マダムが、このところいろいろ行きたい美術展などを数え上げていたのですが、そのうちひとつは千葉県の佐倉にあるとかで、さすがにちょっと遠くて訪ねる気になれないと言いました。もうひとつ、川越市立美術館で開催されている企画展もリストに入っており、こちらも 「あんまり遠出したくないんだよね」 というのでやめる気になっていたようです。 しかし、川越なら別に遠出というわけではありません。同じ県内だし、1時間も要さずに行くことができます。マダムは以前から、川越の街を歩いてみたいようなことを言っていたし、なんだったらこの際行ってみようか、と提案しました。たまたま今日はふたりとも予定が無かったし、ここ数日降り続いていた陰雨も晴れて好天でしたので、出かけることにしました。 私自身も、川越の街を訪ねるのは久しぶりです。川越駅は何度も通ったり下りたりしていますが、乗り換えに使う程度で、街を歩くことはありませんでした。一昨年だったか、本川越駅から川越市駅まで徒歩で移動したくらいなものです。 「忘れ得ぬことども」を参照してみると、1998年5月23日に川越小江戸めぐりをしたことが書かれています。そのときは、当時指導していた合唱団のレクリエーションということで行ったのでした。それ以来ということになりますので、実に17年半ぶりの再訪です。北海道や四国にはそのあいだ何度も行っているのに、近くほどご無沙汰になりやすいようです。
10時半過ぎに家を出て、京浜東北線から大宮で川越線(埼京線)に乗り換え、川越に到着したのは11時40分くらいでした。
川越の街の中を周回している「小江戸巡回バス」というのがあり、500円のフリーパスを買うと何度でも乗り下りできます。17年半前の記事を見て、その頃も同じく500円であったことを知り驚いたのですが、このあいだには価格破壊やデフレがあり、物価はさほど上がっていなかったということでしょう。この巡回バスを今日はなるべく利用してやろうと思います。フリーパスはバスの中で買えますが、駅構内のNEWDAYS(JR東日本の直営コンビニ)でも売っているという情報を仕入れてきたので、そのほうが発車間際のごたごたした状態のときに運転手から買うよりも落ち着くと思い、コンビニで購入しました。このパスを見せると、割引になったり特別サービスがあったりする協賛店も多く、結果的に今日はそれらをだいぶ活用することができました。
巡回バスの運転頻度は、17年前より少し上がったようで、前の記事を読むと1時間に1本と書いています。パスをかったときに貰った案内チラシに載っていた時刻表によると、現在の平日ダイヤでは川越駅9時35分発から11時15分発までが20分おき、お昼どき前後は少し便数が減り40〜50分おきとなり、15時頃からは約30分おきで、ただし逆回りコースも加わるようになるという按配でした。
逆回りコースは昼下がりにならないと走らないので、廻りかたを思案する必要があります。川越観光ではまず喜多院は外せません。蔵の街で昼食をとりたいと思います。それからマダムの当初からの目的であった市立美術館にも行かなければなりません。川越駅発は12時05分というバスになったので、まずその3つに絞るくらいが妥当でしょう。
ところでマダムは早くも空腹を訴えています。とするとまず蔵の街に行くのが良いのかもしれませんが、巡回ルートから考えると、蔵の街からだと喜多院も美術館も逆行となり、逆回りバスが走り出すまでかなりの時間を潰さなければなりません。それから2箇所に行くのも大変そうです。
それで、とりあえずまず喜多院に行き、たぶん境内で何か食べるものを売っているだろうからそれを食べて虫押さえとし、40分後の次の便に乗って蔵の街に向かう……ということにしました。それから蔵の街で食事をしていれば、逆回りバスが走りはじめる時間帯になるでしょう。
平日の真っ昼間ですが、巡回バスはけっこう混んでいます。お年寄りは混雑する休日を避けるつもりでむしろ平日に出かけてくるケースが多いかもしれません。また、巡回バスの車体自体が、ごく狭い生活道路なども通らなければならないために、ずいぶん小型なのでした。
道が狭いこともさることながら、川越という街の道路は、かなり複雑怪奇に折れ曲がっています。まっすぐ行けるかと思うと変なクランク状になっていたり、ほとんど意味もなく曲がりくねっていたりするのでした。川越17万石(この石高は時代によっていろいろ変化したらしい)は伝統的に幕閣に与えられる最高位の所領で、江戸城の外郭を護る役目を持っていたため、町割りなども、敵が攻めてきたときに防禦しやすいということを第一に配慮しておこなわれたために、こういうわかりにくい道が縦横に張りめぐらされるはめになってしまったそうです。何度か大火に見舞われたものの、基本的な都市構造を作り直すほどの影響は無く、また戦時中に空襲にも遭わなかったため、その道路網が現代にまでそのまま残ってしまったということでした。しかしまあ、そのおかげで蔵造りの家屋なども残って観光資源になっているわけですから、何が良くて何が悪いか、わかったものではありません。
ところで前に書いた記事の中で、
──風が語りかけます……うまい! うま過ぎる!
