忘れ得ぬことどもII

ライトノベルの隆盛

 ライトノベルというジャンルにはあまり興味がなかったのですが、最近はずいぶんと隆盛を誇っているようです。
 アニメといえば、少し前までマンガを原作とするものが圧倒的に多かったのですが、この頃は「ラノベ(ライトノベル)原作」という番組が相当に増えました。私は以前ほどアニメを見ておらず、動画配信サイトで無料配信しているものをパソコンでいくつか視聴しているだけですが、最近の何クールかを思い出してみても、半分以上がラノベ原作であったように思います。また、ラノベ出版社側が積極的にアニメ化を推進しているようでもあります。
 そんなところから見ても、ライトノベルというのはマンガと領分がかぶる存在であることがわかります。
 私の読んだことのあるライトノベルなどは微々たるものですが、漠然としたイメージとして、いわゆる「普通の小説」と較べた場合、

 ──擬音が多い。
 ──会話文が多く、かつ、そのひとつひとつが短い。
 ──挿絵が多く、かつ、その画風がマンガっぽい。


 というような特徴が、共通してあるように思えます。擬音の多さはマンガの特徴でもありますし、短い会話文がポンポン出てくるのもマンガのセリフを思わせます。挿絵については、出版方針そのものが、作家とイラストレーターをコミで売るというところにあるらしく、場合によっては挿絵の善し悪しで売れ行きが左右されることもあるそうです。
 この他、漢字に奇想天外なルビをつけるとか、叫び声などが仰々しいとか、会話文の語尾に「ッ」がつくことが多いとか、「!?」「!!」がやたらと多い、等々というような印象もありますが、これらはまあ、ラノベ共通の特徴と言えるのかどうかわかりませんし、「普通の小説」でも作風や文体によってはある程度言えることですから、小声で指摘するにとどめておきます。

 このように、ライトノベルというのはマンガとの共通点が多く、むしろ「文字によるマンガ」と言っても良いかもしれません。内容的にもきわめて近いものがあります。主人公や周囲の人物が中学生・高校生くらいの少年少女であることが圧倒的に多いというのも共通していますし、そのキャラクターが現実の少年少女というよりやはりマンガの登場人物に近いという点も言えそうです。
 アニメの原作として考えた場合、マンガに較べるとストーリーの進行が速いというのが、ひとつのメリットであるかもしれません。マンガというのは描くのに手間のかかるもので、週刊連載の16ページかそこらではろくにストーリーが進まないことが多く、連載中のマンガをアニメ化した場合、進行があっという間に追いついてしまうという事態がしばしば起こります。
 アニメ制作の側ではいろんな手を使ってこの事態を乗りきろうとします。「聖闘士星矢」「遊戯王」なんかでは、オリジナルエピソードをかなり長いこと放映して、原作のストックがたまるのを待ちました。「ドラゴンボール」の後期や「NARUTO」の初期などは、アニメの進行密度を可能な限り薄めて、週刊連載のペースに歩調を合わせたような作りかたをしていましたが、これはさすがに不評でした。
 とにかく「進行が追いつく」のはマンガ原作のアニメに宿命的な業(ごう)と言えそうです。もっと昔の「デビルマン」なんかは、企画時からマンガとアニメの同時進行が計画され、マンガのほうがアニメとまったく関係のないストーリーに進んでしまったことで逆に大成功した例ですが、先にマンガがあって、それが人気が出たからアニメ化する、というような(よくある)ケースだと、まるで違う話にするなんてことは視聴者が許さないでしょう。
 また、原作マンガがまだ連載中であるのにアニメが先に終わる、ということもしょっちゅう起こります。この場合、アニメ独自のエンディングをつける必要がありますが、成功したケースがあんまり無いような気がします。それどころか、張られていた伏線が全然回収できずに終わってしまって、悲惨なことになるケースも多そうです。
 その点、ライトノベルの場合は文字情報であるだけに、絵を伴うマンガよりはずっとストーリー展開が速くなります。それに、主な媒体が雑誌連載よりも単行本(文庫本)であるために、ある程度まとまった単位で企画を立てられます。つまり、アニメのほうが先に終わるという事態はマンガ原作同様しばしば起こるものの、ライトノベルの場合はシリーズ物であっても1巻あるいは2巻単位くらいでエピソードの結末がつくように書かれており、その中での起承転結がつけられているので、1クールか2クールくらいのアニメとしてはまとまりやすいと思われます。

