忘れ得ぬことどもII

民謡の宝庫スコットランド

 いまChorus STで、ある理由があってスコットランド民謡をいくつか歌っています。
 スコットランドといえば、つい最近、英国からの独立の是非を問う住民投票がおこなわれたことが記憶に新しいですね。投票の結果、いままでどおり英国の一部としてやってゆくことに決まったようですが、独立の機運は何十年かごとに時々高まることがあるようです。アイルランドほど過激な独立派が居るわけではないのかもしれませんが、やはりイングランドの下風に立っているという意識が常に拭えないのかもしれません。
 ケルト民族であるスコットランド人は、もともとはブリテン島の原住民でした。そこへアングル人やサクソン人が上陸してきて、ケルト人はだんだんと島の北部や西部に追いやられ、スコットランド人とかウェールズ人ということにされて行ったわけです。
 アングル人の侵入以前に、ブリテン島にはローマ帝国の勢力が入り込んでいました。しかし、原住民であるケルト人はかなり頑強に抵抗し、帝国の支配下に組み込まれた地域でもしばしば叛乱が起こりました。そのため、さしものローマ帝国も全島の支配を諦め、「わが帝国の版図はここまでとする」という線引きをおこないました。ローマの壁(ローマン・ウォール)、あるいは時の皇帝の名をとってハドリアヌスの壁と呼ばれる「長城」がそれです。
 歴史的には、この「長城」がイングランドとスコットランドの境目として扱われてきました。
 万里の長城のような大がかりなものを想像するとがっかりする程度のシロモノであるようですが、いちおうブリテン島の中央部を横断し、わかりやすい境界線となっています。それより北は明らかに農業生産力も低いし、ローマ帝国としても、無理に支配したところで大したメリットは無いと判断したのかもしれません。要するに当時の感覚としては荒れ地であったわけです。
 この荒れ地のイメージこそがスコットランドであり、近世に入って産業革命が起き、グラスゴーなどに大工業地帯が形成されるまでは、ひたすらに寂しく貧しいという印象が強かったものと思われます。
 アングル人もサクソン人も、この壁を越えて北へ行こうとはあまりしなかったようです。逆に、ケルト人の側から南部を奪回しようという動きも無かったのでしょう。中原に侵入しようとする北方騎馬民族に常に脅かされてきた中国の万里の長城ほどに大がかりなものが築かれなかったのは、線の両側とも、それほど線を越えようという動きが見られなかったからかもしれません。
 結果的に、南部のイングランドは、何回かの主役の交代はあったものの、ローマ帝国の文明の光を豊かに浴びた地域となってゆき、北部のスコットランドはそういう文明をより少なくしか採り入れない地域として残されたと言えるでしょう。

 その意味では、日本史上で「蝦夷(えみし・えぞ)と呼ばれた人々と似ているように見えます。
 蝦夷というのはアイヌ民族を指す蔑称と思っている人が多いかもしれませんが、奈良朝・平安朝の頃としては、必ずしもアイヌ民族のみを指す言葉ではなかったようです。民族名というより、文明(この時代としては中国文明を指します)の光が当たっていない連中、という感覚が強かったと思われます。だいたい、東アジア地域には古来、近代人類学で言うところの民族という概念はあんまりありませんでした。
 蝦夷は、その昔は関東地方にもたくさん居住していたのが、和人の進出に連れてだんだんと東北や北海道に追いやられて行った……というのが旧来の考えかたですが、私はどうかなと思います。
 蝦夷征伐で有名なのが、第2代征夷大将軍・坂上田村麻呂ですが、この人は日本史上最初に現れた「名将」とさえ言われているわりに、華々しい合戦の具体的な物語がほとんど伝えられていません。しかも「征伐」されたはずの東北地方でも、憎まれているどころか称えられ追慕されています。おそらく、武力で征服して行ったわけではなく、水田耕作その他の「文明」を懇切に指導しに行ったのではないかというのが最近の説です。
 指導を受け容れ、朝廷の威に服せば、征伐が成ったということにしたに過ぎないでしょう。そして、そうなった土地やそこの住民は、その時点ですでに蝦夷ではなくなったと見なされたのではないでしょうか。蝦夷という民族集団が、時代と共に北へ北へと追い散らされて行ったわけではなく、蝦夷と規定される文化集団が、南からだんだんと減って行ったということではなかったかというのが私の考えです。やがて津軽半島の先っぽまで朝廷に服するようになった頃になって、まったく異なる文化を持つアイヌが蝦夷とほぼ「同一視」されるようになり、彼らが多く住む島(北海道)をも蝦夷と呼ぶようになったのだと思います。
 だから、中世くらいまでの文献に現れる「蝦夷」は、アイヌとイコールではなく、例えば前九年の役の主役である安倍一族なんかも、蝦夷と呼ばれてはいますが、近代的な分類で言えばアイヌではなく大和民族だったのではないかという気がします。

