忘れ得ぬことどもII

フィクションの中の自衛隊

 自衛隊が異世界に行って、ファンタジーな怪物と戦ったり住人と交流したりする『GATE〜自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり』というアニメがはじまったのですが、自衛隊がここまで認められてきたのかと思うと隔世の感があります。
 もちろん以前から、自衛隊が描かれたアニメや映画はいくらでもあったわけですが、たいてい「やられ役」みたいなもので、なかなかゴジラ一匹退治することもおぼつかない、威張っているわりには一向に使えない組織という扱いが多かったように思います。
 昔は──と言ってもほんの20年ばかり前までのことですが──社会が、自衛隊の存在に否定的な風潮だったので、それもやむを得なかったでしょう。映画などの中でカッコ良く活躍させたりすると、右翼御用達みたいに言われかねませんでした。その頃の学校の先生の中には平気で「人殺しの組織」なんて言いかたをする手合いも居ましたし、その流れか、つい最近の民主党政権時代にも「殺人装置」と呼んで物議をかもした政治家が居ましたね。
 しかし、その後風向きが変わってきたようです。
 やはり東日本大震災他の災害時の救助活動の姿が人々に知られるようになったこと、また平和維持活動のために海外に出た部隊が、いずれも友軍や現地の人々に高い評価を得ていることが明らかになってきたこと、などが少しずつ影響してきたのでしょう。法的な問題で両手を縛られているような状態にもかかわらず、士気の高さと規律の厳しさにかけては世界でもトップクラスで、かつて描かれていたような「無能な威張りんぼ」とは似ても似つかないことが、民間人にもだいぶ周知されてきました。

 ある存在が、社会の中でどう受け取られているかということは、サブカルチャーでの扱いを見るのがいちばん的確ではないかと思います。自衛隊員、それも架空の特殊部隊のようなものではなく、実際のものに近そうな「組織」の中の一員としての隊員が主人公になるテレビアニメが作られるようになったとあっては、時代の変化を感じずには居られません。
 むろん、自衛隊が過去、フィクションの中でつねに悪役や笑い物であったかと言えば、そういうわけでもありません。近未来ものの架空戦記などでは以前からずいぶん活躍していました。ただし、その種の物語はやはり読者を選ぶというか、受け容れられる範囲はあまり広くなかったと思います。
 自衛隊を主役にした架空戦記の元祖と見なされているのが、半村良『戦国自衛隊』で、これは発表当時かなり売れ、映画化もされました。ただし、この作品は実は近年の架空戦記とは基本的なスタンスが違います。むしろ古典的なタイムスリップものの定石に則っており、現代人が過去へ行っていろいろ活躍するも、歴史の大筋は変わらず、後世にもほとんど影響しないという筋書きになっています。歴史そのものを大胆に変えてしまうタイムスリップものは、もう少し後の荒巻義雄『紺碧の艦隊』を待たなければなりません。
 とはいえ、個人ではなく、部隊や装備ごとタイムスリップしてしまい、現代の戦闘集団と戦国時代の武士たちを対峙させるという半村氏のアイディアは卓抜でした。
 この場合、警察の機動隊などではやはりダメなのであって、自衛隊である必要がありました。
 軍事組織と警察組織の最大の差は、装備の強力さなどではありません。自己完結性というところにあります。警察は、あくまで平時に活動することを前提として作られていますので、電気や水道、道路などの公共サービスが停止した状態では動くことができません。その点、軍事組織というのはまったく孤立した状態でも活動できるように作られています。電気が通じていない地域に入っても自力で電気を確保できますし、道路も自力で造れます。何よりも、構成員が基本的に兵営で共同生活を送っています。
 電気や水道といったインフラがまったく存在しない戦国時代に送り込むのは、自衛隊でなければならないのです。
 それにしても、銃弾やガソリンを使いきってしまえば、もはや戦国時代における現代戦闘集団のアドバンテージは無くなるわけで、主人公が「その時間軸」での織田信長の役割を果たすことになるという『戦国自衛隊』の筋書きは、だいぶ都合の良いものではありました。
 映画ではだいぶストーリーが変更され、主人公たちは長尾景虎上杉謙信)に味方して武田騎馬隊と戦い、かろうじて勝つものの相当な痛手をこうむり、結局景虎と対立して斬られるというところで終わっていました。映画の世界では、まだ自衛隊員が天下を盗るストーリーなど認めるわけにはゆかなかったのかもしれません。

