『セーラ~A Little Princess~』の途中経過を書いておきます。 冒頭の合唱曲、というか合唱組曲でけっこう手間取ってしまい、なかなか進みません。台本は現在の形では40ページほどあるのですが、ようやく4ページ半まで進めました。やっと10分の1かと思えば気が遠くなるようですが、やりやすい箇所とやりにくい箇所がありますので、単純計算で今までの10倍近くということにはなりません。 短いセンテンスで会話が続くような箇所は、比較的進みやすいところです。モーツァルトのオペラのようなレチタティーヴォ・セッコではなく、一応ずっとオケがついて、メロディも整えてありますが、わりと薄い伴奏になるのは事実です。会話のところは言葉を聞かせないとわけがわからなくなるからです。 一方、アリアのような部分は、やはりそれなりに独立した曲として成立するようにするため、手が込んだものになりがちです。従って、かかる手間というのは、そういうところを分けて考えなければ予測できません。
そういう意味では、冒頭の合唱はやはり手間のかかるところではありました。幕開きを印象づけたいという狙いもありましたので、余計に苦心したということもあります。事実上、3曲からなる合唱組曲をひとまとめにして序曲のような扱いにしているわけで、そう簡単にまとまるものではありません。
合唱の部分は、台本で言うと最初の1ページだけに過ぎません。同じ1ページでも「濃い」ほうの1ページであって、他のページではそれほど手間取らないとも思われます。実際、次のページでミンチン先生が出てきてしゃべりはじめると、わりとすらすらと進みました。
原作ではセーラが、父親のキャプテン・クルー(「クルー大尉」と訳されている本が多いのですが、キャプテンという階級は陸軍大尉であると共に海軍大佐でもあり、また艦艇の艦長でもあります。のちにセーラがラム・ダスを「インドの水夫」とすぐに見抜いたのは、父の部下に水夫が多かったからと思われ、だとすると海軍だった可能性が高い気がします。しかし断定はできないので、台本では「キャプテン・クルー」としました)に連れられてロンドンへやってくるところから始まりますが、台本ではそのくだりはカットし、いきなりミンチン女学院にセーラが転入してくるところから開始しています。そもそもキャプテン・クルーは名前が出てくるだけで、舞台には登場しません。
院長のミンチン先生が転入生を紹介して、セーラが登場します。とりあえずこのふたりの登場をうながすモティーフ(ライトモティーフとまで言えるかどうかは微妙ですが)は作りました。そして、いきなりフランス語の授業となります。
フランス語教師のデュファルジュ先生を示すモティーフも現れます。明らかにフレンチな曲想で、授業シーンはずっとその曲調のままで進行します。
原作でも、セーラの亡くなった母親がフランス人という設定になっており、しかも英国軍人である父親まで妻を偲んでしばしばセーラにフランス語で話しかけていたということになっています。セーラはほとんどバイリンガルであるわけです。それとは知らず、ミンチン先生はセーラに初歩のレッスンを受けさせようとします。
セーラが何か言おうとするのを聞きもせずミンチン先生はひとりで話を進め、その結果あとで赤っ恥をかくわけですが、こういうところは作曲していても楽しいですね。それ以前に、妹のミス・アメリアの言葉を途中でさえぎるというシーンもありましたが、音楽にする場合、他の人が歌っているメロディを断ち切るか、あるいはそこにかぶせてフレーズを始めるということが容易にできますので、ミンチン先生の、人の話を聞かないおしゃべり婆さんぶりを、けっこううまく表現できているのではないかと思っています。
さてデュファルジュ先生はミンチン先生に言われたとおり、初歩、オペラではアルファベットから教えようとしはじめるのですが、ついに辛抱しきれなくなったセーラが流暢にフランス語を話しはじめます。デュファルジュ先生はびっくりし、次いで感激して、ひとしきりセーラとフランス語で会話するのです。この部分の二重唱が、冒頭の合唱を除くとこのオペラの最初のナンバーとなります。
二重唱は完全にフランス語の歌詞になっています。歌詞は私が概要を示してマダムに訳して貰い、さらにマダムの通っているフランス語学校の先生(もちろんフランス人)にチェックして貰ったので、問題は無いのですが、ただ聴いている人にはあまり理解できないと考えられます。セーラとデュファルジュ先生が何やら流暢にフランス語で会話しているということがわかれば良いので、歌詞の内容まで伝わらなくても良いと言えないこともありませんけれども、それも不親切な気がして、迷いました。そこだけのために字幕をつけるのも大変です。最近は日本語のオペラでも字幕をつけることが多いので、いっそ全部つけてしまおうかとも考えましたが、それも無駄な出費であるような気がします。
同じメロディで、フランス語を歌ったあとにすぐさま日本語の訳詞で歌ったらどうか、とも思いました。しかし実際に作曲にかかってみると、そんなことをしては興が削がれること甚だしいものがあります。
仕方がないので、舞台上でこの二重唱を聴いていたはずのラヴィニアに、あとで内容を解説させることにしました。ラヴィニアは意地悪な女の子でいわば敵役ですが、セーラが来るまでは一番の優等生だったということにしてあります。原作ではラヴィニアの成績までは触れられておらず、これは私の持ち込んだ補足設定です。ラヴィニアには、第二幕の最後近くでかなり力の入ったアリアを与えるつもりで、そのアリアの歌詞に
なんでも持っていて なんでもできる あの子がきらいだった
あの日までは わたしがなんでもいちばんできたのに
フランス語も算数もお作法も 誰よりもできてたのに
あの子が来てから わたしはずっと二番目
というくだりを作ってあります。彼女の意地悪にもそれなりの理由をつけたいと思ったのでした。
学校で2位ですから、当然フランス語で交わされる会話の内容も理解していた、というわけです。
