忘れ得ぬことどもII

「公園」の憂鬱

 うちの近くにはいくつかの「公園」があります。
 本来は「児童公園」だったはずで、ブランコやシーソーなどの遊具もあった記憶があります。
 ところが、いつの頃からか、それらの遊具がすべて撤去され、ただのがらんとした空き地になってしまいました。ベンチひとつありません。
 そのうちひとつは、選挙があると毎回バラックの投票所が建てられますが、投票が済むとたちまち取り壊され、またただの空き地に戻ります。
 子供が遊んでいるのを見ることも、ほとんど無くなりました。
 子供というのはどんな状況でもたいてい遊びかたを思いつくもので、確かに公園にどうしても遊具が必要というわけではありません。空き地があればなんとか遊んでしまうものです。ある程度のスペースがあれば、各種鬼ごっこもできますし、ハンドベースボールなんかもできてしまいます。ハンドベースは人数が少なければ「三角ベース」なるものに改変することだって可能です。いろんな制約があっても、子供というのは何かしら工夫して遊んでしまうものです。
 が、公園に掲げられている札を見ると、こう書かれていました。

 ──野球、サッカーは禁止

 と。

 そういえば思い出したのですが、私の住まいの向かいに新しいマンションが建つにあたって、住民説明会に出席したことがあります。なんというか、建築デザイナーと施工会社社員の吊し上げ会みたいな観もあって、住民エゴというのはまったくものすごいものだなあとつくづく実感したほどでした。
 その説明会の中で、新しいマンションに公開空地を設置するという話が出ました。最近の高層マンションには、そういうものを作りつけるのが、決まりではないにしても普通であるようです。誰でも自由に入って歩けるようにする空間を設定することで、容積率などの規制の緩和が受けられるということです。これがあることによって周囲の建物に影を落とすことも少なくなりますし、街にゆとりのようなものが生まれるのは確かだと思います。
 当然、周辺住民にとってもありがたいスペースになるだろうと思うのですが、これが説明会では糾弾の的になっていたのですから、わからないものです。
 周辺住民の懸念は、「誰でも自由に入れる」空間ができることで、防犯に問題があるのではないかということであるようでした。ホームレスや不良どものたまり場になるのではないかと恐れていたのです。
 この公開空地が、うちの最寄りの公園と接していたので、ふたつをつなげて通り抜け可能にするというプランも示されました。これまた猛反対にさらされていました。
 実は、マダムはこの公開空地と公園をつなげることに大賛成で、駅までの道をショートカットできるとほくほくしていました。実際の道のりを較べるとさほどのショートカットにはならないのですが、クルマが一切通らないルートになるので歩きやすいのは確かです。それで説明会でも賛成の発言をしたところ、列席のおっさんたちから、空気を読まないヤツだというような険悪な視線を浴びました。
 「なんだ、○○マンション? あんたんところは町内会にも入ってないじゃないか。発言権はないぞ」
 というようなことまで言われ、マダムは大いに憤慨していました。
 つまり、通り抜け可能になれば、誰が通り抜けるかわかったものではなく、不審人物が出没するに違いないというのが彼らの言い分でした。
 誰が通り抜けるかわからないと言っても、ロケーション的に、せいぜいその新しくできるマンションの住民か、私の住んでいるマンション(実質はアパート、と何度か書きましたが)の住民くらいしか通り抜け利用者は居なさそうです。その先は線路があって行き止まりになっているので、用も無い人が通るような場所ではありません。
 図面を見ればそれは一目瞭然だし、説明側も丁寧に説明しているのですが、附近住民は聞く耳持たないようです。
 勢いの赴くところ、通り抜け可能にするかどうかについて、その場で多数決を採ることになりました。
 驚いたことに、通り抜け可能に賛成したのは、マダムと私、たったふたりだけで、他の数十人の出席者はすべて反対に挙手していました。賛成に挙手した私らを、憶えておくぜというような目つきで睨んだおっさんも居て、何やらしばらくは、近所を歩く時に気味が悪かったほどです。
 圧倒多数の反対を得て、議論を仕切っていた町会長が、
 「それでは、その公開空地とやらと公園のあいだは、絶対に通り抜けられないように、フェンスなどを立てて貰うよう頼みますよ」
 と施工会社側に要求したのでした。

