忘れ得ぬことどもII

時代の変遷──言葉と価値観と

 現代日本人がタイムマシンに乗って過去へさかのぼったとして、どのくらいの時代の人となら通訳無しで会話ができただろうか、という思考実験があります。
 現代日本語の中の概念語の多くは、明治以降に西欧語から翻訳された和製漢語なので、こちらがそういう言葉を使ったら相手に通じないのはもちろんです。しかしいまとなっては、その種の言葉を使わずに会話をすることは、現代人にはなかなか難しいでしょうね。
 とりあえず、向こうの言っていることがこちらにわかるかどうかという点だけに注目すると、たぶん室町時代くらいが限界だろうと言われています。鎌倉時代の人とは、もう通訳無しで話をすることは無理だろうというのです。
 古文を読んで意味はわかるのですから、話もできそうな気がしますが、あれは文語だからなんとかわかるのであって、その時代に実際に話されていた言葉とは違います。われわれは言文一致以降の言語世界に生きているので、話し言葉と書き言葉がそれほど乖離しているという状態が、かえってイメージしづらくなっていますけれども、日本で文字が使われはじめて千何百年というもの、むしろ口語と文語は別というのが普通だったのでした。いまでも、
 「それ、普通の会話では使わないでしょう」
 というような言葉が無いではありません。

 しかし考えようによっては、当時の文語、つまり古文を読み上げるように話せば、ある程度は意思を伝えることはできるかもしれません。向こう──つまり鎌倉時代人とか平安時代人とか──もそれに気づいてくれれば、直接の意思疎通もできないとは言えないのではないでしょうか。
 司馬遼太郎『夏草の賦』の冒頭で、織田信長の治める美濃にやってきた土佐の侍が、方言が通じないのに困って、狂言の口調で話してやっと通じる、という場面がありました。戦国時代くらいまでは、方言の差異はいまよりはるかに大きかったはずで、東北の伊達政宗と九州の島津義弘が出遭ってもほとんど言葉が通じなかったことでしょう。それで一種の共通語として用いられたのが狂言口調であったろうという見かたには納得がゆきます。日本各地どこでもいちおう言葉が通じるようになったのは、江戸時代参勤交代がおこなわれて、何百人規模で人々が長距離移動を頻繁におこなうようになってからのことだと思われます。
 それと同じように、現代人と中世以前の人との意思疎通も、文語を用いたらできそうな気がしますが、単語の発音も違っているでしょうから、それもまたなかなか骨の折れることかもしれません。筆談がいいところでしょうか。

 昔の発音を推測するのは大変ですが、16世紀頃であれば「日葡(にっぽ)辞書」という非常に有用な書物があります。ポルトガルの宣教師が日本人信徒の協力を得て作った辞書で、当時の上方の日本語がローマ字表記されています。ポルトガル人が聴いて書き取ったものですから、そのローマ字が正確に日本語の発音を示しているかどうかは微妙ですが、少なくともそう聞こえるような発音をしていたことは確かでしょう。例えば、その後あまり使われなくなった「ふぁ」行(ふぁ、ふぃ、ふ、ふぇ、ふぉ)が普通に使われていたらしいことがわかります。また「せ」「ぜ」は「しぇ」「じぇ」のような発音であったようです。
 旧仮名遣いで「てふてふ」と書いてあれば、われわれは「ちょうちょう」と読むものだと思っていますが、この旧仮名遣いは、奈良時代頃の発音を表しているとされています。ただし奈良時代の人は、たぶん「tefu-tefu」のようにではなく、「tep-tep」あるいは「tip-tip」のように発音していただろうと思われます。そういえばずいぶん前に、原始人みたいな扮装をした人物が、凍えながら
 「ちゃっぷい、ちゃっぷい」
 と言っている、確か使い捨てカイロか何かのコマーシャルがありましたが、あれは「さむい」という言葉の大昔の発音と思われる言いかたでした。
 古来より同じ言葉を使い続けているはずの日本人でも、時代が違えばほとんど通じなくなるというのは、残念なようでもあり、日本語というものの弾力性と強靱さを表しているようでもあり、少し複雑な気分にさせられます。