 自衛隊の部隊がタイムスリップして歴史上のある時点に飛ばされたら……という設定は、思考実験としてはなかなか面白いかもしれません。
 小説としてそれを書くのは、どうやっても『戦国自衛隊』のパクリだと思われかねないので、なかなかチャレンジする人は出ませんでしたが、しばらく前に、臆面もなく『続・戦国自衛隊』と題した小説が刊行されました。帯に堂々と「故・半村良氏に捧ぐ」といったことが書かれていました。あとで知ったのですが、これは半村原作によるコミカライズをした劇画家が、オリジナルストーリーで描いた劇画のノベライズであったようです。半村氏の小説の後日談というか、何年も経ってからまた別の部隊がタイムスリップし、関ヶ原大坂の陣を戦ってゆくという話になっていました。こちらで注目すべきは、自衛隊と同時に米軍の部隊もタイムスリップしており、敵側として立ちふさがるというプロットでしょう。確かに自衛隊がスリップするなら他国の部隊がスリップしてもおかしくはありません。
 そのあとで『自衛隊三国志』という小説も見かけました。戦国どころか、中国三国志の時代に飛んでしまい、諸葛孔明の役割を果たすという、かなりぶっ飛んだ設定です。ちなみにこの話では、やはり米軍の部隊も飛ばされて孫権に助力しており、さらに中国軍の一部も飛ばされて曹操に加担しており、ここまで来るとお笑いです。

 「歴史のイフ」について書いたエントリーで触れた「chakuwiki」というサイトには、「もし自衛隊が別の時代にタイムスリップしたら」というページもあって、いろんな時代に飛ばされたときの歴史の変わりかたの予想を書き連ねてあります。誰でも投稿できるので、実に多くの「イフ」が想定されていますが、私もあれこれ考えてみました。源平の戦い南北朝時代などが面白そうですし、同じ戦国でも半村作品よりもう少し前に、いろんな地方に出現したとしたらどうだ、などの想定もあります。
 ちなみにその「戦国前期編」は私の予想では、北陸に出現して一向一揆勢と結ぶのがいちばん天下に近いのではないかという意外な結果になりました。加賀の一向一揆は、粗放ながらも民主主義の萌芽のようなものがあり、近代的なデモクラシーの説明がもし通じれば、おそらく日本で(世界でも)最初の「国民国家」が成立したかもしれません。そうなると、自衛隊の助力を考えないとしてもその「国民軍」は非常に強力になり、どこの戦国大名も歯が立たないことになりそうです。
 源平の戦いでは、平氏に味方した場合、木曽義仲に味方した場合、頼朝に味方した場合、義経および奥州藤原氏に味方した場合など、ケースを分けて考えてみました。長距離砲撃が使えさえすれば、どのケースでも敵対勢力をあっさり叩き潰すことが可能で、そのあとでどういうことになるのか、という思考実験がメインとなります。ポイントは、軍事的には圧倒的であっても、政治的にはどうかというところで、頼朝や後白河法皇などの陰謀には案外と太刀打ちできないかもしれません。
 南北朝でも、北條氏につく、後醍醐天皇につく、足利氏につくなどの選択肢があります。また後醍醐天皇に味方する場合は、どの時点から協力するかによっても、その後の展開が大きく変わってきそうです。いろいろ考えてみると、意外やバッドエンドが多そうだという結論に達しました。

 とはいえ実際には(「実際」なんてことも無さそうですが)、補給が無ければわりと早々とギブアップすることになりそうです。『戦国自衛隊』でも、大規模演習の途中で、大量に集積されていた物資が一緒にタイムスリップしたという設定だったから、なんとか最後まで保ったわけです。
 アニメ『GATE』では、現世と異世界を結ぶ扉(ゲート)が存在し、そこを通って普通に行き来できるようですので、補給は問題ないのでしょう。
 ちなみに補給や輜重の感覚が鈍いのは、日本人の軍事思想における、古くからの宿痾とも言うべき点です。架空戦記作者も、案外そのあたりをちゃんと考えていないことが多いのではないでしょうか。
 自衛隊を扱ったフィクションは、今後も増えることでしょう。社会の風向きが変わったから扱いかたも変わったわけですが、これからは逆に、フィクションでの扱いかたによって人々の感じかたが変わってゆくということもあり得るかもしれません。その結果どういうことになるのか……これも、興味深い思考実験ではあります。

(2015.7.4.)

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