ところで外国語の歌詞に作曲するというのは興味深い作業です。私は今まで、ラテン語と英語を使ったことがありますけれども、曲の発想そのものが日本語の場合と異なってくるのが、はっきりと自覚できます。
そうは言っても、その言語のリズム感とかそういうものを会得していなければ難しいことでもあります。単語のアクセントを調べることはできますけれども、文全体のイントネーション、リズム感といったものはなかなかわかりません。
私はフランス語を大学の第二外国語で1年間だけ学びましたが、とてもとてもリズム感を会得するところまではゆきませんでした。
従って当然、これもマダムの手助けを求めることになりました。一応作曲してみて、そのメロディがフランス語のリズム感に反していないかどうかを訊ねたわけです。
結果はまあ、ほぼ合格でした。1箇所だけマダムの意見を容れて言葉の宛てかたを変えたところがあります。私もまったく無手勝流で作ったわけではなく、一応これまでに聴いたシャンソンなどをイメージしながら音を並べたので、致命的に変、ということにはならなかったようです。
歌の場合は、会話では発音しない語尾の母音などをあえて発音することもあるので、意外と融通は利くらしいのでした。今回の歌詞の中で、manquent(今は亡き)という言葉があり、これは普通は[mɑŋk]のように発音するのだと思います。後半の「uent」は発音上まったく無駄な綴りであるわけで、フランス語にはそういう綴りが多いですね。しかし、歌になると[mɑŋkə]のように、いわゆるアイマイ母音を添えても良いようです。こういうことが許されなければ、作曲もどえらく難航したことでしょう。
ともあれフランス語のくだりは終わり、目下、次のシーンに進みつつあります。
ごくざっと「ナンバー」となりそうなものを数えてみると、最初の合唱、フランス語の二重唱のほか、
・ミンチン先生のアリア(学校の経営は大変だと愚痴る歌)
・ラヴィニアとジェシーの二重唱&アーメンガードの独唱(ほぼ同じフレーズが繰り返され、1回目は二重唱で2回目は独唱となる)
・セーラのアリアI(ミンチン先生に叱られているベッキーをかばう歌)
・合唱(一文無しになったセーラを責め立てる歌で、三重合唱の他いろいろ独唱も入る)
・セーラのアリアII(ひとりぼっちになったことを嘆く歌)
・セーラとベッキーの二重唱(ベッキーがセーラを励まし、セーラが復活する歌)
・セーラとベッキーとアーメンガードの三重唱(パーティのふりをする歌)
・ラヴィニアのアリア(ミンチン先生のふるまいにドン引きし、自分を顧みる歌)
・カリスフォードのアリア(悔い多き人生の歌)
・セーラとカリスフォードの二重唱(セーラが養女になる歌)
・ミンチン先生とアメリアの二重唱(アメリアの反撃の歌。ほとんどアメリアのアリアに近い)
くらいのことになりそうです。この他にも、ある程度まとまった曲想を続けたり繰り返したりするべきところがいくつもあります。というか、そうなるように台本を作っておいたわけです。作曲者自身が台本を書くことの強みですね。
そういえばヴァーグナーも、自分のオペラの台本は必ず自分で書いていました。ヴァーグナーに文才があったことはもちろんですが、それよりも何よりも、のちの作曲に都合の良いように台本をしつらえるということが容易にできるのが理由であったに違いありません。確かに彼の無限旋律にしろライトモティーフにしろ、台本が人まかせではそんなに都合良く作曲できなかったのではないでしょうか。
私はずいぶん麻稀彩左さんの台本で音楽劇を書きました。自身も作曲もおこなう人であるため、書きやすさはあったと思うのですが、やはり私がやってみたいと考えていることを反映した台本というわけにはゆきませんでした。例えばベタベタな「愛の二重唱」を書きたいものだと私は思っていたのですが、どうも麻稀さんはそういうものがお好きではなかったようで、結局いちども出てきませんでした。かろうじて今のところ最後の麻稀台本による作品となった『レストラン』の中で、台本上は男女ひとりずつの独唱であったところを、曲にするときに無理矢理二重唱に仕立て上げたことがある程度です。
ICHIKOさんの台本では二重唱・三重唱が意識的に用いられていて、その点では良かったと思います。まあモノが幼児対象の音楽劇でしたから、そんなにベタベタな愛の二重唱ということではありませんでしたが、歌詞の内容は内容として、音楽上では思いきりラブソングにしてしまいました(「Whole New World」を意識したという噂もあります)。
『セーラ』はほとんどが女子学校の中で終始し、男性の登場人物が最後のほうまで出てこないし、残念ながらラブソングの介在する余地はありません。しかし、唯一の男女二重唱であるセーラとカリスフォードの歌を、これまた歌詞の内容はおいといて、音楽上でのみベタなラブソングに仕立て上げてやろうかと考えています。
その部分の台本は、亡父の親友で結果的に亡父を裏切ったことになったカリスフォードがセーラに許しを求め、養女になってくれるよう頼む一方、セーラは戸惑いながらもその申し出を受け容れるというものです。養子縁組の申し出とその受諾は、音楽の上では、結婚の申し出とその受諾ということとイコールにすることが可能で、しかも作曲者がラブソングのつもりで作っていることを聴く人にわからせることも、おそらくさほど困難ではないと思っています。音楽というのはそういうことができるのですね。
さて、問題の所要時間は、今のところ25分くらいになっていそうです。意外にどんどん小節数が増えてゆくので驚いているところです。この分だと、短すぎるということはまず無さそうですが、逆に長すぎることを心配しなくてはならないかもしれません。冗長にならないよう気をつけて進めてゆきたいと思います。
(2014.3.20.)
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