 しかし、その会合は、あくまで「説明会」であって、住民の意向を聞く場ではありませんでした。
 マンションはつつがなく竣工し、しゃれた公開空地ができました。
 私はしばらく、公開空地と公園のあいだにはフェンスが立っているものだと思っていたのですが、ある時公園の奥へ入ってみると、フェンスは無く、低い柵があるだけで、自転車などで通ることはできませんが、歩いて通行するのは自由になっていました。マダムが期待したような、家から駅へのショートカットにはなっていませんが、帰宅前に郵便受けを見なければならない時は従来の道よりも少し近いようなので、ときどき利用しています。
 こういう趣向にすることは、住民説明会より前に、すでに市役所に届け出て許可を貰っていたのでした。説明会で多数決を採ったところで、その決議になんら強制力は無かったわけです。
 そのことについては、実のところ説明会でも施工会社から説明があり、
 「どうしても阻止したいということであれば、市役所にお申し出ください」
 とも言われていたのですが、どうも頭に血が昇った連中には、それもこっちを嘲弄している言葉のようにしか感じられなかったらしく、余計にいきり立つばかりでした。
 ともかく、こんな話のわからない連中が普通に社会生活を送っているのかと、ほとんど暗澹たる気分になるような経験でした。

 なぜその住民説明会のことを思い出したかというと、話の中で、当該の公園について、
 「あそこもホームレスが居たりするから、遊具もベンチも全部取り払って貰ったんだ」
 ということを、なんだか大手柄を立てたみたいな口調でまくし立てていたおっさんが居たからです。児童公園が、ずんべらぼうのただの空き地になってしまったのは、そのおっさんの「市民運動」の賜物であったのでしょう。
 時々夜を明かしに来る、ひとりかふたりのホームレスを追放するために、子供たちの遊び道具をすべて撤去してしまったのが、周辺住民としてそんなに誇るべきことなのでしょうか。
 ともあれその公園は、ほとんどひとけもなくなり、夏のラジオ体操や盆踊りといった、町内会が仕切っておこなう行事の時くらいしか使われなくなってしまったのでした。
 もはや公園と名乗るのもいかがなものかと思われるほどです。
 私の家の近くばかりではありません。最近、こんな記事を見ました。

 ──夏休み終盤、都内のある公園の光景は異様というほかなかった。隅のベンチで小学生が固まって携帯ゲームに興じている。広い公園では、他にちらほら歩く人がいるくらいで、まだ陽も残っているのに静まり返っていた。なぜ走り回ったり球技をしたりしないのかと子供に問うと、こう答えた。
 「うるさくしちゃダメって書いてあるから、静かにゲームしてたんだよ。ボール遊びもダメだからサッカーもできないし」


