忘れ得ぬことどもII

ある文芸サークルの想い出

 前回書いた文章の末尾で、高校時代に入っていた文芸サークルの話に触れたら、なんとなく懐かしくなってしまい、そのことについてもう少し書きたくなりました。私の悔い多き青春時代の、比較的良い想い出です。
 文芸サークルと言っても、自分の学校の文芸部などではありませんでした。中高一貫校だった自分の学校では、中学の時に壊滅寸前の文芸部に入ってちょっとだけ活動したことがありましたが、一緒にやる仲間も居らず、結局自然消滅みたいなことになってしまいました。そのトラウマもあって、高校の文芸部に入る気がしませんでしたし、そもそも高校のほうの文芸部も事実上活動休止状態であったような記憶があります。
 私が参加したのは、他校に活動の本拠を置くサークルだったのでした。「部」ではなく「サークル」であったところがゆるかったようで、何人か校外生の参加者も居たのでした。もっとも通常の活動に加わるわけにもゆきません。もっぱら、年に4回ほど発行している会誌への寄稿をおこなっていたのです。
 前回書いたとおり、私の高校時代ですから、まだパソコンはおろかワープロも普及していません。オフセット印刷はありましたが値段が高く、会誌は昔懐かしいガリ版刷りでした。寄せられた原稿を「ガリキラー」と称する係の者がガリ版用の原紙に書き写します。さすがに鉄筆ではなくボールペンになっていたとは思いますが、これがなかなか大変な作業で、校外生のため作業に参加できない私は少々うしろめたい気分だったものでした。いまならデータ投稿で簡単に印刷にまわせるでしょうが。

 そもそもなんで私が他校のサークル活動に参加したかというと、小学6年のときの友人がその高校に通っていたからなのでした。
 「小学生のときの友人」と書かずに「小学6年のときの友人」と書いたとおり、幼馴染みというわけでもありません。私の父が、少しでも広い社宅が空くたびに転居していたもので、私は小学校を2回転校しており、そのため幼馴染みというほどの友人はできませんでした。卒業した学校には5年から6年に上がるときに転校したのであり、1年間しか通っていません。そのためもあってあまり良い想い出もありません。卒業式のときの「呼びかけ」では、出席番号順なので仕方がないとは言うものの、参加してもいない「5年生のときの林間学校の想い出」の件を語らされたりして、最後までどこか私にとってはちぐはぐな感じの拭えない学校だったように思います。
 ただ、このときのクラスで、マンガを描くのが好きだという共通点で親しくなった友人が居ました。マンガと言っても実際にはネームレベルのもので、わら半紙を綴じて作ったノートに鉛筆で書きなぐるといった程度なのですが、その「程度」も共通していて、ついには合作をはじめたりしていました。
 合作をはじめたため、お互いの家に行き来するようになり、それが卒業後もずっと続いていたのです。なお最初は3人ではじめていたものが、ひとりはわりに早い時期に脱落してしまいました。
 中学校に上がってからも、隔週の日曜くらいのペースでどちらかの家に訪れてマンガ(ネーム)を描いていました。ページ数だけはとてつもない大長編を描き上げたりもしました。
 彼はマンガを描く以外にも、鉄分多めという共通点もあり、中3の夏休みにはふたりで東北地方を旅して廻ったりもしました。こうしてみると、当時はそれほどにも思わなかったのですが、彼は「親友」の名に価する存在であったのかもしれません。ときどきは意見が対立して議論になったりもしましたが、それもまあ「友情」の一部であったようです。
 高校に進む頃になると、さすがに隔週に会うほどのペースは保てなくなりましたが、それでも月イチか、2ヶ月にいちどくらいは会っていました。もうマンガはどちらもあんまり描かなくなっていましたが、若干は続けていました。
 彼は高校では演劇部に入っていましたが、それと共にある文芸サークルにも参加しているとのことでした。会誌を貸して貰い、読んでいるうちに、むしょうに仲間に入りたくなりました。自分の学校では少々つらい時期で、全然別の団体に属してみたいと思っていたせいもあります。
 校外生も寄稿できないのだろうかと友人に訊ねてみると、そういう例はあったようで、別に構わないと返事が来ました。そして寄稿専用の原稿用紙を渡されました。これは会誌の文字数に合わせたマス目が印刷されたもので、もちろんそれ自体ガリ版刷りです。消しゴムを何度もかけていると枠線のインクがにじんできて大変なことになる原稿用紙でしたが、その束を貰ったときは嬉しくてたまりませんでした。
 最初に寄稿するものとして、短編小説をふたつ書いてみました。片方はアトランティス大陸の沈没にからめた妙に壮大な話で、読み返してみると短編ではわけがわからないようでもあったので破棄し、もうひとつのほうを投稿しました。「無人駅」という小説です。

