芸能人が何人もで高級料理を食べ、目標に設定された代金に近い額になった人が勝ちで、いちばん遠かった人が負けになって全員分の料金を払う、というテレビのバラエティ番組が物議をかもしたようです。東日本大震災で避難所から帰れず、僅かな配給の食べ物しか食べられない人たちがまだ居るのに、食べ物をゲームにするのは不謹慎だというクレームがついたのでしょう。 今度のようなことがあると、何事によらず、不謹慎だと文句を言う人は少なからず居るもので、2ちゃんねるあたりでは「不謹慎厨」と揶揄されています。なお「厨」というのは――私が今更解説することもなさそうですが――2ちゃんねるでいろんな説や意見に子供じみた固執を示してやたらと食い下がる投稿者のことを、一般的にそういう傾向の強い中学生くらいの年代になぞらえて「中坊」、もしくはもっと限定して「中2病」などとからかい、その「中坊」をわざと誤字にして「厨房」と書いていたのが、さらに略されたものであるようです。今回の震災がらみでも、「危険厨」(やたらと危険や不安をあおる連中)、「安全厨」(原発の状況などに関して、政府発表などを鵜呑みにしてやたらと安全を強調する連中)、「擁護厨」(政府とか東京電力の対応は決して悪くないと言い張る連中)などの用語がお目見えしました。「不謹慎厨」もそのひとつです。 震災後、アニメ番組が再開した時も「不謹慎」とのクレームがついたそうですし、今後も何かあるたびにそんなクレームをつける人は居そうです。そういう人が震災でずいぶんひどい被害を被っていたのかというと、どうもそうではなさそうで、義憤にかられたというところでしょう。
他人のために怒ることができるというのは、それ自体は美しい心情だと思いますし、そういう気持ちが人々から無くなった時の殺伐さを考えると背筋が寒くなる気がいたしますが、時としてお門違いに憤っているケースがあり、そういう場合は少々はた迷惑なことになります。 例えば数年前にあった事件ですが、書店で万引きをした少年が警察に通報されてつかまりそうになり、逃げ出して閉まっている踏切を強行突破しようとし、来合わせた電車にはねられて即死したということがありました。冷静に考えれば万引き少年の自業自得としか思えないのですが、変な方向に義憤にかられた人々が書店の主人をさんざん批難し、いたたまれなくなった主人はついに店を畳む羽目になりました。万引きと言っても子供のことだし、何も警察を呼ばなくても良かっただろうというのがその人々の憤りであったでしょう。しかし、だからと言って少年の親でも兄弟でもない連中が、もともと被害者である書店主を糾弾する資格があるとは思えません。 ほとばしる向きを間違えた義憤というのは、かように迷惑なものです。人間、感情という猛獣にはつねに理性という鎖をつけておく必要がありそうです。
さて、冒頭に挙げた番組は、マダムは愉しんでちょくちょく見ていましたが、私は何が面白いのかよくわからず、あまりまともに見たことはありません。いったい、芸能人が高いメシを食べるのを見てどこが楽しいのか、ネットの反応を見ても、喜んで見ているのはおもに主婦層であったようで、男は冷淡な態度の人が多い雰囲気でしたから、わが家の状態はすこぶる標準的であったと思われます。
とはいえ、正当な対価を払って食事をしているというだけのことですし、パイ投げのごとく食べ物を無駄にしているわけでもありませんから、そう目くじらを立てるほどのこともないように思われます。
テレビ局のほうも、しばらくはだいぶ気を遣っていたようで、食べ物によるゲームを主体とする番組は自粛していたようです。マダムが好きなもうひとつの番組で、芸人が出てきて毎回ひとつの店で売り上げベストテンの料理を当てるまで店から帰れないというのがありますが、震災後数回は食べ物を扱うのはやめて、カラオケ店で全国一位をとるまで帰れないという趣向に変わっていました。食べ物屋と、電力を大量使用しそうなカラオケ店と、どちらが不適当であったかわかったものではありませんが、ともあれ「食べ物でゲームをするとは不謹慎」のクレームを避けたのだろうとは想像できます。
