海外の反応をまとめたタイプのあるブログで「アルプスの少女ハイジ」の話題が出ていたので、つい懐かしくなって、厖大なコメントを全部読んでしまいました。私が子供の頃に親しんだアニメでもありますし、残念ながら絶版となったアニソン合唱編曲集のタイトルでもありますから、それなりに思い入れもあります。 画面構成宮崎駿、演出高畑勲、キャラクターデザイン小田部羊一というビッグネームが名を連ねていて、半世紀近くを経た今でも、日本国内はおろか世界中で親しまれているという名作です。
ただし「ハイジ」は『世界名作劇場』という枠で語られることが多いのですが、実は瑞鷹エンタープライズというプロダクションが制作した作品であるため、日本アニメーションのブランドとしての『世界名作劇場』には含まれていないそうです。しかし、その後の『世界名作劇場』の方向性をはっきりと定めた作品であることは疑いを得ません。 その頃は番組枠も『カルピスまんが劇場』と呼ばれていました。この枠での最初の作品はなんと「どろろと百鬼丸」でした。言わずと知れた手塚治虫の怪作「どろろ」のアニメ化で、現在では放送禁止用語だらけすぎて再放送不可能と言われています。これはもちろん広義の『世界名作劇場』にも含まれていません。 次が「ムーミン」でした。これは確かに『世界名作劇場』の一員としてふさわしい作品と言えたかもしれませんが、当時(1969年)としてはまだ一般にほとんど知られていないキャラクターでした。
キャラクター造形やシナリオなどに、原作者のトーベ・ヤンソン女史が苦言を呈したという事件もありました。あわてて原作の挿絵に似たキャラクターデザインに変えてみたら、今度は視聴者から「怖い」「不気味だ」と不評で、結局原作者に頭を下げ、日本国内でのみ放映して外国には出さないということで勘弁して貰ったとか。
初期にはそういうゴタゴタもありましたが、いちおう方針が定まってからは人気が出て、2年近く放映したのち、「アンデルセン物語」をはさんで新シリーズが放映されたほどでした。私もムーミンと言えば、90年代に放映された高山みなみのムーミンよりは、この岸田今日子版をイメージします。
「アンデルセン物語」は数話完結でいろんな物語を紡いでゆくかたちで、キャンティとズッコという、オリジナルキャラの進行役が登場していました。いま調べたらこのふたりの妖精のCVは増山江威子と山田康雄、すなわち峰不二子とルパン三世だったと知って驚きました。
新「ムーミン」ののち、「山ねずみロッキーチャック」という動物ものが入り、そのあとが「ハイジ」だったのでした。
「ハイジ」はアニメ以前に子供向けの世界文学全集で読んだことがありました。その意味では私にとって「よく知っている物語」であり、それが一年間のアニメ番組になるということにワクワクが止まらなかった記憶があります。
番組がはじまってみると、何よりも背景の美しさに驚きました。このアニメを作るために、制作陣がかなり長期間スイスへ出かけてロケをしていたという話をあとで知りました。1974年といえば、まだまだそんな贅沢はなかなかできない時代で、制作陣の熱意と意気込みのほどを感じずには居られません。
背景と共に素晴らしかったのが食べ物の描画でした。アルム爺さんが鍋からすくい取るトロトロのチーズ、それからフランクフルトでハイジがはじめて出合う白パン。なんておいしそうなんだろうかと思いました。もっともあのチーズ、ヤギの乳で作っていたようですからいわゆるシェーブル・ショーというヤツで、日本の子供には少々癖が強いというか、実際食べた時の「コレジャナイ」感が相当ありそうです。
音楽も、ヨーデルを活用した名曲でした。このあとしばらく、このシリーズのテーマ曲は、舞台となる地域や国の民族性を巧みに活かしたものが多くなります。
「ハイジ」は日本での放映後、USAだったかのプロモーターに買い取られて、欧米を中心にあちこちに配給されました。ところが、日本人はその頃まだ著作権ビジネスに疎く、えらく低額で買い叩かれ、いろんな国に配給されても金銭的な実入りはほとんど無かったそうです。それだけならともかく、このプロモーターは悪質なことに、オープニングやエンディングで流れるスタッフロールを全部消して売りさばいたとか。そのため、「ハイジ」が日本製アニメであることは、長いこと知られていなかったと言います。
