忘れ得ぬことどもII

法と中国人

 中国株の大暴落が波及して、ニューヨーク市場なども大変なことになっているようです。中国株を持っていた人がずいぶん多かったのでしょう。東京市場などもだいぶ値下がりしたらしいのですが、それでも他の国に較べると日本はわりと平静な状態で、そのため円を買う動きも高まっているとか。そうするとまた円高となり、さてそれからどうなるのか、しばらくは株価の乱高下が続いて、投資家諸氏はやきもきすることでしょう。
 私はドル建ての投資信託さえあまり信用できずに滅多にやらない人間ですので、中国株に殺到した人々の気持ちはさっぱりわかりません。
 ドル建てが信用できないというのは、ドルの相場などはホワイトハウスの鶴のひと声でわりと簡単に動いてしまう印象があるからです。私は機敏に売り買いする能力など無いため、一旦買ったら何か現金が必要になるまで放っておくことが多いのでした。幸い、いままでのところ損はしていません。
 そういう怠惰な投資家(というもおこがましいのですが)であるため、ひとにぎりの人間の思惑で簡単に動いてしまう相場には手を出したくありません。もちろん、そういうもののほうがハイリスクハイリターンで、ホワイトハウスやウォール街の思惑を先読みして素早く売り買いすることにスリルとカタルシスを覚える人も居るのでしょうが、私には無理です。
 それで、外国ものの投資信託をする場合は、主にユーロ建てのものを買っていました。ユーロのほうは少人数の思惑でどうにかなるようなものではなく、それどころか一国の意思でも容易には動かせないと考えたからです。アクティブな投資家にとってはあんまり面白くないかもしれませんが、まず急激に崩れるということもないだろうと思いました。
 ところがギリシャ危機が発生して、そのユーロもだいぶ揺らいでいます。世の中、何が起こるかわかりません。
 そんな私から見ると、中国株などは危なくて近寄る気もしないのでした。ドル以上に一部の人間の意思でどうにでも動かせそうですし、その一部の人間というのは共産党指導部ですから、そもそも国際経済のルールを守る気があるとも思えません。ちょっと不都合になればたちまち強権を発動して、無理を押し通すに決まっている……と予見できなかった人がこれほど多かったことに驚きです。
 実際、中国株が少し危ないようだとなったとき、中国政府は該当株の売却を禁止するという、近代国家とは到底思えないような行動に出ました。特定の株の売買行為を政治的に差し止めるなどというのは、いままでやらかした国は無いのではありますまいか。
 こんなことをされるのでは、中国株を持つリスクが大きすぎます。中国政府がコントロールできるのは、上海など中国国内の市場だけで、他の国の売買まで禁止することはできません。外国人投資家が続々と中国株を手放し、そして大暴落となってしまいました。

 中国が国際的なルールを守るのは、それが中国にとって損にならない限りにおいてのことであって、損になると見るやルールなどかなぐり捨てて恥じない国だという例証は、従来いくらでもあったにもかかわらず、ことに欧米人には、どこか中国に幻想を残している部分があるようで、甘い考えで接して痛い目を見ることが少なくありません。
 いや、これは日本人にも言えることでしょう。これからは中国だというので、ほとんど流行のごとくわれもわれもと企業が進出しました。中国に進出しないような企業は将来が無いというほどのあおられかたでした。
 しかしそのほとんどが、あてが外れた状態になっています。十数億という人口に眼がくらんで、無尽蔵の市場があるように思ったのに、購買力のある層はごく限られていて、大半は商売の相手にならないことに否応なく気づかされます。がっかりして撤退しようとしても、そうは問屋が卸しません。設備その他、すべて手つかずで置いてゆくように要求され、莫大な違約金を請求され、ほとんど身ぐるみはがれるような状態で、ほうほうのていで引き上げてくる企業が相次ぎました。
 現地の法律をいくら研究してみたところで意味はありません。身ぐるみはぐ法律が無ければ即座に作ってしまうのが中国式というものです。それがまた、北京とは無関係に、地元の勢力家が勝手に条例を作ってしまったりします。
 すでにこういう苦い経験を踏んでいるので、日本の投資家はあまり中国株に深入りしていなかったのかもしれません。日本の株式市場が比較的平静であったのはそのためではないでしょうか。