ただやはり、視聴率は落ちたことでしょう。外出時はビデオ録画までしてその番組を見ていたマダムも、カラオケ編になるとぱったり見なくなっていました。
元の形の番組を再開するにあたっては、局内でも慎重論がかなり出されたのではないかと思いますが、一ヶ月は経ったことだし、そろそろいいのではないかということで公開したものでしょう。
その意味では、クレームが来るのはある程度予測していたかもしれません。
一方クレーマーのほうも、もともとそういう番組がまた出てきたらすぐにクレームをつけてやろうと手ぐすね引いていたんではないか、という、うがった意見もネットで散見しました。こうなると義憤というのとは違ってきそうですが、そういうことにいささか歪んだ喜びを覚える人というのも世の中に居ないことは無さそうです。
何かと「不謹慎」を連発する人というのは、どこかに後ろめたさがあるような気もします。
私なども、揺れの被害は周りで聞くよりずっと少なかったようだし、停電もさほどダメージをこうむらなかったし、きわめて軽微な不都合で済んでしまったため、かえってなんだか申し訳ないような気分になったものでした。もちろん仕事がキャンセルになったりして先月の収入が大幅に減り、二次被害みたいなものは大いにこうむっていますが、それはまた別の話です。
いずれにしても、テレビで繰り返し被災地の惨状を流され、あんなにつらい想いをしている人たちが居るのに、自分がぬくぬくと安全地帯で起居していることに申し訳なさ、後ろめたさを覚えた人は少なくなかったことでしょう。
日本人には特にそういう心情があるようです。戦前戦後のマルクス主義大流行の頃に、中流以上の家庭に育った青年が自分の境遇の豊かさを深く恥じ、あえてブルーカラーに身を投じて社会主義運動に邁進するというような話がよくあったのも、似たような心情からだと思います。彼らの心にも、大いなる義憤があったに違いありません。義憤のあまり、自分も擬似的な被抑圧者を演じてみせ、彼らが本来属しているはずの資本家階級・ホワイトカラー階級を激しく罵ったものです。
この構造は、脳天気なテレビ番組を罵る擬似的被災者ないし同情者の図と、実によく似ています。
が、当の労働者たちが、そういうマルクスボーイたちに感謝したとか、少なくとも自分たちの仲間として迎え入れたかというと、あんまりそういう風でもなさそうです。同じように、本当の被災者のかたがたが、不謹慎だとテレビ番組にクレームをつけている人たちのことを知っても、別にありがたくも思わないんではないでしょうか。
私がもし避難所暮らしをしていたとして、なんとかかんとかテレビを見られるだけの余裕が出てきた時に、以前と同じ番組をやっていたら、俺たちを馬鹿にしやがってと怒るどころか、むしろホッとするような気がします。もちろん、それもまた私個人の勝手な想像に過ぎませんが……
要するに義憤というのは、後ろめたさの代償行為であることが多いように思うのです。あるところにひどい目に遭っている人が居て、その一方に安楽にしている自分が居て、それがなんともいたたまれず申し訳ない気分になっている時に、社会の何事かに対して、ひどい目に遭っている人々の代わりに怒ってやることで、いくぶんか申し訳なさが解消されるという心の働きです。それは確かにあると思いますし、そういう心の働きをいちがいに否定すべきでもありません。
ただ往々にして、その怒りをぶつけられる側としては、八つ当たりみたいに思えることが珍しくないし、冷静な第三者から見ているとむしろ「いい気なものだ」と言いたくなる場合が多いことは考えておくべきかもしれません。
――番組は別にどうでもいいが、不謹慎厨うぜえ!
というような発言がネットで多かったのも、まあそういうことなのでしょう。
義憤にかられる、という気持ちになることは、生きていればこれからもしょっちゅうあることと思いますが、憤りのままの勢いで行動する前に、いちど理性のフィルターを通してみる必要があるかもしれません。それでもやはり黙っていられないと思えば、すみやかに行動すれば良いと思うのです。
(2011.4.19.)
|