アニメ大国として世界中に認められている日本ですが、1970年代頃にはまだ、そんなにすぐれたアニメが作れるなどとは思われていなかったようです。ドイツなどではドイツ製と長らく信じられ、日本人がドイツに行って
「君らの国でもアニメーションを作っているそうだが、これほどすばらしい作品は作れまい」
と自慢されたという話も残っています。
また、「ハイジ」に親しんだ少女が大人になってから日本製と知ってびっくりし、いまだにやっている再放送を見ているわが子にそう言うと、
「そんなの知ってるよ。あのハヤオ・ミヤザキが作ってるんだよ」
と子供から言い返されてまたびっくりしたなどという話も聞きました。
ともかく、エポックメイキングなアニメであったことに間違いはありません。
「ハイジ」で方向性を定めた『カルピスまんが劇場』は、次の「フランダースの犬」からいよいよ日アニの制作となり、狭義の『世界名作劇場』がはじまります。この番組の途中から、枠の名称は『カルピスこども劇場』と変更されます。
「フランダースの犬」も私は番組以前に名作本で読んでいました。動物を扱った理科マンがの中でも紹介されており、日本の子供にはわりと知られた物語であったと思います。
舞台となっているのはベルギーのアントワープとその近郊で、今のように「聖地めぐり」が流行し出す前から、「フランダースの犬」のふるさとを訪れる日本人が多かったようです。そして、現地の人々がまったくその物語を知らないことに愕然とするところまでがテンプレみたいなものでした。
それもそのはず、「フランダースの犬」という物語は、ベルギーが舞台ではありますがベルギー人の作品ではなく、ウィーダという英国婦人(父はフランス人)が書いた小説なのでした。英語で書かれ、英語圏で読まれていた物語ですから、ベルギー人が知らないのは当然です。
それでもあんまり勘違いした日本人が訪ねてゆくせいで、今ではアントワープにネロとパトラッシュの像が建てられていると聞きます。しかしパトラッシュの犬種がアニメと違うので、これまた「コレジャナイ」感が大きいのだそうで。
物語を知っているベルギー人に言わせると、「われわれはあんなに薄情じゃない!」とのこと。また、アニメの背景やアロアの衣裳などががオランダ風であることに不快感を持つ人も居るようです。USAあたりで作られたアニメで、日本の女の子がチマチョゴリやチャイナドレスを着ていたとしたら、やはり「なんだかなあ」と言いたくなるでしょうから、まあ無理もありません。前年にスイスに行った時ほど綿密なロケはできなかったのでしょうか。
ルーベンスの絵の前でネロとパトラッシュが息絶えるラストシーンは、日本では「感動的なラストシーン」の代表と言って良く、いまでもよく「懐かしアニメ」の特集などで登場します。私もいま見ても微妙に涙腺がゆるみそうになるのですが、欧米ではあまり評判が良くないのだそうです。前に見たハリウッド制作の実写映画では、なんとハッピーエンドになっていました。
次が「母をたずねて三千里」。これも事前に読んでいました。イタリアからアルゼンチンへ少年が旅する話なので、オープニング曲がアンデス調、エンディング曲がカンツォーネ調なのが面白かったです。
原作はデ・アミーチスの『クオーレ』の中に挿入された短編です。『クオーレ』は小学生の1年間の日記という体裁で書かれていますが、月に一回「先生のお話」という短編小説が置かれています。その第8回が「アペニン山脈からアンデス山脈まで」という物語で、これが「母をたずねて三千里」の原作なのでした。
当然ながら、もとの話はごく短い、10ページも費やさずに終わるような掌編で、これをよくぞ一年間の連続アニメに仕立て上げたものだと、当時から感心していました。もちろん原作に出てこない人物やエピソードを大量に投入しています。
ちなみにこのアニメが放映されていた時私は6年生で、ちょっとばかり思春期に差し掛かっていました。そのせいもあって、オリジナルキャラである旅芸人一座の少女フィオリーナに妙に惹かれたものでした。いまだったら「萌え〜〜」というところですね。
一方マダムは当時3歳くらいだったはずで、その頃買って貰った、主人公の少年マルコと猿のアメデオが描かれているハンカチをまだ後生大事に持っています。
次の「あらいぐまラスカル」は、中学受験の関係で最初をほとんど見なかったので、中学に入ってからも飛び飛びにしか見ていませんでした。キャラクターとしてのラスカル以外は、あまり記憶にありません。ラスカルが狂犬病にかかっているのではないかと騒ぎになるところと、最後に自然に帰すあたりだけ、なんとなく憶えているようです。
