最近のドラマでもマンガでもアニメでも同じようですが、主人公があまり苦境に立たされたり追い込まれたりするものは、あまり好まれないような傾向があるようです。そういうのは「鬱(うつ)展開」あるいは「胸糞(むなくそ)展開」などと呼ばれ、読者視聴者に見放されることが多いらしいのです。 昔のドラマなどではむしろそういう展開が普通であって、主人公が蜿蜒と追いつめられたりいじめぬかれたりしたあげくに、最後の最後になってようやく胸のすく反撃をしたり、幸運をつかんだりしたものでした。場合によってはそれすらなくて、最後まで鬱展開のままなんてものもありました。それで別に文句がつくということもなかったようです。 いまの時代に「おしん」が放映されていたらどんな評価を受けることでしょうか。あるいは「家なき子」(エクトル・マロの名作ではなく安達祐実主演のドラマのほう)が放映されていたらかつてのような人気を保つことができるでしょうか。 アニメでも同様です。「みなしごハッチ」とか「けろっ子デメタン」など、いまならどんな見られかたになるだろうかと思います。何しろ最近のアニメのように3ヶ月で終わるわけではなく、1年くらいかけて、ずーっと理不尽な宿命や抑圧にさらされ続けるのです。主人公以前に、視聴者の心が折れてしまうのではないでしょうか。
もちろん、それらの番組の放映当時の視聴者の心がいまよりも強かったなんてことはありません。主人公の苦境に同情し、あるいは自己投影し、悶々としながら毎回涙を流していた人だって数多く居たはずです。ただ、そのことが昔はそんなに嫌がられる要素にはなっていなかったような気がします。
そもそも悲劇を見て涙するのは、古代ギリシャの時代から認められていた心のリフレッシュ方法にほかなりません。カタルシスという言葉はまさしくそのことを指してアリストテレスが名付けた概念でした。人は悲劇を見て涙することによって、みずからの精神の中にたまった澱(おり)を排出し、浄化されます。その作用のことをカタルシスと言うのです。
カタルシスの無い物語というのは、読んでもちっとも面白くありません。
近年の心理学では、カタルシスも一種類ではなく、例えば情緒的カタルシス、倫理的カタルシス、知的カタルシスなどのように分類できることになっているようです。推理小説を読んで感じるのは知的カタルシスや倫理的カタルシスであることが多い、などですね。物語の鬱展開に接して得られるのは情緒的カタルシスでしょうか。
ともかく、ドラマの主人公が苦しむのを見て一緒になって涙を流したりするのは、このカタルシスなのであって、人間の精神にとって悪いことではありません。それが嫌われるようになったというのは、世の中の精神というものがどこかいびつになっているのではないかと心配になります。
主人公が苦境に立ったり抑圧されたりするのを好まないとすれば、最近ではどんな筋書きが好まれるのでしょうか。
アニメやラノベなどの感想でよく出てくるキーワードは、「無双」あるいは
──俺TUEEE〜〜!
