大分県の佐伯市で、合併10周年記念誌のカレンダーページだかに「六曜」が記載されていたというので騒ぎになっています。 騒ぎになった理由も、その対応のしかたも、はたから見ているとさっぱりわけがわからない状態です。 六曜というのは、多くのカレンダーや手帳に記載されているもので、たいていの人は見たことがあるでしょう。先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口の6つの「曜日(暦注)」であり、現在の月曜・火曜……という七曜は、たぶんこの六曜と数字が近かったからMondayやTuesdayの訳語として採用されたのではないかと思います。 子供の頃これを見て、なんのことだろうかと思った人は多いでしょう。しかも、6つが完全に循環しているかと言えばそうでもなく、ときどき先勝の次に仏滅が来たり、赤口の次に友引が来たりしているので面食らったものです。新暦のカレンダーで見ると不思議なのですが、これは旧暦の各月の朔日(ついたち)がやはり先勝・友引・先負……の順で並んでおり、月が替わると循環が一旦リセットされて、朔日に宛てられた曜日から再び開始されているためです。 もともとは中国の五行説に基づいた「時刻」の吉凶占いが元になっています。例えば先勝は午前中が吉、先負は午後が吉、赤口は正午が吉で午前午後が凶……などであったようですが、室町時代に日本に伝わってきた頃にはすでにいろいろ変形されてしまい、その後日本でもあれこれいじくられました。現在の形になったのは享保年間(1716〜36)だそうで、それが民間でも広く知られるようになったのは幕末も近い天保年間(1830〜44)のことだったようです。つまり、六曜の歴史は案外と新しいことになります。
現在では「時刻占い」の意味合いはほとんど失われ、冠婚葬祭の吉日を選ぶ程度にしか使われていません。結婚式は大安か友引におこなうことが喜ばれ、葬式は友引が嫌われます。友引というのは本来、先勝と先負とのあいだにあるので、
──相打ち友引きとて勝負無し。
ということから名付けられただけで、「友達をひっぱる」などという意味はまったくありませんが、結婚式に好まれたり葬式に避けられたりするのは、もっぱら字面の印象からだけの俗習と言えるでしょう。また、仏滅というのはもともと「物滅」と書かれていたもので、ホトケとは関係ありません。
まあ要するに、特に根拠はない迷信と言いきっても良さそうです。ただ、わざわざ仏滅に結婚式を挙げたりするのは、やはり縁起が悪いと言われるでしょう。西洋人が金曜日を縁起悪く感じているのと同じようなことです。
さて、その六曜が騒ぎになったというのが、
──差別を助長する。
という理由で、とある「市民団体」からクレームがついたからだというので、この報道に接した数多くの人々の頭の中には、
──はぁ?
という疑問符があふれたと思われます。マダムがスマホでこのニュースを読んで私に教えてくれたときも、私は思わず
「はぁ?」
と訊き返したものでした。
「なんでそれが差別を助長するの?」
「さあ……」
マダムもわけがわからない様子でしたし、その後別のところで私自身が記事を読んだときにも、やはりわけがわかりませんでした。ネットの反応も、
「ちょっと何言ってるのかわからない」
というものが大半であったようです。
佐伯市では記念誌の配布を中止・回収するかどうかというような大騒ぎとなり、結局市長が「おわびの手紙」を添えて配布するということに落ち着いたらしいのですが、おわびの必要がどこにあるのかも判然としません。
記事をどう読んでも、
「迷信」は差別を助長するおそれがある。
↓
「六曜」は「迷信」である。
↓
従って「六曜」は差別を助長するおそれがある。
という、奇妙奇天烈な三段論法がおこなわれているようにしか理解できませんでした。
六曜が一種の迷信であることは異論がないとしても、その迷信が、誰を、どのように差別することにつながるのか、その説明が一切無いので、まるで腑に落ちないことになってしまっています。
例えば、仏滅日生まれの人がことさらに嫌われたり、就職で不利になったりというような事実があるならば、これは確かに六曜に基づく差別であり、許されることではないでしょう。
しかし、そんな話は聞いたこともありません。どなたか実例をご存じでしょうか。
血液型や星座とは違って、六曜は別に、その日に生まれたからどうだ、などという観念とはまったく縁がありません。あくまで、人が何か行動を起こそうというときに参考にする吉凶の判断に過ぎません。それはひょっとすると「日」を差別していることになるかもしれませんが、「人」を差別するような要素は六曜にはありません。
そんなことを言い出せば、血液型占いだって、科学的根拠のまったくない迷信であることは、もう70年以上も昔から指摘されているにもかかわらず、人の性格や行動を血液型で分類しようという俗習はちっとも衰えません。企業の採用にあたって、社内での人間関係を円滑にするためと称して、血液型を判断材料にするところさえあると聞きます。ここまで来ればまさしく「迷信に基づく差別」にほかならないでしょう。六曜よりもよほど悪質です。
「同じ迷信なんだから、六曜だってひょっとすると差別に結びつくことがあるかもしれないじゃないか」
と言う人が居るかもしれませんが、この、
──ひょっとすると……かもしれない
で物事を規制したり封印したりしたがる傾向は(近年それが顕著になっているようでもありますが)、かなり危険です。
「おまえはひょっとすると殺人罪を犯すかもしれないので、事前に拘留する」
「おまえはひょっとすると騒乱を起こすかもしれないので、サミット期間中は外出を禁止する」
等々と言われて、はあそうですかと納得できる人は滅多に居ないでしょう。
迷信は確かに困った部分もあるかもしれません。しかし人間、迷信を完全に排除して生活してゆけるほど合理的にはできていないものです。迷信の完全排除などと言い出せば、墓参りも初詣も無駄なことになってしまいますし、桃の節句や端午の節句、七夕やら七五三などすべて廃止しなければ済まなくなります。
そうした、いわば習俗に結びついている迷信は、闇雲に排除するのではなく、もし誰かを傷つけるような面があるならばそういう面を改善しつつ、ゆるやかに継承してゆくのが良いと私は思います。その中で自然に廃れてゆくならそれも好し、形を変えてゆくもまた好しというところではないでしょうか。
六曜が差別を助長すると主張するのであれば、「迷信だから」などという雑な理由付けではなく、六曜をカレンダーに記載することによって、どこの誰がどういう風に傷つけられることになるのか、その因果関係を明示して貰わなければ話になりません。
とにかく自分の気にくわないことを片端から「差別」と言えば、それで無理が通ってしまうような昨今の風潮には、私は腹に据えかねています。「差別」を飯のタネにしているような連中によって、差別や人権といった由々しき言葉が、なんとも軽くなってしまったことに、憤りを禁じ得ません。
今回の場合、六曜のどこが「気にくわない」のか、すらさっぱりわかりません。気は確かかと思えてしまうほどです。クレームをつけた「市民団体」の正気が疑わしいばかりでなく、そんなクレームに右往左往している市役所の正気も疑います。
役所というところは、ことに市役所のレベルくらいだと、「差別」という言葉には非常に弱いようです。この言葉を言われると、役所の個々人の内心では
「何をバカな」
と思ったとしても、とりあえずは恐縮して、大わらわで対応策を講じなければならなくなっています。まさに魔法の言葉です。
いい加減、「差別」なる言葉の魔力を打ち砕かなければならない時期にさしかかっているのではないでしょうか。そうしないと、本当の差別の対象となって苦しんでいる人々の救済にも差し支えることになりかねません。
私個人としては、六曜など記載されていてもいなくても、どっちでも構わないのですが、あまりに愚かしい騒ぎであったので、つい一言申し述べたくなった次第です。
(2016.1.7.)
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