という、何十年来テレ玉(テレビ埼玉)で流れ続けてきた「十万石饅頭」のCMについて触れ、その「十万石」が川越のことだと書いたのですが、これは私の思い違いでした。埼玉県内に川越以外に十万石クラスの藩があったとは思わなかったので間違えてしまったのですが、十万石饅頭の十万石は、忍(おし)藩だったようです。映画「のぼうの城」で有名になりましたが、現在の行田市を中心とした一帯です。この機に訂正・お詫びいたします。ちなみに「うまい! うま過ぎる!」のフレーズの作者は棟方志功だそうで。棟方は十万石饅頭のパッケージイラストも描いています。
喜多院は川越を代表する名刹で、春日局の化粧の間やら、徳川家光誕生の間などが江戸城から移築されていることで知られます。その頃の住職で、寂れていた寺を復興したのが、家康の懐刀などとも呼ばれた南光坊天海でした。
天海という僧は、その前半生がまったくわからないこと、家康に異様に信頼されていたらしいこと、特異な政治力の持ち主であったこと、当時として驚くべき長命であったらしいことなどから、ラスプーチンのような正体不明の怪僧と思われることも多いようです。いちおう会津の葦名氏の出身という説が有力であるようですが、足利将軍の落胤であるとか、明智光秀の後身であるとかのオモシロ説もいろいろささやかれています。光秀は小来栖(おぐるす)で落ち武者狩りの手にかかって落命したというのが通説ですが、そのとき殺されたのは影武者で本当は生き延びており、得度修行ののちに天海になったというのでした。そう考えれば、家康に重用されたのも(弱みでも握っていたか?)、朝廷相手などに凄腕の交渉力を発揮したのも納得できるというわけです。
光秀と天海の遺墨から筆跡鑑定をするという試みもなされたことがあるらしく、その結果、「本人ではないとしても非常に近い関係の人物」というような鑑定が下されたとのこと。だから光秀ではなく、従弟の光春か、重臣から娘婿になった秀満あたりだったのではないかとも言われたようです。天海が光秀だったとすると、享年は驚くべし116歳となってしまい、この点、もっと年下であった光春や秀満あたりのほうが可能性が高いとも言えます。しかしまあ、この種の筆跡鑑定にどの程度の信憑性があるのかなんとも言えません。謎は謎のまま、あれこれ仮説を弄しているほうが面白そうです。
ともあれ、116歳は無理としても、100歳以上まで生きたことはまず確実と言われています。そして100歳を越えたと思われる時期からも活溌に行動しているあたり、やはり一種の怪物であったことに間違いはないでしょう。
喜多院でバスを下り、40分後に来る次の便に乗る予定を立てました。まずはマダムの虫押さえに、何か食べようと思います。
山門の中にもいくつか茶店が出ているようでしたが、マダムはいきなり山門前の和菓子屋に入りたがりました。店の中にイートインスペースというか、買ったものを食べることができる一角があり、お茶なども自由に飲めるようです。マダムはバスからその店を見て、あそこで食べたいと考えたのでした。
しかし、同じ団子を食べるのでも、境内の茶店で買って食べるのと、和菓子屋のイートインスペースで食べるのとでは、少々落ち着きかたが違ってきます。しかも和菓子屋はいろんな菓子が並んでいて、最終的にゴマ団子に決めるまでマダムはだいぶ迷いました。おかげで、40分の余裕が、半分がた無くなってしまいました。
大急ぎで本殿に参詣し、残り15分ばかりで、上記の化粧の間やら誕生の間やらを拝観するべく別館に飛び込みました。拝観料がひとり400円もするので、短時間ではもったいないようです。しかもこの拝観料は、喜多院のもうひとつの重要文化財である「五百羅漢」の見学料もコミなのでした。15分では五百羅漢まではとても見られません。
