忘れ得ぬことどもII

澁澤榮一史料館

 2013年5月6日(月)には澁澤榮一史料館を見学してきました。前に飛鳥山博物館「ボンジュール、ジャポン」という企画展を見に行った話を書きましたが、その時、「三館共通入場券」というチケットを買い求めたことにも触れました。三館というのは飛鳥山博物館、澁澤榮一史料館、そして紙の博物館で、飛鳥山公園西ヶ原寄りに並んで建てられています。いずれもミュージアムとしてはそんなに大きなものではありませんが、じっくり見るとけっこう時間が経ってしまいます。
 上記の企画展は入場無料で、チケットは要りません。共通入場券の飛鳥山博物館の分は、常設展示を観るために使います。
 共通入場券と言っても、「これ1枚で三館のどれにでも入れますよ」というものとはちょっと違って、1枚のシートに回数券のように3つの博物館の半券がついているという形です。だから一度ずつしか入れないわけですが、ただ3ヶ月有効というところがミソです。
 4月12日に企画展に行った時には、そのあと紙の博物館を見学したところで、時間が無くなりました。だからまだ飛鳥山博物館の常設展示の分と澁澤榮一史料館の分が残っていたわけです。7月12日までに行けば良いことになりますので、だいぶ余裕はあります。
 とはいえ、そう思っていると案外月日が早く経って、期限切れになってしまいかねませんので、マダムが暇になった6日に、残りの2館を訪ねることにしたのでした。

 しかし冒頭に「澁澤榮一史料館を見学してきました」と書いてあるのを見て、ははあ、飛鳥山博物館にはまたしても行けなかったのだな、と気がつく人が多いのではないかと思います。その通りでして、昼から出かけたのですが、まず最初に博物館内の食堂で昼食をとったりしたせいもあって、ふたつとも観るだけの時間は結局確保できませんでした。どうも、思った以上に展示が充実しているようです。
 そもそもなぜこの場所に澁澤榮一史料館があるのかというと、この場所が本来澁澤榮一の邸宅の敷地であるからなのでした。江戸時代からの行楽地である飛鳥山に隣接して、広大な敷地の邸宅を構えており、外国の要人たちなどもここへ招待したそうです。第二次大戦中の空襲で邸宅の大半が焼け、後継者はそれを再建せずに、土地を飛鳥山公園の園地として提供したのでした。それを記念して史料館が建てられ、焼け残った離れふたつ(「晩香廬(ばんこうろ)「青淵(せいえん)文庫」)は大正建築の粋を示す文化財として一般公開されています。この2軒は、単独で見学しようとすると入場料をとられますが、史料館の入場券、あるいは三館共通入場券を提示すればそのまま入ることができます。史料館を観たあと、この2軒も見学していたら、博物館まで入っている時間が無くなってしまったのでした。
 青淵文庫は文字通り書庫でしたが、関東大震災の時澁澤翁の蔵書がかなり焼けてしまい、せっかく建てて貰った書庫に入れる書物があまり無いことに翁は大いに嘆いたそうです。なお「青淵」というのは澁澤翁の雅号だそうです。書庫を埋めるに及ばなかった残りの蔵書も、遺族により図書館に寄贈され、現在は残っていません。
 晩香廬は談話室で、招いた外国要人などと語らうのに用いたようです。小さな離れではありますが、約21坪半という敷地面積を見て笑ってしまいました。なにせ私の家は24坪というところです。澁澤翁の邸宅の離れと、さして違わない広さしかないのでした。

 澁澤榮一という人はいったい何が偉かったのか、例えば子供に説明するのはわりと難しいかもしれません。日本に「実業界」というものを作り上げた、というのが最大の功績だろうと思いますが、それのどこが偉いんだと言う人も居るでしょう。何百もの会社の創立に関わり、その多くで社長を務めたと言えば、小学生なら偉い人だと思うでしょう。しかし中学生以上にもなれば、それだけで納得するとも思えません。
 私が思うに、わが国の企業活動というものに、常に国益・公益を意識する習性をつけさせたのが、澁澤翁の大きな遺産だったのではないでしょうか。翁は幼少から『論語』を座右の書として育ち、長じてからも常に『論語』の精神を説き続けました。
 孔子という人物や、『論語』という書物の評価については、今となっては議論のあるところかもしれませんが、『論語』がいつも天下国家ということを意識したスタンスで綴られていることは確かです。孔子の生涯の夢は、しかるべき国の宰相となって天下を動かすことでした。その夢は結局かなえられることなく、孔子は失意のうちに世を去ったわけですが、その語録である『論語』は、

