なんの気なしにテレビのCS放送をつけたら、「エスパイ」という古い映画をやっていて、ついつい懐かしくて、それほど暇というわけでもないのに最後まで見入ってしまいました。 懐かしいと言っても、この映画を観たことはありません。小松左京の原作のほうを読んでいたのでした。中学に入って間もない頃だったと記憶しています。クラスメイトには映画を観ていた人も居て、
──超能力なのに、物が放物線を描いて飛んで行くんだ。あれには笑った。
と、ネタとして話してくれました。その時の話で、草刈正雄さんと由美かおるさんが登場しているということも聞いていたので、当然草刈氏が主役なのだろうと思いこみ、今までずっとそう思っていたのですが、あれから35年以上を経てはじめて映画を観てみると、主役は藤岡弘、氏であって、草刈氏は若手の新人という扱いでした。ちょっとびっくりです。
原作の小説は当時は角川文庫から出ていて(現在は同じ角川ですがレーベルはハルキ文庫)、確か電車の車内広告でその文庫の発刊を知り、しばらく気になっていて、何ヶ月かしてから買ったのだったと思います。
その頃の私は、暇さえあればマンガを描いていました。マンガと言っても正確に言えばネームに相当する鉛筆画ですが、ともあれわら半紙をホチキスで綴じたノートに何百ページも描いていたものです。同好の士と合作をしたりもしていました。
好みのジャンルはもっぱらSFでしたが、未来ものというよりは、普通の現代の学園ものからSFな展開になってゆくものが主でした。ことに超能力ものが大好きで、どの話にもたいてい超能力者が登場していました。
テレパシー、プリコグニション(予知)、クレアヴォヤンス(透視)、サイコキネシス(念動力)、テレポーテイション(瞬間移動)といった超能力タームはおおむね小学生時代までに憶えてしまいました。超能力者のことをエスパーとも呼び、それがエクストラ・センサリー・パーセプション(ExtraSensory Perception=感覚外知覚)の略であることも知っていたと思います。小学生というのは、好きなことになるとけっこう大人顔負けの知識を身につけていたりするものです。
そんな子供でしたから、車内広告で見た「エスパイ」の文字になんとなく心惹かれたのも当然なのでした。
この小説は、その時点からすでに12年ほど前、ちょうど私が生まれた頃に「漫画サンデー」という雑誌に連載されたものでした。昔のマンガ雑誌ではこの手の娯楽小説の連載もおこなわれていたようで、山田風太郎の忍者小説などもこの種のマンガ雑誌で発表されたものが多かったと言います。
この項を書くためにちょっと検索してみたら、「小松左京にしてはお色気が多くてくだけた感じの小説」というような評が出てきましたが、こういう評をする人はたぶん「日本沈没」や「さよならジュピター」みたいなハードSFのイメージしか無かったのでしょう。小松作品には「エスパイ」の他、「時間エージェント」というお色気娯楽シリーズSFもありますし、決してエロと無縁な作家だったわけではありません。ただしSF考証だけは、娯楽作品といえどもゆるがせにしていないのが小松カラーというものでしょう。
エスパイ、というのは読んで字の如く、エスパー(超能力者)によるスパイ組織というわけですが、この組織は特定国家のために働くわけではなくて、世界平和のために独自の意思で動いているという設定です。その一員である日本人の若者が主人公ですが、彼はテレパシー、透視、念動力の三種の超能力を備えた上に、ヨガや禅で精神を鍛え、体術も人並み以上だそうですから、まあスーパーマンですね。娯楽作品の主人公としては結構なのではないかと思います。
この主人公が世界をへめぐりながら、敵組織の超能力者たちと戦い、その中でテレポーテイションの能力も身につけて、ついには人工衛星に移動して「諸悪の根源」であるミスター・Sなる存在と対峙する……という、現在なら中二病と言われそうな展開で、確かにあらすじだけを取り出してみれば安っぽくはあるものの、さすがに小松左京氏の筆力をもってすれば、何やら深みや寓意みたいなものがありげな作品に仕上がっています。
まさに当時中学生であった私は大いに影響され、その頃友人と描いていた合作マンガに、同じような「諸悪の根源」的な敵ボスキャラを登場させたりしていました。ただ、そんな中から「善とか悪とかって、いったいなんなんだ?」という疑問も生じてきて、私は早くも「善悪の相対化」というような観念にめざめてしまったようです。中1か中2で、独力でそんな境地に達してしまうのは、明らかに早熟すぎて、あまり自分を幸福にはしなかったような気もしますが、ともかくそういう意味では、このSF活劇は私の人生にとってかなり大きな意味を持っていたかのようです。CSの映画を観て懐かしく感じたのは、そのゆえんでした。
もっとも、映画のほうは途中から原作とはだいぶ違ってきて、敵ボスは幼少期のトラウマをひきずる別の超能力者というだけのことになり、だいぶスケールが小さくなっていました。映画としての出来も、まずはB級という評価が大多数であったようです。それに異を唱えるつもりはありません。ちなみに、由美かおるが演じたのは、原作ではマリア・トスティというイタリア娘にあたる役で、いくらなんでもイタリア人には見えないなあと思いつつ、あとでWikipediaを見たところ、映画ではマリア原田という役名になっていたとか。番組ではエンドロールの前で切られていたので、その辺はよくわかりませんでした。