 日本の朝廷は、精力的に「文明」を行き渡らせようとしましたが、ローマ帝国も、アングル人やサクソン人も、ローマの壁を越えてブリテン島北部まで文明を伝えようとはしませんでした。そのため、15世紀くらいに至っても、スコットランドにはいまだ古代のような雰囲気が残っていたものと思われます。
 11世紀のイングランド王であるウィリアム(征服王)が、壁を越えてスコットランドに侵攻しましたが、その名に反して征服することはかないませんでした。たぶん、補給が続かなかったのでしょう。現地調達するにしても人跡稀で、大した掠奪もできなかったと思います。その後イングランドとスコットランドはしばしば干戈を交えますが、どう考えても圧倒的に人口や生産力が上で、しかも大陸のフランスなどともちょくちょく戦争をして鍛えられているはずのイングランドが、スコットランド征伐には手こずり続けます。要するにウィリアムと同じ轍を踏み続けたに違いありません。
 ただ両国の王族のあいだには姻戚関係もでき、それに伴って、民族的対立というよりも王位継承などの問題がクローズアップされるようになります。スコットランド女王メアリ・スチュアートがイングランドの王位継承権を主張し続け、結局それをうざったく思ったイングランド女王エリザベス1世に処刑されたのなどは、その端的な例でしょう。
 日本で徳川幕府が開かれた1603年、メアリ・スチュアートの息子であるスコットランド王ジェイムズ6世がついにイングランド王を兼ねることに成功、両国は同君連合となります。これだとイングランドがスコットランドの物になったかのように見えますが、そういうわけではなく、ジェイムズ6世はもともとイングランド王の王位継承権も持っていたのです。エリザベス1世が子供を作らずに歿してしまい、しかも彼女は王位を争いそうな兄弟姉妹や親戚をことごとく追放するか処刑してしまっていたので、ジェイムズ以外に王位を継げる者が誰も居なかったのでした。
 ジェイムズ6世あらため英国王ジェイムズ1世は、イングランドとスコットランドを統一したいと考えていたようですが、両国の政府や議会は頑強に抵抗し、1世紀以上同君連合という形態を続けました。アン女王治下の1707年に至って、ようやく両国は合邦し、グレートブリテン王国が誕生します。さらに19世紀になって北アイルランドも併合し、現在の英国の正式名称が「グレートブリテン、および北部アイルランド連合王国」となっていることはご承知のとおりです。過日の住民投票でスコットランドの独立が成立していたら、この国名も「イングランド・ウェールズおよび北部アイルランド連合王国」とでも変更しなければならないところでした。
 ともあれ同じ国になったわけですが、それでもスコットランドというのは、どこかイングランド側からは軽侮される存在であったようです。英国の小説などを読んでいると、ちょくちょくスコットランド人を揶揄する箇所にお目にかかります。曰く、ひどく頑固である。曰く、やたら議論好きである。曰く、ドケチである。云々。蔑視とまではゆかないかもしれませんが、軽い「下に見る感」はいまでも残っているように思われます。独立がささやかれるのもそのためでしょう。

