忘れ得ぬことどもII

わが家系を語る

 父のイトコ会という妙な集まりに出てきました。
 私の祖父には兄がふたりと妹がひとり居り、その四人兄妹の子供たち、つまり父の世代が17人居ます。そのうちふたりは若くして亡くなりましたが、残り15人は健在で、しばらく前からイトコ会というのを結成し、時々集まっていたようです。
 京都府綾部市というところに私の先祖の地所があり、その近辺が再開発されることになって、役所から土地を買いたいという話が来たそうです。私の祖父の代はすでに全滅しており、父の代の人たちが返事をしなければなりませんでした。まさかそんなところに土地を持っていたとは誰も知らず、久しぶりにイトコ一同集まって会議を持ったというのがはじまりだったように聞いています。綾部などには誰も住んでいないし、そもそも土地を持っていること自体知らなかったわけなので、再開発用地として売ることに即決し、売った代金は15人で等分に分けることにしたらしい。固定資産税なんかは誰が払っていたのでしょうか。
 売る前だったかあとだったか、みんなでその先祖の地を見学に行くということもしたようです。彼らの子供の世代、つまり私の代には声がかからなかったので、あとで知って残念に思いました。私もけっこう歴史に興味がありますし、先祖のことを知りたい気もしていました。
 ともあれその頃から、1年か2年に一度くらい集まって会食をする催しが持たれるようになったようです。そして今回はじめて、下の世代にも声をかけてみようということになったようです。
 むろん平日の昼間ですから、下の世代と言ってもたいていは勤めを持っていたり子育て中だったりするわけで、出席できるのは私のような無職自由業の人間ばかりです。私もマダムも、今日は仕事がありましたが夕方近くなってからのことでしたので、正午から15時までのこの集まりのための時間は空いており、面白そうなので出席することにした次第です。

 前にも書いたことがありますが、私の先祖は山家(やまが)という小さな藩の武士でした。今でも山陰本線の綾部駅の隣に山家駅というのがありますが、特急などは一本もとまらない山間の小駅です。
 山家藩は、豊臣秀吉に仕えた谷衛友(たにもりとも)という武将を藩祖としています。あんまり知っている人も少ないでしょう。衛友の父の谷衛好(もりよし)は織田信長の家臣で秀吉の組下となっており、確か一時期秀吉の鉄砲頭になっていたと思います。戦国シミュレーションゲーム「信長の野望」ではかろうじてこの衛好だけは登場していたように記憶していますが、その三男の衛友までは出てきません。秀吉から山家の領地を貰いましたが、関ヶ原の戦いの際、西軍に属して東軍の細川幽斎がこもる田辺城を攻略する軍に身を置いていましたが、衛友は幽斎に和歌を習っていたもので、「わが師を攻めるわけにはゆかぬ」と言って戦線離脱しました。このことが功績と見なされ、改易を免れ本領安堵されました。まあ消極的協力だったので、加増ということまでにはならなかったのでしょう。
 1万6千石と言いますから、ほとんど最小に近い大名です。その後6千石を分知したため、1万石になりました。1万石を切るともはや大名ではなく、旗本になってしまいますから、文字通りの最小の大名であったわけです。とはいえ、江戸期を通じて一度も国替えも減封もされなかったところを見ると、それなりにしっかりした殿様が続いたのでしょう。
 私の先祖は、この粟粒のような大名家に、もういい加減幕末近くなってから取り立てられたのでした。高祖父にあたる猪間義綱という人が士分としての第一世ですが、跡を継いだ養子の収三郎(私の曾祖父)という人が明治維新を迎えて早くも士籍を離れています。
 それまでは商家であったようで、たぶん各地との取引などの関係で世情をよく知っていたのと、代々好学の家系だったようなので、幕末の不透明な時期になって、急遽、谷家の殿様に謀臣のようにして召し抱えられたということなのだろうと思います。
 その収三郎氏が作成した系図を私の父が改訂したものを見ながらいま記しているのですが、収三郎氏自身は野田家というところから養子に来た人だったようです。どうも昔の養子縁組のつながりというのはよくわかりません。収三郎氏は義綱氏の娘ではなく、遠縁の一夫という人の娘をめとっています。それがなぜ義綱の養子になったのか、しばらく考えないと理解できないのでした。
 一夫という人は、義綱の父である義近の養子になっています。義綱が武士になってしまい、他に男子が無かったので、もとの商家のほうを継がせるために遠縁の一夫を養子にしたらしいのです。そして、義綱には実子ができなかったので、義弟である一夫の娘・野枝の婿であった収三郎を養子としたということのようです。一夫にも息子はできず、4人の子はすべて娘でした。なお、収三郎は野枝の死後、野枝の妹のと再婚しています。昔は家を保たせるのが何より大事だったので、そういうことはよくおこなわれていたようです。