 記者が見てみると、確かに「ボール遊び禁止」「大声禁止」「自転車乗り入れ禁止」等々の制札が出ていたそうです。さらに調べてみると、「喫煙禁止」「花火禁止」「犬の散歩禁止」「ベンチで飲食禁止」から、談笑の禁止ダンスの禁止までしてあるところまであって、あっけにとられたとか。
 確かに奇声を発したりするのは迷惑でしょうし、喫煙や花火の禁止もわからないではありません。しかし、談笑禁止とはなんなのでしょうか。
 できることは、公園に入って、何もせず話も交わさず、ベンチに黙って坐っているだけということになりそうです。いや、うちの近所のようにベンチも撤去されてしまっては、それもできません。
 こういう禁止事項は、ほとんどすべて、周辺住民からのクレームで生まれているようです。しかも、一旦禁止の札などが出ると、クレームをつけることへの心理的ハードルが下がるらしく、あれもこれもとたちまち禁止事項が増える傾向があると言います。
 確かに、隣で子供たちがのべつまくなし大声を張り上げていると神経に障るということはあるでしょう。最近は夜間に働いて昼間は寝ているという人も居ますから、イライラするのもわからないではありません。ボールがしょっちゅう飛び込んできて窓ガラスや盆栽を破壊されるのも腹が立つでしょう。犬の吠え声が我慢ならない人も居るし、人の話し声自体がうるさくてならないということも無いとは言えません。
 しかし、中には個別に対応すればそれで済むこともありそうです。空き地で草野球をしていてボールが近所のカミナリ爺さんの家に飛び込み、大目玉を食らうなんてのは、「サザエさん」でもお馴染みの微笑ましい光景ではないでしょうか。
 しかし、最近の爺さん婆さんは、子供たちにカミナリを落とすのではなく、役所にねじこむらしいのです。何せ最近の子供たちは、怒鳴られるとカツオ君のように恐縮したりせず、逆ギレして乱暴を振るったりするし、親たちもモンスターペアレントで、子供を叱ったりすると逆に眼を釣り上げて抗議に来たりする……本当はそんな子供や親ばかりではないと思いますが、報道を見るとそんな手合いばかりのように感じられてしまい、子供を叱る段階をすっ飛ばして、役所にクレームを入れることになります。
 クレームが入れば、役所というところは個別の事例に対応できる仕組みにはなって居ませんので、一律に「ボール遊び禁止」ということにせざるを得ません。
 かくして、「禁止」ばかりの公園とあいなってしまいます。もういっそ、「立入禁止」にすればどうだ、とさえ言いたくなります。
 周辺住民は「快適な生活」を営む権利は有しています。しかし、そのために公園を公園の名に価しないものにしてしまうような、そこまで「住民の権利」というのは偉いものなのでしょうか。どうも私には疑問に思えてなりません。

 公園(park)というのは、英語で言えば駐車(park)と同じ言葉であるのでわかるとおり、本来は馬を集める場所です。もう少し具体的に言うと、かつてヨーロッパの都市は城壁に囲まれており、敵が攻めてくるとその城壁にこもって防戦します。城壁の中の空間は限られていますので、ぎっしりと建物が並んでいると、援軍がやってきても馬や兵車を駐める場所がありません。そこで、そのために何も建てない場所をあらかじめ作っておきます。それが駐留地(park)です。
 援軍が連れてきた馬を集めておく場所ですから、水場が必要です。それでたいていparkの中には池が作られました。また、馬を繋いでおくために、たくさんの樹が植えられました。
 そういう場所ですので、戦争の無い平和な時には、都市の住民の憩いの場にもなったわけです。
 本来は軍用地ですので、誰の所有でもなく、都市自体が持っている土地です。要するに公共の土地です。運用は領主とか議会とかに任されており、附近住民が口を出せるようなことではありません。
 まあこの意味でのparkは、日本で言うなら上野公園代々木公園クラスのものであって、市街地の児童公園などは話が違うかもしれませんが、公共の土地であることは同じであり、何かを禁止するにしても、附近のひとりふたりのクレームと、そのクレームに対応した何人かの役所の職員によって決められてしまうのでは、かなわないと思います。本当は議会で論ずるべき事柄なのです。

 こうやって公園でできることをどんどん減らしておいて、

 ──最近の子供はちっとも外で遊ばず、家の中で携帯ゲームなどばかりしている。子供の体力は下がる一方で、まったく嘆かわしいことだ。

 などと批判する大人こそ、いい気なものと言わざるを得ません。
 いまや都市部には「サザエさん」や「ドラえもん」に出てくるような、ドラム缶や土管が置き捨てられている、本当のただの空き地などはありませんし、公園もかような状況で子供が思いきり遊べる場所ではなくなりました。あとは道路くらいしかありませんけれども、もちろん「三丁目の夕日」に出てくるような路地もすでに絶滅寸前、しかもそんなところでも容赦なくクルマが侵入してきて危なくてたまりません。
 どう見てもいまの世の中が、子供に「外でなんか遊ぶな」と命じているのです。子供に外で遊ばせたいのなら、遊べる空間を外に作ったらどうなんだと言いたくなります。それをどんどん奪ってきたのは自分たちなのです。
 遊具もベンチも無い、ずんべらぼうの「公園」という名の空き地(しかも草野球ひとつできない!)を通りかかるたびに、私は腹の中が煮えくりかえるような気分になるのでした。

(2014.9.6.)

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