 さて、われわれ日本人としては、イングランド人とスコットランド人を区別する必要が特になく、両方とも「英国人」として認識している人がほとんどだろうと思います。イギリスという俗称がイングランド(イングリッシュ)のなまったものであるという知識はあるでしょうが、その呼称はイングランド地域だけでなく、ほぼ連合王国全体を指すものとして考えられています。
 「アイルランドの北のほうはイギリス領なんだよね」
 という言いかたに、違和感を覚える人は少ないでしょう。
 この場合、われわれとしては「イギリス領」を「連合王国領」という意味で使っているのであり、「イングランド領」ではありません。時々勘違いした英国人や、知ったかぶった英文学者などがとがめだてすることがありますが、日本人の一般認識としては、「イギリス」は連合王国のこと、「イングランド」はその一部でロンドンなどが属している地域、というところです。元になった言葉は一緒ですが、違う概念になっているのです。
 もっとも、私自身はちょっとだけひっかかりを覚えるので、書くときはイギリスとせず、「英国」と漢字で書くことにしています。「英国」もイングランドのことであるはずだ、と言われれば一言もありませんが。
 むしろ日本では、スコットランドの文化に親近感を覚えるところがあると言えそうです。けっこう多くのスコットランド民謡が、日本で日本語の歌詞をつけて歌われていたりするのです。
 いちばん人口に膾炙しているのは、言うまでもなく「蛍の光」でしょう。たいていの学校の卒業式で歌われ、多くの商業施設の閉店の音楽としても使われ、この曲を知らない日本人はまず居ないと思います。
 「蛍の光」の原曲が「Auld lang syne」というスコットランド民謡であることも、かなり広く知られています。このことからスコットランドに親近感を覚える人も少なくないでしょう。
 「蛍雪の功」という、日本人によく知られた中国の故事を冒頭に引用した稲垣千穎(いながきちかい)の作詞センスも抜群でしたが、メロディーもメジャー・ペンタトニック、日本で言うヨナ抜き音階を用いているのが親しみやすい点だったと思います。
 ちなみにこの稲垣の詞は実は4番までありますが、現在では2番までしか歌われていません。3番は
 「筑紫の極み、陸(みち)の奥/海山遠く隔つとも/その真心は隔てなく/一つに尽くせ、国のため」
 であり、4番は
 「千島の奥も沖縄も/八洲(やしま)の内の護りなり/至らん国に勲(いさお)しく/努めよ我が背、恙(つつが)無く」

 となります。4番は「千島の奥」が残念ながら日本領でなくなったため(千島の奥ではなく手前のほう、すなわち北方四島は日本領であるべきですが)、現実と合わなくなって歌われなくなったのもやむを得ませんけれども、3番は特に問題が無く、とても良いことを歌っていると思うのですがいかがでしょうか。末尾の「国のため」というただ一言を嫌う勢力があったということかもしれません。なお4番の「我が背」は「私の背中」ではなく、「背の君」つまり女性から見て夫、恋人、兄弟などの男性を指す古語です。
 「蛍の光」は儀式の歌という印象が強いせいか、私たちが歌うとついつい荘重な、ゆったりとしたテンポになってしまいがちですが、原曲「Auld lang syne」はもっと速いテンポであるようです。むしろ酒場で肩を組んで歌うようなノリがふさわしいとか。前半がソロで、後半がコーラスで歌われるのが普通だそうです。並べて歌ってみると面白いかもしれません。Chorus STでは目下「蛍の光」も歌っていますが、
 「もう少し速いテンポにしてみよう」
 と提案しても、歌っているうちにだんだん遅くなってしまいます。子供の頃から刷り込まれたテンポ感というのは、なかなか脱しづらいようです。