 「夷狄(いてき)と交わした取り決めなどは、こちらが不都合になれば一方的に破棄してもなんら差し支えない」
 これが中国人の伝統的な考えかたであって、いまなお根強く残っています。というか、近代史を通じて、この伝統的な考えかたをあらためるに足るような出来事は、中国には起こりませんでした。
 中国も、戦国時代くらいまでは一種の国際社会でしたから、それなりに契約の概念もできかかっていましたし、国家間の信義といったものも重んじられました。しかし秦帝国の成立からはひたすら唯我独尊です。
 漢帝国の当初、高祖劉邦匈奴冒頓(ぼくとつ)単于と戦って負け、少なからぬ貢ぎ物を毎年送るという条件で和睦しました。この取り決めはしばらく続きましたが、武帝の代になって一方的に破棄されました。武帝は衛青(えいせい)、霍去病(かくきょへい)といったお気に入りの将軍を送り込んで匈奴を大いに撃破し、厖大な人数を殺害または捕獲しました。これは衛青や霍去病の才能もさることながら、鉄製の武器が行き渡って武力が大いに騰ったということが主な要因であったようです。武帝は頃は善しと判断して攻め込んだのでしょう。
 しかしこれを匈奴の側から見ると、力が上回ったと見るやそれまでの取り決めを無視していきなり攻め込まれたわけで、これほど理不尽なことは無かったでしょう。漢の側から貢ぎ物の減額を求める外交交渉がおこなわれたという形跡もありません。
 これはまあ古代の話だから仕方がないと思われるかもしれませんが、中国の、周辺敵対国への態度というのは、古代から近代に至るまですべてこの調子で、現代でもそのやりかたを捨て去ったとはとても思えないのです。
 の時代などまさに惨憺たるものです。科挙が軌道に乗ったり、朱子学が生まれたりして、中国の学問や倫理がかなり整理発展した時代と言って良いのですが、外交的には悪手を打ち続けています。
 宋は建国当初から、北方のと国境紛争を抱えていました。宋の建国前の五代十国時代、中原国家がさまざまな理由で遼に領土を割譲していたのです。宋はその領土の返還を求め続けました。遼からしてみると、その領土は別に宋から奪ったものではなく、その前の王朝から正式に譲渡されたわけですから、宋に返す謂われはありません。宋の返還要求は言いがかりみたいなものに思われたでしょう。
 しばらくして戦争となり、宋が負けます。宋は遼に対し、儀礼的に風下に立ち、また年々かなりの額の貢ぎ物(歳幣)を贈る取り決めをおこないます(澶淵──せんえん──の盟)。
 これによって両国のあいだには百年以上にわたる平和が訪れましたが、歳幣をもぎとられる宋としては腹立たしいことです。遼のさらに北方にという国ができ、遼が手を焼いていると見るや、宋は金に使者を送って同盟し、遼を挟み撃ちにしようとします。
 ところが、事態は宋の考えたようには運びませんでした。挟み撃ちにしようとしても、宋の軍は長年の平和と文官優位政策で弱体化しきっており、金軍に叩きのめされた敗残の遼軍にさえかなわず、至るところで打ち破られました。宋は仕方なく金に依頼して、遼の都城を陥としてもらいましたが、そのとき都城の住民や財物をすべて金が運び出してしまったため、今度は金を逆恨みしはじめます。
 ここからの宋の背信ぶりは眼を覆いたくなるほどのもので、金と小競り合いをしては必ず負け、その都度和平の約束をするのですが、またいろいろ画策して小競り合いがはじまるという繰り返しです。しまいには遼の残党と手を結ぼうとして、その謀略がばれて金をさらに怒らせるという、そもそも何が目的であったのかよくわからないような行動までしでかしています。
 宋は皇帝(欽宗)が囚われの身となり、その弟(高宗)が代わって皇帝になるものの、南へ南へと追いまくられ、とうとう国土の北半分を失ってしまいます。岳飛のような将軍が気を吐きますが、それも大勢を覆すには至らず、むしろ金をなだめる外交努力の邪魔になるということで岳飛を処刑してしまいます。
 これで懲りたかと思いきや、南遷した宋(南宋)は150年ほどあとにふたたび同じ愚を繰り返します。金のそのまた北方にチンギス汗が興って、モンゴルが巨大勢力となり、金が手を焼いていると見ると、今度はモンゴルと手を結んで金をやっつけようとするのでした。そしてまったく同じように、モンゴルに対して背信を重ね、ついに滅亡の憂き目を見ることになります。
 要するに、至高の中華帝国たるもの、遼だの金だのモンゴルだのといった夷狄どもと、かりそめの約束は交わすが、そんな約束はこちらが不都合になればいつでも破って良いのだという、牢固とした信念があったとしか思えないのです。
 清朝に至って、欧米などとのつき合いがはじまっても、中国のこの信念は揺らぎませんでした。彼らは国際条約のなんたるかをまったく理解しようとせず、相変わらず自分らの都合でいつでも破棄できる「夷狄との取り決め」としか思っていなかったのです。諸国が清朝を信用するに価しないものと考えはじめたのも無理はありませんでした。
 辛亥革命後にあまた乱立した軍閥政府も、そういう意味での信義はほとんどありませんでした。中華民国というのはその中で最大の軍閥政府だったと見て良いのですが、これまた同様、そういった伝統が、共産党によって断ち切られたとは到底思えません。

