯の裏側あたりに舌を当てて出します。日本人はLの発音がうまくないと言われますが、RとLの中間の音に馴れているのだから、正しくはRもうまくないと言わなければなりません。
 しかし、よくよく舌であちこち探ってみると、ラ行はまだしも、Lの発音に近いのではないかと思うのです。
 ラ行は、Lで表記すべきではないでしょうか。

 Lで表記するメリットは他にもあります。Lの発音は、主なヨーロッパ語を通じて、あまり変わらないのです。フランス人でも、ドイツ人でも、イタリア人でも、ロシア人でも、ほぼ同じように発音します。
 ところが、Rという子音は、言語による揺れがおそろしく大きいのです。
 ドイツ語やイタリア語では、完全に巻き舌となります。ドイツ語では母音を伴わない場合「ア」に近くなる場合がありますが、いずれにしても日本語のラ行とは似ても似つかない発音です。江戸っ子のべらんめえ調でも巻き舌はありますが、それを日本語として代表させるわけにもゆきません。
 さらにフランス語だと、舌はどこにも触れさせず、あたかも痰を吐く時のように喉頭を摩擦させる発音になってしまいます。日本人が聞くと、ラ行どころかほとんどハ行に聞こえます。ごく普通の挨拶、

 ──Au revoir.(さようなら)

 は、「オー・ルヴォワール」とは全然聞こえませんし、そう言ってもフランス人には全然通じないでしょう。カタカナで書くなら「オホヴアーハ」の方がよほど近い。
 実際、「はら・ひろし」さんという名前の人がフランスに留学したら、フランスではHも発音しないため、どう聞いても

 ──イホシ・アハ

 としか聞こえない呼ばれ方をして面食らったという話があります。
 この場合、ラ行をLで表記していれば、少なくとも

 ──イロシ・アラ

 と聞こえる発音で呼んではくれたはずで、Hが飛ぶ違和感はあるものの、Rで書いた時に較べればずっと本来の発音に近い聞こえ方になったでしょう。
 そして、ローマ字を使う他のたいていの国でも、laは日本人にも「ら」と聞こえる発音で読まれますし、loも「ろ」と聞こえます。向こうも、laと書いてあるものを日本人が普通に「ら」と読んでも、そんなに違和感はないでしょう。しかしraを「ら」と読むと、まずどこの国でも、

 ──日本人はRの発音が下手だ。

 と考えられてしまうことは間違いありません。

 日本も大国となり、英語圏だけを相手にしていればよい時代でもなくなりました。そろそろ、140年近く英語にばかり準拠していたローマ字表記法を見直す時期なのではないかと思えます。

(1998.12.5.)

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