 ライトノベルというものがいつ頃からジャンルとして確立したのかは、私はよく知りません。高校時代──というからかれこれ30年前、隣の席の同級生がよくコバルト文庫を学校に持ってきていましたが、そのコバルト文庫がたぶんライトノベルの嚆矢みたいなものだったのではないかと思います。
 しかし、思い返せばそれより前、筒井康隆「時をかける少女」とか、眉村卓「なぞの転校生」中尾明「黒の放射線」など、ジュブナイルSFと呼ばれる少年少女向けのSF小説があって、むしろそのあたりが元祖かもしれない、という気もします。これらの小説は、今ならアニメ化されるところですが、当時はNHK少年ドラマというような枠で実写化されることが多かったのでした。
 けれども、それを言うならもっと前の、江戸川乱歩少年探偵団ものとか、海野十三の少年向け作品などはどうなるんだ、などとも考えてしまいます。少年小説・少女小説というのはかなり昔からあるジャンルで、そこからライトノベルに通じる歴史のどこかに、劃然とした区切りをつけることは困難であるのかもしれません。
 やはり、専門レーベルとしてのコバルト文庫の創設がいちばんの契機と言えそうです。「児童文学」はさすがに子供っぽく感じられるが、大人向けの小説はまだ難しい……という、中学生・高校生を主対象としたレーベルの創設は、やはり画期的だったと言えるでしょう。
 とは言っても、はじめの頃は専門作家が居るわけではなく、いろんなジャンルの作家が、いろんなタイプの小説を試していた観があります。むしろその頃のカオスな状況のほうが、「ラノベとはこういうものだ」というコンセンサスが大体できた現在よりも面白かったようでもあります。
 上述した、コバルト好きの同級生がよく読んでいたのは富島健夫の作品でした。言うまでもなく、川上宗勲宇能鴻一郎と並んで御三家とまで称された官能作家です。青春小説は性の問題を無視しては成り立たない」という信念のもとにティーンエイジャーのセックスを描いた作品が多いために、コバルト文庫にもいくつも採り上げられたのでしょう。当時の高校生がドキドキしながら読んだことは言うまでもありません。いまでは「エッチ系」は、ナポレオン文庫などそれ専門のレーベルができていたりしますが、他のもっと健全な(?)作品が同じような装釘で並んでいる中で、手に取った一冊がおそろしくエッチな本であった時のドキドキ感、背徳感というものは、高校生男子にとっては筆舌を絶するようなたまらない刺戟であったのでした。
 そんなのもありましたが、主流はやはりSFだったのではないかと思います。新井素子などはその辺から生まれてきたニュータイプの作家でしょう。古典文学をポップな筆致でリライトするみたいな作風から始まった氷室冴子などもニュータイプと言えそうです。彼女らの活躍あたりから、後年のライトノベルの輪郭がはっきりとしてきたようです。
 80年代の終わり頃から、ゲームのノベライゼイションというのも盛んになりました。これらも現在のラノベのひとつの種子となっていそうです。久美沙織などがこのあたりから巣立った作家で、久美さんの「ドラゴンクエスト」「MOTHER」などのノベライゼイションは私もけっこう愉しんで読みました。西谷史「女神転生」は小説のほうが先だったかな。こちらは巻が進むにつれ話が変な方向へ行ってしまって(もちろんゲームとはまったく関係なくなって)、あまり感心しませんでしたが。
 「擬音が多い」「会話が多い」というラノベの特徴は、大体この頃から顕著になってきたようです。

 いまやライトノベルは絶頂期を迎えた観があり、たいていの書店では専用の棚が、それもいくつも設置されています。レーベルの数も半端ではありません。
 書店によっては、マンガと同様ビニールの袋をかけているところもあります。マンガと同じ扱いというのは、はしなくもラノベの性格を不足なく顕しているようでもあります。
 若者の活字離れが言われて久しいですが、ライトノベルはその若者の活字需要を一手にひきうけていると言えそうです。私が思うに、若者は別に活字が嫌いなわけではなく、ただ活字から容易に映像が組み立てられる文章を好むのだと解するべきでしょう。映像の想起が困難な文章を読むのが面倒くさいのです。だから会話が多くなりますし、地の文が説明的で長いものは嫌われます。長くとも、頭の中での映像化が容易であるように組み立てられていれば良いのですが、思惟をこねくりまわしていたりするとそっぽを向かれます。
 それが良いことなのか悪いことなのか、私にはわかりません。思惟的な文章が理解できないというのも困るかな、とは思いますが、ライトだろうとなんだろうと大量の活字を読んでいれば、そのうちもう少しヘビーな文章も読めるようになるのかもしれません。ともかくライトノベルが、生まれた時からマンガやテレビなどの視覚表現にどっぷり漬かって育ってきた人たちに適応した文芸スタイルであることは間違いないところでしょう。
 マンガやテレビ世代でない、年配の活字好きの人がライトノベルを読むと、逆によく理解できないかもしれないという気もするのです。頭の中でマンガの一場面、テレビの一場面を組み立てるという習慣が無いため、文字面だけ追っても「なんだこれは」と思うのではないでしょうか。
 マンガが隆盛した頃、