 収三郎は、野枝との間だか祐との間だかに、驥一(きいち)、騮二(りゅうじ)、駿三(しゅんぞう)、光子の三男一女をもうけました。この駿三が私の祖父にあたります。息子の名を全部馬ヘンで揃えたのはわかりますが、それにしても難しい字ばかりつけたものです。祖父は自分の名前の馬ヘンが気に入らず、自分の息子にはこの馬ヘンをニンベンに変えた「俊」の字を与えました。私の父は明俊、その兄(私の伯父)は英俊と言います。
 大伯父の猪間驥一は大学教授であったことは知っていましたが、戦後しばらく、石橋湛山のブレーンをしていたという話を今日聞いて驚きました。都市計画が専門だったようですが、出生率研究についてのパイオニアでもあったそうです。大学の先生としては、全共闘などが暴れている時期に、終始硬骨の態度を保ち、退官記念講義など当時できる状態ではなかったのに、自分で場所を手配して実現してしまったとか。この人のエッセイ集を読んだことがありますが、とても面白く読めました。「候文」が廃れたのを惜しんでいた文章が印象に残っています。借金の申し込みなど、口語文ではどうしても卑屈な感じになってしまうのが、候文を使えばきわめて事務的に、しかもいくぶんユーモラスに伝えられるのに……というわけでした。なるほど、
 「この頃お金まわりが悪くて大変困っております。どうかわずかばかりお借りできませんでしょうか」
 というよりも、
 「昨今手許不如意につき困却仕り候。不躾ながら些少ばかり拝借仕りたく存じ居り候」
 のほうが、少なくとも卑屈な感じはしませんね。
 ネットで検索しても、猪間驥一の名前はけっこうヒットします。その下の騮二になると、ほとんど出てきませんが、スペイン語学者であったようで、いくつかの翻訳が残っています。大阪外語学校大阪外語大の前身)で語学を学んだと、これも今日知りました。してみると司馬遼太郎氏や陳舜臣氏などの先輩になるわけです。
 そして祖父の駿三は、技術畑の人で、戦争中は陸軍の技術将校でした。主に輸送関係に携わっていたようですが、軍の上層部が輸送に無頓着、むしろ冷淡であったことを、晩年に至るまで憤っていました。確かに太平洋の島々に部隊をばらまいてしまって、その後の補給などが実にいい加減であったことはつとに指摘されています。そもそも日本人は、古来から輸送や補給といった感覚が鈍かったようで、その感覚が充分にあった武将は、私の見るところ豊臣秀吉ただひとりです。織田信長でさえ不合格だと思います。なお祖父は戦後はプラント輸出などに関係し、特に東パキスタン(現在のバングラデシュ)とのつながりが深かったようです。本も何冊か書いていますが、専門書や教科書のようなものが多く、一般向きではありません。


 話を聞いたり調べたりすると、私の家系もなかなか面白い人が多いようです。もう少し早い時期からイトコ会に出席していれば良かったと思ったりしました。
 今日は「下の世代」──つまり私の代は3人だけの出席でした。私と、私の妻であるマダムと、もうひとり松岡麻子さんという人です。この人はソプラノ歌手として活動しています。やはりそういう仕事をしていないと、平日の昼間の会合などには出てこられないでしょう。要するに3人とも音楽家というわけでした。
 ちなみに父の代、つまりイトコ会の正規メンバーにプロの音楽家がひとりだけ居ます。横山貞子さんというフルート奏者で、祖父の妹の光子の娘になります。トルコ人と結婚して、イスタンブール在住のため、今日は欠席でしたが、私が最初についた作曲の先生は貞子さんに紹介して貰ったので、わりと恩があります。
 今日の会場は大久保にあるライブハウスで、昼間の3時間を借り切って利用しました。幹事役の「ボブちゃん」(と父は呼んでいる)の行きつけの店だそうで、しかもランチタイムに定期的にBGM演奏で入っているフルート奏者にオカリナを習っているのだとか。そのフルート奏者にわざわざ来て貰って演奏を頼んでいたのでした。
 もっとも出席者のほうに3人も音楽家が居るので、そちらの演奏もおこなうことになりました。麻子さんは2曲ほど自分で用意して、上記のフルート奏者とその伴奏ピアニストと一緒に歌っていましたが、もうひとつ、私の曲もやりたいということだったので、去年作った『おばあさんになった王女』の中の王女のアリアを一曲歌って貰いました。また私たち夫婦は、自分らの結婚式の際にふたりで初演した『La Valse de Mariage』というピアノ連弾曲を再演しました。どちらもワルツ風の曲で、耳には馴染みやすいため、愉しんで貰えたものと思います。あとマダムは単独で、やはり私の作品である『South Island Lullaby』を弾いてくれました。
 居並ぶ人たちの中で、私の曲を聴いたことがあるのはごく一部だと思いますが、ただ本人でなくとも知り合いが合唱をやっていたりして、『TOKYO物語』などのことをけっこう知っていたりするようなので、おやおやと思いました。
 なお松岡麻子さんは、面識はあったし遠縁であることも知っていたのですが、具体的にどういうつながりなのかはよくわかっていませんでした。漠然とハトコくらいになるのかと考えていましたが、これも今日出た話と系図を見較べてようやく判明しました。収三郎の妻であった野枝および祐の妹にという人が居り、収三郎を武家(義綱家)のほうに取られてしまった商家(一夫家)ではこの滋に入り婿をとって跡を継がせました。この滋の次女を田鶴子といい、麻子さんはその孫にあたるのでした。普通、親戚というのは曾祖父母を同じくする6親等までを指しますが、曾祖母の妹の曾孫ですから、8親等ということになります。まさに遠縁と言うべきで、民法上は親戚ですらないのでした。
 それでも広い意味での一族ではあるわけです。大して誇るに足る家系でもなんでもないとはいえ、何代も前からのつながりと、その拡がりを考えると、もっといろいろ知りたいという気持ちが強く湧いてくるのでした。

(2012.3.22.)

トップページに戻る
「商品倉庫」に戻る
「忘れ得ぬことどもII」目次に戻る