「エスパイ」と共に、当時の私が好きだったのは筒井康隆の七瀬シリーズでした。これはその頃のラジオドラマで「家族八景」をやっていたのを聴いて知ったのであったと記憶しています。
「家族八景」は七瀬シリーズの第一作にあたる連作短編集でした。SF版「家政婦は見た!」みたいなノリの話で、読心能力を持つ美少女がお手伝いさんとしていろんな家庭に出現します。
小松作品の明快な文体に較べ、筒井作品は少々狂気じみたところがあって、中学生くらいの私にはそのあたりにも惹かれるものがありました。原作を手にとって、まず驚いたのは、テレパシーによって読み取られる人の心の表現方法です。
「エスパイ」ではテレパシーも普通の会話のように表記され、ただカギカッコではなく丸カッコでくくられているだけの違いでしたが、「家族八景」では、単語もしくは単文が機関銃のように連発されています。引用するわけではありませんが、似たような書きかたをしてみると、
(誰だ)(こいつは誰だ)(知らない)(見たことがない)(どうしてここに)
といった調子です。時には2行に分かれて大カッコでくくられていたりします。筒井康隆氏といえば文章の表記方法にいろいろ実験を試みていることでも有名ですが、ここでもそれまで誰も考えつかなかった方法を採っているのでした。なるほど、人間の思考というのはいつでもしっかり筋道立っているわけではなく、こういう風に切れ切れの想念がよぎってゆくほうが普通であるかもしれません。
さて、「家族八景」の続編にあたるシリーズ第2作が「七瀬ふたたび」で、これは他の超能力者との出会いや戦いを描いているいわば活劇篇であるためか、何度かテレビドラマなどにもなっています。
「エスパイ」の主人公とは違って、ここに出てくる超能力者はいずれも単一の能力しか持っていません。ヒロインの七瀬からして、テレパシー能力を持っている以外、特に格闘にすぐれているわけでもありませんし、見え隠れする「敵」に対抗するための能力はほとんど無いと言って良い状態です。従って活劇としての爽快感のようなものはあまり感じられず、むしろ超能力者の悲哀みたいな雰囲気が強く出ていました。
私がこの作中で印象的だったのは、テレパシー能力者と透視能力者が対決するシーンでした。この透視能力者は超能力を悪用するろくでもない男なのですが、七瀬は彼の心を読み、彼のよからぬ心に映った自分自身の裸身──つまり彼は七瀬を見ながら衣服を透視していたわけです──があまりに完璧に寸分狂いもなかったがために、彼を透視能力者だと見抜きます。それで「家族八景」で何度か使った技、相手の考えていることに直接返事をしてびびらせるという方法で難を逃れようとしますが、あいにくとこの場合は相手自身が超能力者であったため、こちらがテレパシー能力者であると知っても意外とひるまなかった……という流れで、異種の超能力者の出会いとしてかなり納得できる展開になっています。結局七瀬は自力では窮地から脱出できず、念動力を持っている仲間に助けて貰うことになります。
超能力ものを嫌うSFファンはけっこう居て、「超能力が使えるんならなんだって可能になってしまうじゃないか」と批判しますが、このように単一の能力のみであったり、あるいは能力の「適用限界」がしっかり適用されていれば、決して「打ち出の小槌」とか「デウス・エクス・マキナ」みたいなことにはならないでしょう。
私はその後もSFマンガ(のネーム)を描きましたし、高校生くらいになると昔描いたマンガを小説にリライトしたりしはじめましたが、「なんだって可能になる」ような超能力は使わないように注意しました。超能力といえどもなんらかの科学法則らしきものに従うとしておいたほうが、むしろ面白くなることに気づいたのです。
エスパー=ESPという言葉が、狭く見ればあくまで「知覚」である以上、作用する「力」である念動力というのはそこには含まれないのではないか……などと考えました。それで超能力には「ESP波」と「PK波」という2種類の波動が介在しているという設定にしました。PKというのはサイコキネシスの略です。稀に両方備えている者は居ますが、普通はどちらか一方ということで、登場人物の能力を整理したりしたのでした。
超能力にコミットしていると、だんだん宗教じみてくる人が少なくなく、実際そんな感じの本も読んだことがあります。最初は四次元か何かの解説から始まったのが、だんだん超能力の話になり、しまいには信仰の話になってしまうという変な本に、一冊ならず出会いました。私が宗教のほうに走らなかったのは、あくまでネタとして擬似科学化に没頭していたからだろうと思います。こういうのは、あまりマジメになってしまうとよろしくないようです。
その後、あんまり正面きった「エスパー」というのははやらなくなったようです。「機動戦士ガンダム」に出てきた「ニュータイプ」というような概念のほうがポピュラーになりました。またRPGなどの普及で、魔法・呪文といったようなものが、かつての昔話とは違った感覚で、いわば超能力をカバーする形で置き換えられたようでもあります。
しかし、何か理屈で割り切ることのできない、すばらしい力を身につけたいという気持ちは、古今東西共通する人間の願望なのではないかと思います。なんらかの形の超能力を扱った物語は、これからも作られ続けてゆくことでしょう。
(2013.2.6.)
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