 ──小説を読んでいる時は、文章から自分の頭の中で場面を思い描いているものだ。マンガはそれが絵として与えられてしまうから、マンガばかり読んでいると人間から想像力が失われるに違いない。

 というような批判がよくおこなわれました。実は同じような批判は、映画が無声からトーキーになった時にもおこなわれていたりしたのですが、あにはからんや、マンガ世代の人々は明らかに、それ以前の人たちよりも視覚的想像力が発達していると言わざるを得ません。ラノベは「普通の小説」以上に、読者に視覚的想像力を要求する小説なのです。
 「もしドラ」のように、わりとハードな経済学の内容をラノベ仕立てにしたところベストセラーになったという例もありますし、今後、「ラノベ仕立て」を入口にした各種の入門書も増えてゆくことが予想されます。そこから本格的な学術書へと読み進むという人も多くなるでしょう。ラノベ単独で見ると、その異様な流行が凶と出るか吉と出るかわからないのですが、うまい具合に社会のあちこちに結びついてゆけば、ラノベの流行は決して憂うべきことではないと思います。
 「普通の小説」のほうも、だんだんハイブリッドのような形のものが多くなってゆくのではないでしょうか。ライトノベル側でも、ずいぶんシリアスな内容の作品が書かれるようになりました。例えば少し前にアニメ化されていた「神様のメモ帳」などは、ほとんど普通のハードボイルド小説と言っても差し支えなく、登場人物の年齢が一体に低いのと、いわゆる「萌えキャラ」が出てくることで、なんとかラノベに分類されているようなものでした。もう少し双方から接近すれば、おそらく遠からず殻は破れるでしょう。ラノベ出身の直木賞作家などが出てくるのは時間の問題であると思われます。

 ライトノベルを「くだらない」「深みがない」「薄っぺらい」などとくさすのは簡単ですが、現在すでにジャンルとしてふくらみすぎ、ひと言で片づけるのは無理になっています。文体・内容共に、それなりに深みのある重厚な作品だって無いわけではなさそうです。逆に芥川龍之介だって太宰治だって井伏鱒二だって、現在のラノベ級と呼べそうな作品はあるわけで、ジャンルそのものをどうこう言うのは的を外しています。
 ただ、玉石混淆、しかも大部分は「石」、ということは言えそうです。ライトノベル作家は人気が出てくると年に4〜5冊というような驚くべきハイペースで執筆させられることになるようで、そんな中でクオリティを保つのは容易ではありません。「書き飛ばす」感じになってしまっても無理はないし、作品が「消費」されるのも当然ながら早くなります。こういうあたりが、旧タイプの文学観を持つ人々から胡散くさく見られる点でもあるでしょう。
 しかしながら、「玉石混淆、大部分は石」というのは、実はどんな表現活動でも言えることです。音楽などまさにそれである、ということは、私の持論で何度も発言しています。玉石混淆の作品どもが、時のふるいにかけられて、後世に残ったものだけが「玉」であり、「古典」と呼ばれることになります。速成で書き飛ばすのはいかんと言っても、バッハは毎週一曲カンタータを「書き飛ばし」、ヨハン・シュトラウスはシーズンごとに何曲ものワルツを「書き飛ばし」ていたものです。まさにラノベ作家に匹敵する、いやそれ以上の忙しさです。
 書店に並ぶ厖大なライトノベルの文庫本の中にも、もしかしたら後世に残る名作が含まれているかもしれないのです。いちがいに馬鹿にしたものではありません。
 ただ、敷居が低いように見えるせいか、ラノベの新人賞の応募作は、平均レベルが甚だ低いという話も聞きました。ほとんど審査員に同情を禁じ得ないような状態だそうです。
 その中で、webですでに掲載したりして、一定の読者がついているものは比較的ハイレベルであるようです。上に名前の出た新井素子も、小学生くらいの頃から小説を書いては家族の前で朗読して感想を貰っていたとのことです。星新一がそのことを絶賛していました。自分ひとりで、誰にも見せずに、賞を取って人をびっくりさせてやろうなどという魂胆で書いた小説は、たいてい箸にも棒にもかからないとか。ラノベ作家を目指す人は、すべからくそのことを心すべきでしょう。

 文中、作家の名前はすべて敬称を略させていただきました。あしからず。

(2012.7.11.)

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