 高校1年生の夏休みに、私は北海道をひとり旅して、その途上、いまは無き湧網線能取(のとろ)という無人駅で一夜を過ごしたことがありました。その後いちはやく廃止されてしまったローカル線の駅ですから、寂しいの寂しくないのって、そりゃもう深閑としていました。なんでそんな駅で駅泊をしようとしたのかよく憶えていませんが、たぶん宿代を節約しようとしたのでしょう。
 小さな、なんだかカビ臭いような待合室があって、白熱灯がともっていました。この電灯、気づかないうちに消えていてぞっとしたのですが、私がうとうとしているあいだに反対向きの終列車が来て、その車掌が消して行ったのでしょう。
 夜が更けるにつれ、おそろしく寒くなってきて閉口しました。オホーツク海沿いの土地ですから、夏とはいえ夜には気温が10度以下に下がることがあります。私は夏装備でセーターなども持ってきておらず、ユースホステルで使うスリーピングシーツ(袋状になったシーツ)にくるまってがたがた慄えていました。
 ときどきうつらうつらはしたものの、ちっとも眠れた気がせず、夜が明けるともうそこに居るのがイヤになって、一番列車を待たずに道路を歩き出し、途中でトラックの運ちゃんに拾って貰って隣の常呂(ところ)駅まで乗せて貰いました。
 このときの体験に、妄想を混ぜて小説に仕上げたのが、私の処女作と呼ぶべき「無人駅」でした。「私」が夜を明かしている無人の待合室に、不意に白い服の少女が現れて……という思春期全開な展開になります。実は「不意に何者かが現れた」のは本当にあったことで、それはツーリング中のひげ面のオッサン(いま思えば20代の若者だったようですが)でした。急に待合室を覗き込んで去って行ったので肝を潰しそうになったものでした。
 ちなみに小説の上では、別にそのあとエッチな展開にはならず、もの悲しい結末となります。

 「無人駅」がサークル内で比較的好評であったと聞き、私は調子に乗って毎号のように寄稿しはじめました。全部で小説を5篇、詩を3篇、聖書ネタのエッセイみたいなものを3篇、それから評論みたいなものも書かせて貰いました。その評論というのはその会誌に載った他の会員の作品を槍玉に挙げて批評らしきことをしたもので、基本的には褒めておいたものの、いま思えばどうもだいぶ失礼なことをしていたような気がします。
 2本目の小説は、女性のひとり語りという体裁で書いてみたものの、そんな奇策がうまくゆくはずもなく、ストーリーもありきたりで失敗しました。
 3本目は、最後に「私」が自分自身を刺すという話です。
 当時私は電車通学をしていましたが、いつも乗り合わせる中に、ちょっと眼を惹かれる女の子が居ました。毎日ほぼ同じ時間の電車に乗っているのだから、ちょくちょく一緒になるのも当然です。着ていた制服から、どこの学校の生徒かということまではわかったのですが、ヘタレな私はもちろんそれ以上何をするでもなく、ただ彼女を眺めては溜息をついているばかりでした。
 で、この体験を妄想でふくらませたのが「私は私」という第3作でした。文中の「私」は、彼女への想いもだしがたく、しかし当人はヘタレで声をかけることもできず、あげくに思いついたのが、「腹話術を習得して、別人の声で彼女に話しかける」という、斜め上にもほどがある策だったのです。
 「私」はその甲斐あって彼女と交際することに成功するのですが、腹話術の「声」がなぜか自分の意思を離れて都合の悪いことを語りはじめ、「私」は「声」を黙らせるべくおのが腹に小刀を叩き込む……という不条理な結末で、これもなかなか好評だったようです。どうも、私は自分の体験からふくらませた小説のほうがうまく書けたようです。
 で、4作目が、ペド+カニバリの危ない小説です。これも実は、ほんのちょっとだけ実体験を材料の一部にしているのですが、別に私にペドっ気や食人愛好癖があるわけではありませんので念のため。この作品はかなり異常性が高かったせいか、サークル内ではややドン引きされ気味であったように仄聞します。
 5作目は北方領土を舞台とした破滅的なラブストーリーでしたが、やや設定が強引で、長い(前後編にしていた)わりにはぱっとしない作品でした。やはり実体験に材料を持たない小説は私には向かなかったのかもしれません。
 この作品が最後の投稿となりました。何しろ高校を卒業しなければならなかったのです。