急いで部屋を見て廻りましたが、マダムは少し興味を惹かれたのか、あるいは団子を食べて空腹が切実でなくなったせいか、五百羅漢も見たいと言い出しました。
予定していたバスを逃すと、次はその50分後まで便がありません。そのあとの行程がどうなることやらわかりませんでしたが、まあもう50分ここで過ごすか、という気になりました。時間が剰ったら、菊祭りなんかもやっているようだったので、それを見ても構いません。
「化粧の間ももう少し見たかった」
とマダムが言いましたが、すでに別館から出たあとだったので、もう仕方がありません。
五百羅漢は実際には539体あるらしく、苔むした石像がずらりと並んでいるのは壮観です。そのすべてが、顔つきも表情も仕草も異なっており、全員坊主頭の袈裟姿という縛りがありながら、よくもまあこれだけバラエティ豊かな羅漢像を作れたものだと感心するばかりです。
五百余の羅漢像の中には、知り合いとそっくりなのが必ず居るとも言われます。マダムはこういうことになるとけっこう没頭するたちで、結局すべての像をかなりじっくりと見て、何人も知人生き写しの像を発見していました。
バスの待ち時間をもてあますどころか、羅漢像を見ているうちに時間は飛ぶように過ぎ去り、あと数分で次の便がやってくるという頃になってようやく見終わりました。
50分ぶりの巡回バスであるせいか、乗客がえらく多く、ラッシュ状態で走りました。途中で通りかかった川越高校は、今年(2015年)のノーベル物理学賞を獲った梶田隆章博士の出身校だったので、梶田博士の名を染め抜いた大きな横断幕が出ていました。
本丸御殿でUターンします。ここは文字どおり川越城の本丸の建物を再現した(原物は明治になってすぐ破却されました)建物があり、またすぐ近くにわらべ唄「通りゃんせ」の発祥の地である三芳野神社もあって、喜多院に次ぐ観光スポットではあるのですが、今日は省略します。Uターンと言っても充分なスペースがあるわけではなく、しかも近くで遠足の子供たちが記念撮影していたりして危ないことこの上ありません。しかし巡回バスの運転手は、切り返しに次ぐ切り返しでバスの向きを変えてしまいました。しかも、ずっと観光案内をアナウンスし続けながらの作業で、私にはとてもできそうにありません。すっかり舌を巻きました。
マダムが昼食を食べる店として狙いをつけた店に行くには、菓子屋横丁という停留所で下りれば近いのですが、ふたつ手前の大手門で下車しました。そこから菓子屋横丁までは歩いても大したことはないし、ここを歩いたほうが、見どころのひとつである「時の鐘」、そして蔵の街をゆっくり味わうことができると考えたのでした。
もっとも、時の鐘は現在耐震工事中で、中には入れませんでした。市役所や裁判所なども最近耐震のための大工事をおこなったようで、あとで市役所の前を通りかかると、窓という窓にガラスの飛び散りを防ぐための鉄のネットみたいなものがかぶせられて、何やら壮観でした。
17年半ぶりに訪れた蔵の街は、前回よりも「観光地度」が上がっていたように思いました。前は、例えば土蔵の2階の窓に、平気で洗濯物がぶら下がっていたりして、私はむしろそういうところに感動を覚えたのでしたが、今回来てみると、少なくとも表通りからはその種の「生活臭」というか「みっともないもの」は排除されていた観がありました。私の感覚としては、生活臭があるからこそ、高山などの「これ見よがしな民芸調」と違った、活きた街としての川越の良さがあったと思うのですが、市や商工会議所などの考えかたはまた違ったのでしょう。