 中国はいまなお、ルールというものは自分に都合の良いときだけ守っていれば良いという考えかたを、決して棄ててはいません。もし中国が国際的なルールを守っているように見えたとすれば、それはそのほうが彼らにとって都合がよいからで、国際条約というものの重みを肝に銘じているからではありません。
 中国にも、法つまり統一されたルールによって社会を運営しようという思想が無いわけではありませんでした。戦国時代にはなかなか有力でもありました。いわゆる法家の立場です。商鞅(しょうおう)や韓非子などがその代表です。
 法家の思想は、秦の天下統一に際してはたいへん役に立ちました。厳しいルールで運営された秦は見る見る国力を上げ、また軍隊も強く、他の国々を圧倒したのでした。
 ところが、秦帝国の滅亡と共に、法家も力を失います。人々が法の支配を嫌ったということもありますが、私はそれだけではないと考えています。
 韓非子の厳密な法家思想では、君主もまた法の下にあるもので、法に従わなければならないことになっていたはずなのですが、韓非子の著作を読んで感激し、

 ──この著者に会えたら死んでもいい。

 とまで言った始皇帝そのひとが、自分自身を法の下に置くことを激しく拒否したために、法家思想自体が歪められたものになってしまったのではないでしょうか。皇帝自身が従わない法になど、誰だって従いたくはないでしょう。
 なお韓非子は始皇帝(秦王政)にしばらく法家思想の講義をおこなったのち、始皇帝によって処刑されてしまいます。他の国がこの傑人を用いたら大変なことになると考えたから、と歴史の本には書いてありますが、君主自身を法の下に置くかどうかという点で、どうしてもわかりあえなかったからなのかもしれません。
 ともかくも、歪められた法家帝国としての秦が亡びたのち、法家思想を全面的に採用する王朝は現れませんでした。三国志曹操諸葛孔明は法家の信奉者であるような匂いも感じられますが、の政治に法家思想を全面的に導入することはできていません。
 2千年近くを通じて、中国における法とは、下から見れば「かいくぐるもの」、上から見れば「利用するもの」であるに過ぎず、「上下が共に守るべきもの」と考えられたことなど一度も無いのです。
 国内法においてそうであれば、国際法や国際条約など、遵守する気などさらさら無いとしても不思議ではありません。
 われわれ外国人は、中国とはそういう国であるということを理解してつきあうべきなのであって、法や条約に対する考えかたが自分たちと同じはずだなどという幻想を抱くべきではありません。日本人は逆に、可憐なほどに法や条約を厳守するたちで、少なからぬ不利益があったとしても「これがルールだから」ということで甘受してしまいます。つまり、中国人とは価値観がまったく異なるとしか言いようがありません。
 こういう二者が関わり合うとき、ルールを遵守するほうが不利なのは言うまでもありません。ただ、二国間のことであればそうなのですが、他の国からの信頼を得られるのはルール派のほうでしょう。日本は少なくとも戦後70年間、そういう積み重ねで世界からの信頼を得てきました。
 中国はというと、これまではルールの陰に隠れて、ルールに守られていたから、それなりの信用も得てきたのですが、国力に自信がつきはじめると共に横紙破りが多くなってきました。もうルール──夷狄との取り決め──になど拘束されなくとも良いという態度です。漢の武帝の遺伝子が目覚めはじめたのです。
 こういう厄介な国を、どうやって制御してゆくのか……21世紀の世界の課題のひとつがそこにあると言っても、決して言い過ぎとは思えません。

(2015.8.25.)

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