 言葉だけでもそうなのですから、ものの感じかた、考えかたなどというものは、時代によって相当に変わるものなのだろうと思います。
 自分の生きているあいだだけでも、社会の空気というか、主流となっている考えかたが、ずいぶん変化したように感じます。多くは自然の、あるいは人為的な環境の変化のためであるかもしれません。例えば北朝鮮による拉致事件や、中国による軍事的恫喝が起こっていなければ、日本人の意識はまださほど変わっていなかったのではないでしょうか。これら外的環境の変化により、
 「このままではいけないのではないか」
 「われわれは少し平和ボケ過ぎたのではないか」
 と思う人が増えて、空気が変わってきました。もちろんネットの普及という要因もあったに違いありません。
 自分の記憶にある部分だけでもそれだけ変わってきたのですから、生まれる前の時代の人々が、どう感じ、どう考えていたかなどということは、容易に想像できません。その時代に書かれた文章などから、なんとか推測するしかないわけです。
 例えばUSAに宣戦布告した昭和16年12月8日。戦後に書かれた多くの書物では、その日のことを回想して、
 「これは大変なことになると思った」
 みたいな書きかたをされていることが普通でした。
 しかし、当時ほぼリアルタイムに書かれた文章を探してみると、むしろ、頭上を覆っていた暗雲が晴れたかのごとき、スカッとした気分になったというような感想のほうが多いのです。「大変なことになると思った」というのは、結果を知ったあとから無意識に記憶を修正したのだと見るべきでしょう。もちろん、晴れ晴れとした気分の底に、大丈夫だろうかという恐れがひそんでいたことは確かでしょうから、記憶を修正したと言っても嘘をついているわけではありません。ただ、不都合な部分を消去しているわけです。
 そもそも、戦争に国内の一般庶民が巻き込まれたのは、近代では大東亜戦争だけです。この戦争において、日本の庶民は空襲や原爆でひどい目に遭い、食糧難物資難に苦しみました。その経験があまりに衝撃的だったので、われわれは戦争が起これば庶民が不幸になると決めてかかっていますが、日清戦争でも日露戦争でも、駆り出された兵士たちこそ難儀しましたけれども、国内の庶民が苦しめられたということはありません。多少税金が上がったくらいでしょう。
 つまり、大東亜戦争の敗戦体験をまだ経ていない昭和16年の日本人たちが、開戦を知って暗い気分になる理由などまったく無いのです。むしろ真綿で首を絞められているようなUSAからの経済攻撃による逼塞感が、開戦で一掃されて晴れ晴れしたというほうが自然だろうと思います。
 「後知恵」でなく過去の出来事を見るというのは、ほんの70年ほど前のことであっても困難なものです。

 まして時代小説とか歴史小説とか、何百年も前のことを、まるで見てきたかのように描くのは、考えようによってはえらく乱暴なことではあります。
 「この小説の登場人物の言動は、あまりにも現代的でありすぎないか」
 というような批判が時代小説や歴史小説に寄せられることは珍しくありません。
 セリフで使う言葉が妙に現代的ということもあります。ただこれは作品によりけりで、明らかに近現代の言葉遣いをしているのにさほど気にならない、むしろ特異な効果を出している……という場合もあれば、鼻についてかなわないという場合もあります。作者の筆力、文体、構成力などすべてに関わって決まることかもしれません。
 それと同時に、作中人物のものの考えかたや価値観が現代的すぎるということもあります。むしろセリフ回しよりもこちらが気になることが多いかもしれません。前にも書きましたが、NHK大河ドラマの主人公が、みんな例外なく人殺しを厭う平和主義者ということになっているのは、その最たるものでしょう。
 しかし現代人とあまりにかけ離れた価値観で動く登場人物には、作者も読者も感情移入しづらいという問題もあります。考証はよくできているがさっぱり面白くない、ということになるのも考えものでしょう。
 結局、人間なんてものは、時代が変わっても基本的なところは共通しているものだ……という多寡のくくりかたをしないと、時代小説や歴史小説など書けるものではないのかもしれません。