 「故郷の空」という唱歌もスコットランド民謡です。これもヨナ抜き音階ですね。
 ドリフターズだったかが「誰かさんと誰かさんが麦畑、チュッチュチュッチュしている、ええじゃないか♪」等々と歌って、「故郷の空」の替え歌だと思った人が多いでしょうが、実はその「麦畑」のほうが原曲の歌詞です。本来は「If a body meets a body, coming through the rye.」つまり「誰かと誰かが逢いたいならば、ライ麦畑を通っておいで」という詞であり、ドリフの歌詞がかなり原詞に即しているのがわかります。
 「夕空晴れて、秋風吹く」という大和田建樹の詞はまったくのオリジナルであり、原詞とはまったく関係がありません。明治時代に日本の学校を視察した英国の貴婦人が、唱歌の時間に子供たちが「故郷の空」を歌っているのを耳にし、

 ──こんなみだらな歌を、よりによって学校で教えるなんて!

 と柳眉を逆立てたという逸話があります。
 なお、大和田が改変したのは詞の内容だけではなく、曲のリズムをまったく変えてしまっています。原曲はスコッチ・ステップという、附点と逆附点を組み合わせた独特のリズムを持っていますが、当時の日本人には歌いづらかったようで、「故郷の空」として唱歌になった時には全部ただの附点リズムになってしまいました。このリズムは「誰かさんと誰かさんが……」のほうでもそのままになっています。ただ、伊藤武雄など、元のリズムを活かした訳詞をおこなった人も居ます。その場合タイトルは「麦畑」とされることが多いようです。
 私はずいぶん前に、板橋アルモニーという合唱団のために、ピアノ伴奏付き混声合唱という形で「麦畑」を編曲したことがあり、今回Chorus STで歌うために、それを元にして無伴奏混声合唱、しかもはるかにシンプルな形に編曲し直しました。実は昨日の練習の2時間ほど前になって不意に思いつき、大急ぎで編曲した次第です。

 以上の2曲よりは新しいイメージがありますが、「スコットランドの釣鐘草(ブルーベル)なども日本ではよく知られた曲でしょう。「アニー・ローリー」「ロッホ・ローモンド」あたりも愛唱されていると思います。また最近ではNHKの朝ドラマ「マッサン」の影響で「悲しみの水辺」という歌もはやってきているそうです。ただし「悲しみの水辺」はイングランド民謡という説もあるとか。
 イングランド民謡となると、「グリーン・スリーブス」とか「スカーバラの市場で(スカボロウ・フェア)とか、どちらかというとポピュラー系のバンドなどがアレンジして歌ったのが日本で受け容れられた、というケースが多いような気がします。明治時代から愛唱されていたのは「埴生の宿(ホーム・スウィート・ホーム)くらいでしょうか。
 日本における音楽の受容という点では、どうも北高南低というかスコ高イン低というか、遅れた地域と見なされてきたスコットランドのほうが、イングランドよりもずっと親しまれてきた気がします。
 上述したように、スコットランド民謡にはヨナ抜き音階が多く、日本の民謡や演歌などと通じるものがあって、耳に入りやすく歌いやすかったということがあるでしょう。イングランド民謡は、当時の日本人にはあまり馴染みの無かった、エオリア旋法ドリア旋法といった音階を用いた曲が多いために、あまり親しみが湧かなかったのではないかと思います。例えば「グリーン・スリーブス」はエオリア旋法であり(ドリア旋法で歌うヴァージョンもあり)、「スカーバラの市場で」はドリア旋法です。

 またアイルランド民謡としては「ロンドンデリー・エア」「庭の千草(夏の名残のバラ)などがよく知られていますが、ウェールズ民謡というのは何か知られたものがあるのでしょうか。ウェールズは連合王国を構成する重要な部分ではありますが、歴史的にイングランドと一緒になっていた時代が他よりも長く、民謡なども混淆しているのかもしれません。
 各国の民謡についていろいろ考えたり調べたりするのはなかなか面白いようです。たまたまスコットランド民謡を手がけはじめたので、スコットランドについても考えてみたわけですが、他の国や地域についても、そのうち民謡を手がかりに考えてみたいと思います。

(2015.2.7.)

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