 友人とは高校卒業までちょくちょく会ってはいましたが、その後彼はN大の演劇学科へ進み、本格的に芝居の道を進み始めました。公演も数回観ましたが、残念なことにそれからすっかり疎遠になってしまいました。俳優になったのか、それは諦めて演出とか制作のほうに進んだのか、それすら諦めて全然別の仕事に就いたのか、いまとなってはそれもわかりません。少なくとも、俳優として彼の名前を聞いたことはありません。小劇団あたりで地味にやっていると、なかなか名前も伝わってこないものですが。
 一方作曲家としての私の名前も、合唱界などではそれなりに知られていると思いますが、一般にはほとんど通らないでしょう。いまだにウィキペディアの項目にもなっていないくらいですからたかが知れています。向こうが私の名を聞くことも、まず無さそうです。私の生涯で数少ない「親友」であったのに、まったく音信不通になってしまいました。残念なことです。
 文芸サークルのほうも、何しろほとんど顔さえ出していなかったので、高校卒業後はOBとして振る舞うわけにもゆかず、それきりとなりました。しかし、友人の舞台を観に行ったとき、サークルの仲間何人かと出くわしたことはあります。
 「ほとんど」顔を出していなかったというなら、「少しは」出したことがあるのかと言われそうですね。実はいちどだけ顔見せしたことがあります。サークルのあった高校の文化祭の出し物として、そのサークルでは映画を撮ることになり、ついてはエキストラが必要だというので、友人に頼まれて撮影に出かけて行ったのでした。確か、3本目の小説を投稿したあとくらいのことだったように記憶しています。会誌の投稿者としてのみ認識していた「仲間」たちと出逢えて、とても愉しめました。
 なお、完成した映画を観に文化祭にも行ったはずなのですが、そのときのことはなぜかあまり憶えていません。

 その後、いくつか短編小説は書きましたが、発表の場が無いというのはやはり張り合いのないもので、そのうちやめてしまいました。その頃に小説投稿サイトみたいなものがあれば、張り切って投稿していたかもしれません。しかし他人の好みに合わせて書けるような器用なたちでもないので、それも長続きしなかった可能性もあります。
 大学時代は内田百に傾倒していたので、小説も百閧チぽい書きかたを目指したところがありました。畏友芥川龍之介の自殺を素材にした「山高帽子」とか、長男の病死を妻との相剋をからめて描ききった「蜻蛉眠る」などが目標でしたが、もちろんそんな私小説的題材が自分の中に蓄積されているわけもなく、ものにはならずに終わりました。
 やはり、あの高校の2年足らず──私が投稿したのは会誌6号分でしたから実際にはほんの1年半(年4回発行でしたので)──の変則的なサークル活動こそ、私のいちばん純粋で愉しかった時間だったのかもしれないと、35年後に振り返って思うのでした。

(2016.10.16.)

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