忘れ得ぬことどもII

「ですます体」の不備

 私は日誌をこのとおりですます体で書いておりますが、時々迷うことがあります。
 確か、私が小学校の頃は、形容詞、とりわけその過去形に「です」をつけることは禁じられていたような気がするのです。
 小学生の作文だと、遠足とか運動会とかを題材にすることがよくあるわけですが、子供が感想として言語化できるとすれば、「楽しかった」というくらいがせいぜいでしょう。
 「楽しかった」をですます体で書こうとすると、

 ──楽しかったです。

 としか書きようがありません。ところが、この表現は先生にバツを貰っていた記憶があります。「嬉しかったです」「つらかったです」も確かダメでした。要するに「……かった+です」というつながりかたは、国語としてよろしくないというのでした。
 最近の小学校では許容されるようになってるのでしょうか。私は小学校教育について詳しくないので、どなたかご存じでしたらご教示ください。

 さて、「楽しかったです」がダメなら、「楽しかった」ということを丁寧語で言おうとすればどうすれば良いのか。
 いろいろ考えてみても、

 ──楽しゅうございました。

 と言うほかなさそうです。しかし、小学生の作文でこんな言葉を使ってはかえって変でしょう。それに、「ございます体」というのは「ですます体」とは少々違います。同じ丁寧な言いかたといっても、そこにはレベル差があります。「ございます体」は少しかしこまった手紙などに使うのが普通で、不特定多数を読者と想定している作文などには不向きだと思います。
 どうしてもですます体の範疇で「楽しかった」という気持ちを表したいとすれば、少し言葉を補って、

 ──楽しく思いました。
 ──楽しく感じました。

 というような書きかたをするしかないようです。しかし、厳密に言えば「楽しかった」というダイレクトな気持ちと、「楽しく思った」「楽しく感じた」という気持ちとはイコールではありません。後者は、楽しかったという気持ちをひとごとのように分析している趣きがあります。
 つまるところ、ですます体というのは、形容詞にはもともと対応していない文体と言えるのかもしれません。今まで過去形ばかり例に挙げてきましたが、現在形にして「楽しいです」「嬉しいです」というのも、口語では普通に使いますが、文章に書いた場合どこかこなれない感じがします。やんごとないかたがたは「嬉しく思います」というおっしゃりかたをよくなさいますが、やはり「嬉しいです」という用法が何か生硬で不自然だという意識がおありになるのでしょう。

 そもそも、ですます体というのはそれほど古いものではありません。明治になって、小学校教育が始まってから考案され導入された人工言語みたいなものです。だから歴史小説などの会話文にですます体が使われていると、どうも違和感を覚えます。
 それまで、文章語としては基本的に「候(そうろう)体」が使われていました。また古来の文語体、「……ありけり」「……なり」のたぐいも用いられていました。
 もちろん口語でこんな言いかたをしていたわけではありません。あくまで書き言葉です。現代人は言文一致が普通だと思っているので、書いてある言葉としゃべっている言葉が全然別であるという観念がどうもわかりづらいようですが、明治中期くらいまでは、口語と文語はまるで違うのがあたりまえでした。ただし、文中の人物のセリフなどを口語で記すのは、井原西鶴あたりまでさかのぼれるようです。式亭三馬『浮世風呂』などは庶民の会話が生き生きと活写されていますし、十返舎一九『東海道中膝栗毛』ともなればほとんどセリフだけで話が進行してゆくので、現代でも少しも違和感なく読むことができます。しかし三馬にせよ一九にせよ、地の文はあくまでも文語体を用いています。地の文にも口語と同じような言葉を使おうというのが明治期の言文一致運動でした。
 しかしそれにしても、ですます体というのは、それまでの口語でもなかったようです。上記の「ございます」あるいは「おります」といった言いかたを、さらに簡略化して「軽く丁寧な言いかた」として作られました。
 最初の頃は、下品な言葉遣いを教えるなと学校にねじこんだ親も居たようです。遊郭の幇間(たいこもち)などが、「……でげす」というような言いかたをしており、「……です」というのがそれと似ていたためでした。ちなみに「……でげす」というのも本来は「……でございます」であって、それがなまって縮まったわけです。若い人が「ありがとうございます」を「あっざーす!」と縮めて言うようなものです。まあ、確かにあまり品の良い言葉ではありません。
 とはいえ、明治日本が近代国家を建設する上で、簡便な言葉遣いというものはやはり必要だったと思われます。ものごとをスピーディに運ぶためには、「ございます」系の「丁寧すぎる」言葉遣いでは追いつかなかったのでしょう。とりわけ「説明」とか「論述」をするにあたって、文章語としては「……である」といった用法ができたものの、口頭で申し述べる場合には、ですます体の「軽い丁寧語」が便利だったに違いありません。明治後期くらいからは、すっかり人々に弘まりました。
 ……このあたりで、察しの良いかたはおわかりと思います。つまり「ですます体」は、感情・感覚を表現するようには作られていない文体だったのです。「楽しかった」とか「嬉しかった」とかいう「気持ち」を言い表すについては不備のある言葉遣いなのでした。そういう言葉遣いで行事や体験についての感想を書かせようとする小学校の作文教育が、そもそも間違っていたということになります。
 3〜4年生くらいになると、いわゆる「常体」、「……だ」「……である」という文体を使うようになって、ようやく作文が楽になった気がしたものでした。