しかし、私の朝食のパン皿は、コンビニエンスストアのポイントで貰ったラスカルの柄のものです。2枚あって、1枚は中央にラスカルの顔が、もう1枚は周囲に小さなラスカルが描かれており、前者を私が、後者をマダムが使っています。
「ペリーヌ物語」は「家なき娘」というタイトルで知られていた物語でした。同じ作者(エクトール・マロー)による、少年が主人公の「家なき子」と対になっていた感じです。私ではなく妹が本を持っていて、そちらでは「家なき少女」という題名になっていました。
ボスニアからクロアチア、イタリア、スイス、フランスと、きわめて多様な土地を舞台にしているため、制作陣が取材に行くことはできず、手許の資料だけで作画したため、微妙に変なところがあるとか。またあえて設定年代をずらしたせいでいろいろ矛盾が出てきているという話も聞きました。
そういう、ちょっと残念なところがあるとはいえ、「ペリーヌ物語」には画期的な点もありました。それは、主人公をあまり子供子供した造形にしていないことです。
それまでの主人公は、設定が5〜7歳くらいと思われるハイジはともかくとして、どうも「小さい子」すぎるのではないかという疑問が私にはありました。ネロは確か15歳くらいのはずですが、そのくらいの年齢の少年にしては、ジェハン爺さんだのコゼツの旦那だののサイズに較べて小さすぎるのです。マルコも12歳くらいの設定だったと思うのですが、アニメでは8歳くらいにしか見えませんでした。
アニメ表現上のデフォルメと言われればそのとおりなのですが、ペリーヌがそのデフォルメから免れていたことに注目しました。彼女は運命にもてあそばれるだけの非力な少女ではなく、自分が大富豪の祖父に歓迎されざる存在であると知るや変名を使って近づき、さまざまな仕事をこなすうちに秘書のスキルを身につけ、邪悪な親戚たちと堂々立ち回って、見事に幸福を手に入れるというペリーヌの奮闘は、考えてみればほとんど「自立した女性」の生きかたと言って良いものがあります。こういうヒロインを造形するのに、それまでみたいに小学生並みの体格にしていたのでは、むしろリアリティが感じられないでしょう。
このあと、極端に子供子供したキャラクターデザインは『世界名作劇場』ではあまり見られなくなりました。設定上で低年齢であっても、実物の大人と子供のバランスに近い造形になっていたと思います。
そしていよいよ「赤毛のアン」登場です。
オープニング・エンディング曲が三善晃、劇中音楽が毛利蔵人という、クラシック系の一流作曲家を起用した豪華なサウンドにまず注目すべきでしょう。エンディング曲「さめない夢」の、あたかもピアノ協奏曲のような壮大な曲想に、私は本放送の時から夢中になっていました。まさか後年、自分がこの曲を合唱編曲することになろうとは、中学3年生の私はもちろんまるで予想していませんでした。
「赤毛のアン」には、母がえらく入れ込んで、新潮文庫で出ている10巻組の原作本を全部買ってきて読んでいました。私もすぐに読みました。途中には「あしながおじさん」みたいな書簡体の巻もあり、スピンオフ短編集と呼ぶべきものもあり、作者モンゴメリーがいろいろ趣向を凝らして書き継いで行ったことが偲ばれます。
もっとも第2巻(「アンの青春」)以降はアンが大人になってしまっていて、第1巻で見せていたぶっ飛んだ女の子っぷりは影を潜めてしまいます。だから第1巻ばかりがもてはやされるのも、まあやむを得ないことでしょう。アニメも第1巻の範囲だけで終わっていました。
カナダのプリンスエドワード島という狭い舞台で終始する物語なので、これはしっかり取材してきたものと思われます。背景の美しさは「ハイジ」以来のものでした。
また、これまでの作品と違い、アンシリーズはカナダの国民的文学と呼んで良い存在であり、アン自身も国民的ヒロインです。私がカナダに行った時に滞在したバーリントンという街は、内陸のオンタリオ湖沿いにあり、プリンスエドワード島などとはまるで無関係な土地であったにもかかわらず、郊外の公園でおこなわれているイベントなどはアンに便乗しまくっていました。郷土資料館みたいな小さな建物にも、アンの住まいだった「グリーン・ゲイブルズ(緑破風荘)」の名前がつけられていたほどです。