古い街並みを維持するというのは大変なことで、公的な助成なども不可欠であり、だんだんと観光地として「見せるもの」に特化してゆくのもやむを得ないことで、そうなった場合に洗濯物など下がっていてはブチコワシだと思われるのも無理はありません。しかし、お客はどういうところに感動を覚えるのかということを、ぜひ真剣に考えてみていただけないものかと私は念じます。
とはいえはじめて訪れたマダムはずいぶん感動していたようではありました。都心から1時間足らずで来られる範囲にこんなところがあるのか、という驚きは、やはり争えないものがあります。
少し横道に入ると、ちょうど菓子屋横丁の奥に出ました。マダムの決めた店はそのあたりにあります。サツマイモを練り込んだそばと、とろろ飯のセットを食べました。この店は巡回バスのフリーパスを見せると、会計が8%割引となります。8%というから消費税分カットということかと思ったら、消費税を加算した合計から8%カットで、従って税抜き価格よりちょっとだけ(0.64%)安くなったのでした。
そうこうするうちに、逆回りバスが走る時間帯となりました。その逆回りりバスに乗って美術館に行こうと思います。ところがマダムは、もう一軒寄りたいと言いました。飲み物を注文すると、フリーパス特典でサツマイモのミニソフトクリームがつく喫茶店があるので、そこで食後のコーヒーを飲みたいというのでした。
その種の店だと、一旦入るとお尻に根が生えそうな気もします。考えていた逆回りバスに間に合わないかもしれません。美術館は17時閉館なので、次の便を待っていては観覧時間が短くなりすぎます。地図を見る限り、その店から美術館まではさほどの距離でもないので、腹ごなしに歩こうかという気になりました。
しかし、喫茶店に入ってコーヒーを飲み終え、ミニソフトクリームを食べ終えると、なんとかバスに間に合いそうだったので、蔵の街停留所に急ぎました。フリーパスなのですから、乗ったほうが良いには違いありません。普通に運賃を払って乗ると180円〜190円で、3回乗れば元が取れるようにはなっています。
美術館でやっていた企画展というのは、埼玉県内で活動している4人の画家の合同作品展でした。「絵画」と言わず、「平面作品」と呼んでいます。
企画展の切符を買おうとすると、300円プラスすれば隣にある博物館との共通入場券が買えると言われました。しかし、もう15時半を過ぎていて、両方を見ることはできそうにありません。企画展の切符で常設展は見られるらしいので、単体の切符にしておきました。
入口近くにあった荻野僚介氏の作品は、アクリル絵具できっちりと幾何学的な構成を描いたもので、タイトルはほとんどすべて、キャンバスのタテヨコ厚みのサイズをミリ単位で記しただけのものになっていました。中にはタテとヨコのサイズが入れ替わった数値を「or」でつないでいる作品もあり、それはたぶん「タテに見てもヨコに見てもどっちでも良い」という絵なのでしょう。
次の樺山祐和氏が4人の最年長で、巨大なサイズの森(?)の絵を何枚も出品しています。それらは油彩なのですが、一角に「素描」と題して、森の絵のプロトタイプみたいな小さな絵がいくつか並んでいました。そちらは油彩ではなく、和紙に墨やインク、顔料などで描いたもので、どうやらそれらの画材が和紙ににじみを作ったような効果を、油彩として表現したのが巨大な森の絵なのであるらしいと気がつきました。