 最近は、「楽しかったです」式の言いかたも、それほど違和感が無くなってきたようでもあります。やはり形容詞に対応していないという不備が、どうも不便きわまりなく、なんとなく許容しているうちに一般的になってしまったものと見えます。
 口頭で「楽しかったですねえ」みたいな言いかたは昔からありましたから、それが文章となってもあまりおかしくないという感覚が拡がってきたわけです。
 かてて加えて、近年ではアニメなどに、それこそなんにでも、文法的にあり得ないような形の「です」(正確には「ですぅ」かな)をつける女の子が出てきたりしていて、その舌っ足らずさがまた萌え萌えであったりするものですから、さらに許容度が上がってきているかもしれません。

 「今日宿題あったですぅ。忘れちゃったですぅ」

 のたぐいですね。
 完全な言葉というものはこの世に無く、どうしてもどこかに不備が生じます。その不備を補うような形で必ず変化が起きるものですが、変化が始まる時期には、それまでの常識とか教養とかを身につけた人からは、おおむね批難を浴びることになります。
 日誌でも何度か考察したことのある「ら抜き」などもそのひとつでしょう。「見れる」「食べれる」というのは、本来の「見られる」「食べられる」という言葉が、受動態可能態とで同じ語形をとっていたために、無意識に言い分けようとして分化したものと考えられます。「見うる」「食べうる」のような形が口語で一般化していれば「ら抜き」にならなくてもよかったかもしれませんが、「……うる」はやはり少々文語的で使いづらかったのでしょう。「ら抜き」は、語形衝突という不備を補う変化と言って良いと思います。ただ単に乱暴な、あるいは舌っ足らずな言葉というのではない証拠に、どんなDQNだろうと受動態の意味で「ら抜き」を使う者は居ません。

 「こないだ立ちションしてたら、お巡りに見れちまってよぉ」

 とは決して言わないはずです。
 言葉の変化は、ほぼ例外なく、常識人・教養人の眉をひそめさせる形で進行します。どの時代にも

 ──最近は若いもんの言葉遣いが悪くなって、まったく嘆かわしい。

 とぶつくさ言う頑固オヤジは必ず居たものですが、それが本当なら日本語はどんどん悪化の一途を辿っていることになります。しかしながら、日本語はそう良くも悪くもなっていないというのが実情でしょう。ただし表現の幅は拡がりました。前にもこの喩えは使ったことがありますが、徒然草の文体で科学技術は語れないのです。
 徒然草までさかのぼらなくても良さそうです。司馬遼太郎氏が書いていましたが、泉鏡花がどこやらの工業地帯のルポルタージュを書いたことがあって、それが惨憺たる悪文だったそうです。悪文というより、ほとんど何を言っているのかわからないような文章だったとか。私は鏡花の原文を読んでいないので、司馬氏の言を信じるしかありませんが、ともかく鏡花という、まぎれもなく近代の文豪の文体でも、科学技術を語るのは無理だったわけです。

 幸いなことに私たちは、同じ文体で科学技術も、政治評論も、恋愛小説も書くことができる時代に属しています。こういう汎用的な文体がはっきりと成立したのは案外と新しく、司馬氏の説によると昭和30年代くらいだろうとのことです。そこまで引き下げなければいけないのかと驚きますが、上記の泉鏡花の悪戦苦闘などを見ると、昭和初期あたりでもまだ汎用文体はできていなかったらしいと納得します。
 その意味では「ですます体」も、「楽しかったです」式の語形を許容することで、ようやく汎用的になったと言えるかもしれません。私の小学校時代にこの形が認められなかったことを考えると、汎用的になったのはここ40年足らずということになります。
 私は日誌でいろんなジャンルのことを書いていますが、特に文体を変えてはいません。ですます体が汎用的になってくれたおかげです。とはいえ、小学校時代に受けた教育のなごりで、やはり今でも「楽しかったです」式の形を使う時には少しためらいを覚えるのです。

 ──楽しいひとときでした。

 というような形が、私の文体にとっては妥当かもしれません。小学生の作文でこんなことを書いては、変にませているようですけれども。

(2012.11.17.)

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