というヤツです。
つまり、なんらかの卓越した能力(チート)を持った主人公が、他からの悪意や難儀を危なげなく切り抜けて、輝かしい成功をおさめる、という筋書きのほうが人気を得るようなのです。
テレビドラマ不振の昨今において、「ドクターX」がやたらと高い視聴率を誇っているなんてのはその好例でしょう。米倉涼子扮する天才女流外科医が、
「ワタシ、失敗しないので!」
とうそぶきつつ、本当に絶対失敗することなく毎回難手術を成功させ、いつも何やら企んでいる悪役の病院長の鼻を明かし続けるというシリーズです。私などからすると、いい加減ワンパターンにもほどがあるだろうと言いたくなりますが、むしろそこが良いらしいのでした。
つねに傲慢なほどにマイペースで、要職にある人々を歯牙にもかけず自信満々にふるまっているこういう主人公がもてはやされるなどというのは、20年前には思いもつかなかったことかもしれません。
手塚治虫の「ブラック・ジャック」は確かにそういうところがあり、ドクターXはむしろブラック・ジャックの女性版というイメージで発想されたキャラクターかもしれませんが、ブラック・ジャックには数奇な生い立ちと人知れぬ苦悩の影がありました。また難病を前に術式を思い悩むシーンもそれほど珍しくはありませんでした。ライバルのドクター・キリコが登場したときなど、人を治すというそのこと自体への信念を揺さぶられるというような深刻な事態にも陥りました。失敗が無いわけでもありませんでしたし、人体の神秘的な作用の前に自分の無力さを思い知らされるなんてこともありました。
しかし、ドクターXにはそういう苦悩は微塵も感じられません。視聴者の側も、思い悩む大門医師など誰も見たがらないでしょう。まさに「俺TUEEE〜〜!」なのです。
少し前に、「半沢直樹」が人気を得たことがありました。私はこのドラマを見たことはないのですが、聞くところでは、前半いろいろ理不尽な目に遭わされる主人公が、後半で「倍返しだ!」と叫んで反撃するというのが毎回のストーリーであったようです。
前半を見ると鬱展開であり、そんなに人気があったのが不思議に思われますが、このドラマのポイントは、基本的に一話完結であることで、必ず後半には反撃シーンが描かれるという安心感があったのに違いありません。
そして、流行語にもなった「倍返し」の言葉から想像するに、その反撃は毎回いささか過剰報復ぎみだったのではないかと思われます。しかし、それがスカッとするというわけで人気急上昇とあいなったのでしょう。
ところで一話完結で、前半鬱展開、後半で過剰報復ぎみの反撃……となると、これはなんのことはない、時代劇のフォーマットです。
考えてみれば、時代劇の主人公はたいてい「俺TUEEE〜〜!」であるわけで、そう考えると「チート主人公」のドラマやアニメが好まれるのは、「物語の総『時代劇』化」であるのかもしれません。
時代劇にもいくつか流儀があって、必殺仕事人のように表に出られない裏稼業のやから、もしくは銭形平次のように岡っ引き程度の下っ端捜査員を主人公にする庶民派タイプがあると思えば、強大な権力にものを言わせて悪党をねじ伏せるタイプも決して嫌われてはいません。言うまでもなく水戸黄門、暴れん坊将軍、大岡越前、遠山の金さんといった系列です。
時代劇の傾向をずっと調査していたわけではないのですが、テレビ放送の初期の頃は庶民や裏稼業が主人公のものが多く、だんだん時代が下るにつれて権力者型が多くなってきたような気がしてなりません。
つまり、主人公が無敵であることは変わらないとしても、初期には武芸の上で無敵なだけであったのが、徐々に権力的にも無敵、まさにチート化してきた傾向が見られるように思うのです。この現象、社会主義者などなら嘆かわしいと思うかもしれません。大衆がだんだん「体制側のヒーロー」を好むようになってきているようなものですから。
それはともかく、時代劇というものを考えてみれば、チートな主人公が余裕綽々で大活躍するという「安定の筋書き」を好む人々は、昔から一定数居たということになりそうです。
しかし、そういうステレオタイプの筋書きを冷笑あるいは揶揄する向きも、以前はもっと多かったように思えてなりません。少なくとも、「安定の筋書き」でないとたちまちそっぽを向かれる、主人公の苦難が「胸糞展開」などと呼ばれて忌避される、なんてことは無かったはずです。
「鬱展開」「胸糞展開」を嫌う立場からの言明もときおり見かけます。
多忙な日常の中、ひとつのストーリーをじっくりと追うということのできる人は限られており、多くの人は現れては消えるドラマやアニメを、生活の息抜きとして軽く楽しんでいる。