 ──もし自分が天下を動かす宰相であったなら。

 という気宇に貫かれています。それを負け犬の遠吠えと呼ぶことは容易ですが、人のあるべき理想の姿(文中では「君子」と呼ばれる)を繰り返し語っており、個人の一身を修める上では大いに参考になる書物と言えます。
 中国ではのちに「国家」全体を孔子の思想(儒教)が蔽(おお)ってしまったために、いわゆるアジア的停滞が生じて、硬直した社会が続いたのでしたが、日本での儒教の受容は、あくまで個人的道徳レベルにとどまっており、そのおかげで多くの変革に耐えてこられました。
 本来の儒教というのはあくまで、支配階層の倫理であり、庶民には関係がありません。特に、商業従事者というのは人民の最下層に位置づけられている(士農工商というのが儒教における人民の格付けです)こともあって、儒教とは水と油……とまでは言わなくとも、まず縁無き衆生というところです。
 士農工商という格付けは日本の江戸時代にも導入されましたが、わりに早い時期から、これは別に階級、すなわち人間の価値の高い低いを表しているのではなくて、社会における機能による身分の違いに過ぎないという考えかたが起こりました。
 江戸時代の日本人の学力レベルの高さはつとに知られています。識字率はおそらく同時代の世界のどこよりも高かったでしょう。どの町にも村にも必ず寺子屋があって、子供たちに初等教育をおこなっていました。「読み書きそろばん」と通称されましたが、扱う教科書の題材は倫理的なものが多く、子供たちは自然と人倫を身につけるようになっていました。
 何しろ文字を識り、ひととおりの計算ができなくては、商家の丁稚に入っても手代に出世することはできませんし、大工に弟子入りしても棟梁にはなれませんし、船乗りになっても船頭にはなれなかったのです。どんな職種であってもつねに学問がモノを言ったというのは、17〜19世紀という時代においては驚くべき社会であると言わざるを得ません。だから、長屋暮らしの素っ町人(厳密には「町人」というのは家屋を所有している身分で、長屋暮らしの熊さん八つぁんは「町人」ではない、とも言えますが、「東海道中膝栗毛」の中でよく弥次さん喜多さんが自分のことを「しろきてうめん(素几帳面)のお町人さまでぇ」と啖呵を切るところを見ると、「町人」の範囲を多少拡げてもそれほど差し支えはなさそうです)でも、多少無理しても子供を寺子屋にやったのでした。子供たちは基本的な学問知識と共に、基本的な人倫も学び、それがその後の日本人の大きな支柱になっていると言えそうです。
 そう考えると、澁澤榮一という人物を成立させているのは決して『論語』だけではありません。『論語』によって、澁澤翁は確かに、つねに天下国家を意識して行動するという気概を身につけたのでしょうが、そのことを彼のやった「実業」に応用するにあたっては、日本独特の「商人の倫理」があったからであるはずで、『論語』からはそんなものは出てこないのです。

 日本独特の「商人の倫理」というのは、石門心学に代表される江戸期哲学です。元禄の華やかな時代が終わって世の中が不況に向かい、特に貿易が制限されたためにゼロサム社会となって、誰かが得をすれば誰かが損をしてしまうという18世紀日本において、はたして商人は(職人・農民などでも同様ですが)なんのために稼げば良いのか……という深刻な問題に応えたのがこれらの哲学でした。
 石門心学の祖・石田梅岩が考えたのは、農民が田を耕すのも、職人がものを作るのも、商人が商売をするのも、いずれも彼自身の人格を高める精神修養のためなのだということでした。つまり、人は自分の仕事に打ち込むことによって人格を高めるべきで、それによる利得などは余分なものだという意識です。
 多くの日本人の意識や無意識の中に、この教えは染みついていると言って良いでしょう。今となっては、いわゆるブラック企業の言い訳になっていたり、日本人個々が勤勉なわりに日本企業の生産性があまり高くない原因になっていたりする困った面も現れてきていますが、澁澤榮一や岩崎弥太郎をはじめとする明治の実業家たちが、私利私欲を離れて天下国家のために仕事ができた(あるいは、私利私欲と天下国家をうまい具合に止揚できた)のは、まさにこの日本流哲学のおかげだったのではないでしょうか。