かようにカナダでは人口に膾炙した存在ですから、日本のアニメといえども、そのイメージを損ねないように作ったものとおぼしく、これまでの作品ではもっとも「異国」を感じたようにも思えました。
私が『世界名作劇場』をほぼ欠かさずに見ていたのは(ラスカルを除いてはですが)、だいたいこの頃まででした。
翌年の「トム・ソーヤーの冒険」、その次の「ふしぎの島のフローネ」も時々は見ていましたが、だいぶ欠落があります。さすがに高校生になると、毎週決まった時間にテレビを見るということ自体が困難になりますし、家に入ったばかりのビデオデッキに録画してまで見るほどの情熱は無くなってきました。
制作のほうもだいぶ低調になってきたようです。カルピスの一社提供は「ペリーヌ物語」で終わり、「赤毛のアン」からは相乗りになっていましたが、年々予算が削られたようで、「フローネ」の次の「南の虹のルーシー」になると、オープニングがすべて止め絵という惨状に陥りました。当然、アニメ自体の出来も減退方向に進んでいるようでもありました。
この後、私がほぼ全部見たのは、「トラップ一家物語」「大草原の小さな天使ブッシュベイビー」「七つの海のティコ」そして最後となった「家なき子レミ」くらいです。
「トラップ一家」はつまり「サウンド・オブ・ミュージック」の元ネタですので、そちらの興味から、「フローネ」以来10年ぶりに見てみる気になったのでした。すでに私はひとり暮らしをはじめて久しく、ビデオデッキもありましたので、不自由なく視聴することができました。なお主人公が番組中で結婚するのはシリーズ中でこれだけではなかったかと思います。
翌年の「ブッシュベイビー」はその惰性で見ていましたが、珍しいアフリカもので、思いのほか面白かった記憶があります。
「ティコ」は完全オリジナルアニメでした。この頃、変な著作権シンジケートが跋扈していて、海外の有名作品を原作として使うことに対し、おそろしく高額な版権料を要求することが多く、それでオリジナルということにしたのだと聞いたことがあります。やむを得ない仕儀でしたが、「こんなの『世界名作劇場』でもなんでもないじゃないか」という声が強かったのを憶えています。もっとも、オリジナルアニメとして見ればけっこう面白かったと思うのですが。
「ティコ」のあとが「ロミオの青い空」といういささかマイナーな話、それから「名犬ラッシー」という海外ドラマのリメイクとなってしまったのも、版権料の関係だったかもしれません。「家なき子」の主人公が女の子という、途方もない改変がおこなわれてしまったのも、もしかしたらシンジケートの目をくらますためではなかったか、などと疑心暗鬼にかられてしまいます。
ともあれ「ラッシー」と「レミ」に至って、それまで常に2桁をキープしてきていた『世界名作劇場』の平均視聴率が10%を切り、もはや続けられなくなったというのも、まあ無理のないことだったでしょう。
10年以上経ってから、衛星放送で新シリーズがはじまりました。「レ・ミゼラブル 少女コゼット」「ポルフィの長い旅」「こんにちはアン」の3作が作られたようです。これがはじまった頃はまだBSを見られなかったので、結局ひとつもチェックしていませんが、若干の評判は耳にしています。どれも今ひとつ「コレジャナイ」感があるようで。
「コゼット」は「レ・ミゼラブル」の物語をコゼット視点で描いたものであったようですが、妙に萌え絵っぽいコゼットで、しかもラストが大幅に改変されてハッピーエンドになっていたとか。「ポルフィ」についてはまったく仄聞していません。「こんにちはアン」は「赤毛のアン」の「前日譚」、グリーン・ゲイブルズに引き取られる前の孤児院時代の話だそうですが、当然ながらオリジナルストーリーとなっています。
ワンクールで終わる泡沫アニメを少し控えめにして、『世界名作劇場』のような番組をまたしっかり作って欲しいという声はよく聞きます。新規に制作するのが大変なら、旧作のデジタルリマスターでも良いので、地上波のゴールデンタイムに復活させるべきです。このシリーズは、NHKの大河ドラマ同様、「同時代」を象徴するアイテムとなっており、そういうものを今の子供たちがあまり持たないのが気の毒に思えてなりません。
(2013.9.5.)
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