そういう見かたをされている以上、蜿蜒と鬱展開が続くような連続ものが避けられるのは当然である。
誰が沈鬱な気分をひきずったまま翌日の仕事や学業に打ち込みたいものか。
人々がフィクションに求めているのは、明日への活力になるような爽快さなのだ。
……といった議論なのですが、まことにごもっともとしか言いようがありません。
録画機器が発達して、みんなが同じ日時に同じ番組を見るとは限らなくなっており、視聴後感を友達同士で共有することすらできなくなっている、というのも一因でしょう。私はもとからテレビをそれほど見るほうではありませんでしたが、マダムなどは学校時代、「前夜見たドラマの話題」で友達と大いに盛り上がっていたようです。最近の中高生はあんまりそういうことをしないのではありますまいか。
友達と気分を共有できるなら、鬱展開なら鬱展開で、それなりに盛り上がれるでしょうが、自分だけで抱え込むのであれば確かにつらいものがあるかもしれません。
しかしながら、時代劇的展開だけでは、やはり深みには欠けるだろうと思います。
時代劇にしても、それぞれのタイトルや設定は憶えていても、各話の内容など記憶している人はほとんど居ないことでしょう。
「水戸黄門の第14期の第5話なんだけどさ、あれに出てきた代官って……」
どれほどの時代劇オタクであろうとも、そんな会話が成立するとは思えないのです。
しかし、いまで言う鬱展開ばかりが続く昔のドラマは、けっこう鮮烈に憶えているものが多いように思えます。
上記の「家なき子」で、
──同情するなら、金をくれ!
というセリフを記憶している人は多いと思いますが、これはドクターXが毎回口にしている「ワタシ、失敗しないので!」の決めゼリフとは違い、最終回のラストシーンに至って主人公がほんの数回、悲鳴のように繰り返したセリフでしかありません。それがこれだけ人口に膾炙しているというのは、主人公がそれまで積み重ねてきた不幸に裏打ちされた深さがあるからでしょう。「俺TUEEE〜〜!」展開では、爽快感は残ったとしても、物語の内容も個々のセリフも、あんまり印象に残らないだろうことは想像できます。
上に述べた、鬱展開を嫌う立場も理解できないではないのですけれども、苦悩を拒否したフィクションというものは、はたして人々の記憶に刻みつけられることがあるのだろうか、と思わざるを得ません。
ドラマやアニメなどならまだ良いとしても、例えば
──読後、世界が違って見えた。
という読書体験をしたことのない人は不幸である気がします。世界が違って見えるほどのパワーのある本というのは、やはり苦悩とか苦境とかとは切り離せません。
ちなみに私は、これまでの生涯に2冊そういう本と出逢いました。いずれも高校生のときに読んだのですが、ゾラの「居酒屋」とドストエフスキーの「罪と罰」がそれです。この2冊の他にも、感動した小説はいくつもあるのですが、読後に世界が違って見えたとまで感じたのはこれだけです。
「居酒屋」はまったくどうにも救いのない話ですし、「罪と罰」は救済はあるものの主人公はひたすらな失意に沈みます。それこそ、読んでいるうちに心が折れそうになるような小説でした。しかし、それまでとは違った眼を自分の中に開かせてくれたという意味では、この2冊には感謝しています。
ラノベばかり読んでいるような人が、こういった苦悩に満ちた古典を読み切ることができるかどうか、ちょっと興味があります。
現実がつらすぎて、フィクションの上でくらい爽快な気分を味わいたい……というのであれば哀しいことですね。
確かに「おしん」にしろ「家なき子」にしろ、あるいはマダムが昔愉しんでいた「少女に何が起こったか」みたいなアイドルドラマにしろ、高度成長期からバブル期ころに作られたもので、われわれは「他人事」として不幸続きのストーリーを見ることができていたのかもしれません。こんな不幸は絵空事だ、あるいは昔の話だ、という気持ちを抱きつつフィクションを愉しんでいたということはあり得ます。
しかし一転して現在、画面の中の不幸不運は、必ずしも絵空事ではなくなっているとも考えられます。主人公の苦しみが「身につまされて、見ていてつらい」というものであれば、ものがエンターテインメントである以上、無理して見たくもない、という気分にもなることでしょう。
さて、皆さんはやはり鬱展開がお嫌いでしょうか?
(2016.11.19.)
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