その次の高橋大輔氏の作品に惹かれてマダムが見に来たがっていたようです。キャンバスの上に、厚さ数センチに及ぶまで油絵具をひたすら盛りつけたという作風で、これでは絵具代だけでとんでもない金額になりそうだと思えるほどでした。盛りつけの厚みの差や、盛りつけられた絵具が作る影なども見どころであるらしく、だとすればはたして「平面作品」と呼ぶのが妥当なのかどうか微妙なところです。
いちばん奥にあった浅見貴子氏の作品は、巨大なキャンバス(時には屏風)に、樹木をモティーフとして墨や顔料を叩きつけたみたいな画風でした。いちばん大きな作品の余白をよく見ると、エンピツ描きらしい下絵がちょっと残っていて、それから推測するに、まず下絵として樹木を普通にスケッチし、その枝々の尖端(無数にあります)に絵具を入れてゆく、という描きかたなのではないかと思われました。
いずれもまあ抽象画でしたが、4人4様の作風で面白く拝見しました。
常設展も覗いてみました。川越にゆかりのある画家の作品を集めているようです。そんなに有名な画家は居ないようでしたが、作品のレベルはなかなか高いと思いました。
スチールの四角柱にさまざまなスリットを入れたものを10本ばかり並べてある部屋もありました。これも特別展で、ただ別料金は要らないというものであったようです。この「彫刻」のポイントは、それぞれの四角柱を「楽譜」として解釈し、その楽譜に基づいてシンセサイザーで打ち込んだ「音楽」を鳴らしているという点にありました。「楽譜」への変換の仕方はいろいろあったようですが、四角柱のいちばん上を0とし、そこから下へ向かう距離(ミリ単位)を「秒数」と解釈し、スリットが入れられている位置のタイミングで音を鳴らすというようなやりかたであったようです。どうやらスリットの「幅」が音量をあらわし、スリットの入れられた「面」がピッチをあらわしているように思われました。クラスターみたいな「和音」が、ある間隔をもって鳴るというだけの「音楽」ですので、さほど意味や深みが感じられるわけではありませんが、一種の環境音楽としては悪くないのではないでしょうか。
閉館ぎりぎりまで美術館に滞在し、すっかり暗くなった外に出ました。最初は明るいうちに帰途につくつもりだったのですが。
最終の巡回バスに乗って、本川越駅まで行きました。往路と同じルートで帰っても良かったのですが、西武の特急「小江戸」号に乗ってみようか、とマダムに提案したら乗ってきたのです。
平日夕方の上りの特急などがら空きで、リクライニングの効いた座席に坐るとたちまち眠くなりました。所沢停車も気がつかなかったし、そのあと少し起きていたものの、田無あたりからまた意識が飛んで、ふと眼が醒めるともう高田馬場に近づいていました。
せっかく乗ったのだからと、高田馬場ではなく西武新宿まで行きました。考えてみると平日の宵ですから、新宿駅から帰宅するなど、好んでラッシュに揉まれることになり、ばかなことをしたものだと後悔しました。
しかも埼京線に乗って赤羽で京浜東北線に乗り換えようとしたら、川崎のあたりで線路に侵入した男が居たらしく、電車が止まってしまっていました。男は暴れていてなかなか取り抑えることができなかったようです。30分くらい遅れてようやく北行の電車がやってきましたが、赤羽駅に停まったままさらに10分くらい経過して、やっと動き出しました。最後のひと駅だけでやたらと手間取ったことになります。素直に川越線で帰っていれば、川崎の不心得者のせいで電車が停まる前に帰れたかもしれない、とさらに後悔を深めたのでした。
(2015.11.11.) |