 例えば王子製紙の原型である製紙会社を起こすにあたって、澁澤榮一はアメリカの商人に掛け合います。そのアメリカ人は、澁澤と自分、そして製紙のための機械を輸出する英国企業と三者の合弁会社にしようではないかと提案しました。おそらく澁澤個人の利益はその方法がいちばん大きくなったと思われ、仲介のアメリカ人ももちろん好意でそう言ってくれたわけです。
 しかし澁澤は、国産の紙ということにこだわりました。これからどんどん必要になる洋紙を、輸入に頼っていては、国の財産が見る見る減ってゆくのは眼に見えています。たとえ初期費用が何倍にもなっても、製紙のシステムごと導入して、自前で紙を作るべきだと彼は考えたのです。
 これは何も澁澤榮一だけの話ではありません。多くのジャンルで、明治人が考えたことです。そして多くの場合、彼らは国費などに頼らず、私費をはたいてそういうことをやりました。日本がまがりなりにも近代国家としての歩みをたどれたのは、そんな「実業家」がたくさん居たからでした。
 例えば中国の商人だったら、こういう場合、自分の利得をすばやく計算し、すぐに合弁会社の設立に応じたのではないかと思えてならないのです。その結果、洋紙がいつまでも国産化できず、輸入のために国富が流れ出し続けても、知ったことではないというところでしょう。
 地震で崩れたコンクリートの建物に鉄筋が全然入っていなかったとか、肉まんに水酸化ナトリウムで処理した段ボール紙が混入していたとかいうニュースを聞くにつれ、中国の実業家には、基本的な倫理というものが欠如しているのではないかと疑いたくなります。いい加減なものを高く売りつけ、相手がそれに気づいて騒ぎ出す前にさっさとトンズラするという行為が、称賛はされないまでもどこか容認される風土があるとしか考えられません。
 今年のPm2.5にしても、公害対策については世界でもトップレベルである日本が協力してなんとかしてやりたいところではありますが、はたして中国の企業が本気で公害対策をしたいと思っているのかどうかが、いまひとつ信じきれません。
 公害対策には当然ながらお金がかかります。日本の企業だって、公害が騒がれ始めてしばらくはそのお金を出し渋りました。しかし、いち早く対策をはじめたところは企業イメージがずんと上がりました。それを見て、われもわれもと排気ガスや省エネの研究をはじめたのが、現在の先進ぶりにつながっています。つまり「長い目で見れば公害対策の投資をしたほうがわが社の得になる」という判断があったわけですし、もちろんそれとは別に「企業は公益にかなう存在であるべきだ」という信念もあったことでしょう。
 現在の中国企業に、「長い目で見れば……」という感覚、「公益」という感覚があるのかどうか、私には甚だ心許なく思えます。それだから、日本としても協力のしようがないのではないか、というのが私の諦観を伴った観測です。
 日本の企業がそういうことにならずに済んだのは、やはり澁澤榮一をはじめとする明治の先覚者たちのおかげであったと考えざるを得ません。石門心学の「わが身の修養」「利益以外のものの重視」という考えかたを刷り込まると共に、論語の「天下国家」意識を学んだ人々であったればこそ、それができたのだと思うのです。
 現代の企業の一部に、その感覚を忘れつつあるように感じられるところがちらほら見受けられるのは憂うべきことと言えそうです。企業人は、いちど王子の澁澤榮一史料館を訪ねて、よくよく想いを馳せてみてはいかがでしょうか。

(2013.5.8.)

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