 古い時代の、しかも外国のことを書くとなると、そういう多寡のくくりかたをさらに露骨にせざるをえないと考えられます。
 古代中国を舞台にした小説なども、日本ではよく書かれてきました。司馬遼太郎氏は『項羽と劉邦』のあとがきで、古代中国という文明の光源に照射された日本という周辺の地においては、中国の史書や思想書などの文献こそが自分たちの行動の指針ともなるものであり、先人たちはそれらから汲めども尽きぬ知恵を授かってきたために、いつしか日本人は古代中国を想う時に、それがかつて自分自身が属した文明であるかのように錯覚するようになった、という意味のことを書いています。そして司馬氏自身も、この小説を「そういう気安さの中で書いた」とのことでした。異邦であるという意識無しに書くことができたということなのでしょう。おそらく、司馬氏に先行する、吉川英治とか中島敦とかの諸氏も、同じ想いで古代中国ものの小説を書いたのだと思われます。
 宮城谷昌光氏になると、ほとんどライフワークとして古代中国ものを書き続けていますが、「そういう気安さ」を感じていなくてはとてもできないことです。
 時折、その点が批判されることもあるようです。つまり、太公望管仲孟嘗君も、なんだか現代日本人的でありすぎないか、というわけです。
 宮城谷氏と対極的な書きかたをしているのが安能務氏の著作で、私はこちらもだいぶ読みました。どう対極的かというと、こんどは太公望も管仲も孟嘗君も、みんなえらく現代中国人的であるのでした。戦中戦後にかけて多くの中国人と接した経験によるものでしょうが、安能氏のメインテーマは2点に集約されそうです。著書名にもなった「八股(パクー)と馬虎(マフー)、それに随所に登場する「銭は万能の宝貝(パオペエ)というフレーズで、彼はこの2点が中国人の本質であると考え、古代の物語を書くにあたっても、このふたつのコンセプトで歴史を斬りまくっています。
 ちなみに、「八股」とは中国の官僚の文章のことで、形式や装飾は仰々しいが内容が乏しいという喩えです。「馬虎」は「(馬だろうが虎だろうが)どっちでも構わない」というような意味で、儒教だろうが共産主義だろうが、中国人は本当のところイデオロギーなんか信じてやいないのだというニュアンスで安能氏は使っているようです。「宝貝」は「封神演義」に出てくる秘密兵器のこと、カネがあればどうにでもなるということを「銭は万能の宝貝」とシャレたわけです。
 宮城谷氏の小説を読んでやや食傷した人が、安能氏の本を読んで大変リアリティを感じた、という感想を見たことがありますが、古代中国人と現代中国人のメンタリティがそんなに似かよっているかというと、それもまた疑問です。私は逆に、安能氏の本を先に読んだせいか、これはちょっと極端ではないかと思ってしまったほうです。
 もしかしたら司馬氏や宮城谷氏が感じたように、古代中国人は現代中国人よりむしろ日本人に似ているのかもしれません。始皇帝が天下統一するまでの中国は、現代のヨーロッパにも似た国際社会であり、それぞれの国は血族の頂点である君主をいただく民族国家でした。その意味では日本と似ていたとも言えるのです。
 これも前に書いたことがありますが、春秋時代に徳目の最高位に数えられていた「仁」という概念が、その後の中国では容易に理解できないものになり、偉い儒学者たちが多くの言葉数を費やして説明しようとしましたが、あまり成功していません。それが日本語の「やさしさ」という言葉で、完全に、過不足無く言い表せてしまうことがわかって茫然とした、という話が石平氏の本に書いてありました。「文明は辺境に保存される」という説もあります。床に坐るという生活様式が中国では亡びて日本に残ったように、「仁」という概念も、中国では亡び、日本に残っていたということになりそうです。

 もちろん、実際にはタイムマシンで過去にさかのぼることはできません。歴史上にタイムトラベラーが出現している形跡が無いところを見ると(もちろん、本当はどこかにあるのかもしれませんが)、将来にわたっても過去遡行は無理であるようです。ブラックホールをうまく使えばタイムマシンになるというような説もありますが、その説をどうひいき目に検討しても、そのタイムマシンが完成した時点より過去へはさかのぼることができないようです。完成後であれば、その完成時点を上限として過去へ行くことができるのかもしれませんが……
 ですから、過去の人々の考えかたがどうであった、価値観がどうであったと言っても、彼らにインタビューして聞いてみるというわけにはゆきません。すべては想像です。その想像にリアリティを感じるかどうかは、受け手、つまり現代のわれわれの問題であるということになりそうです。
 中国や韓国が、よく日本に対して「歴史を直視せよ」というようなことを言ってきますが、それも結局、「彼らの心に映った歴史」であって、実体のある言葉ではありません。他国に対して「歴史を直視せよ」と言うのは、「わが国の考えている歴史の見かたを受け容れろ」ということにほかならないわけです。かつてはこう言われるとあたふたしてしまう日本人が多かったのですが、最近は堂々と反論する人も増えてきました。これもまた、時代が変わって考えかたも変化した一例と言えましょう。

(2014.8.17.)

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