忘れ得ぬことどもII

「ふるさと納税」狂騒曲

 また税金の申告の季節がやってきました。例年、確定申告の締め切りギリギリになってあわてて書類を作り、最終日の午前中あたりに税務署に自転車を走らせるということばかりやっています。今年こそはもう少し余裕を持って申告書類を作成したいと思っているのですが、それも毎年のことで、結局ギリギリになっています。夏休みの宿題を8月31日に大あわてでやる小学生のようです。私は小学生の時分、そんな綱渡りなことはしていなかったと思うのですが、どうも大人になってからそのあたりがダメダメになっている気配があります。
 私などは収入から必要経費や諸控除を差し引くと全然課税所得に達しないため、実際にはあんまり税金というものを納めたことがないわけで(ギャラなどで差し引かれた分は、申告するとだいたい還付金として戻ってきます)、税金について語る資格は無いようなものなのですが、最近はふるさと納税というのがはやりでもあり、また問題にもなっているようです。
 私の妹はまっとうな国家公務員なので、当然税金を納めています。その妹が、
 「はじめて、ふるさと納税ということをしてみたよ」
 と言っていました。
 妹は新潟県の生まれですが、ほとんど物心もつかないうちに東京に出てきて、それからずっと東京育ちです。当然、ふるさとなんてものは無いようなものです。ですから、自分の生まれた地に納税したというわけではありません。各地の自治体がそういう受け皿を作っていて、住民でない人間からの納税を募集しているのです。
 ただお金をくれと言っても誰もくれるわけはありません。そこで、さまざまな特産品などを納税の返礼として贈ってくることが多くなっています。しかもその返礼が年々豪華なものになる傾向があるようです。その土地に縁もゆかりもなくても、返礼品を目当てに地方の自治体に納税する人が増えているらしいのでした。
 お米、果物などの農産品から、高級牛肉とか、カニとか、まあいくらくらい納税したかにもよるのでしょうが、下手すると納めた税額とあんまり変わらないのじゃないかと思われるほどのものが贈られてくるようです。
 マダムの兄の家などもふるさと納税をしていて、A5ランクの牛肉を貰ったりしているそうです。
 そんな良いものを貰えるのであれば、確かに自分の住んでいる市や区に納めるより、ふるさと納税の扱いにしたほうが得な気になります。それで、ふるさと納税をしている人も、その額も、年々増えている模様なのでした。
 おかげで、本来その税収を得るべき都会の自治体がわりを食うことになります。
 ちなみにマダムの兄も、私の妹も、世田谷区の住人です。世田谷区はこのふたりの税金を取りのがすことになったわけです。
 いや、もちろんふたりだけの問題ではありません。世田谷区などでは近年、ふるさと納税をする区民が増えすぎて、はっきりと減収が問題になるレベルになりつつあるようです。

 もともと世田谷区という区は、人口は東京都内でもダントツに多く、ほぼ90万人近くの住民が暮らしています。これは世田谷区が独立した市であれば全国15位以内に入るほどの数です。
 地域イメージも良く、世田谷区民と名乗れば、港区ほどではないかもしれませんが、ちょっとしたセレブ扱いをされるほどです。
 高額所得者も多いですから、当然、税収もすごいだろう、と思われることでしょう。
 ところが、案外とそうでもないのでした。
 貧富の差の小さい日本では、どれほどの高額所得者が住んでいたとしても、個人が区に納める税金などはたかが知れているのです。自治体を支えるのは、個人の所得税ではなく、企業が納める法人税なのです。
 だから、法人の多い自治体は潤っています。東京で言えば、大田区品川区などが該当します。特に羽田空港を抱える大田区などは、利便のため空港近くに本拠を構える企業も多く、黙っていても巨額の法人税が流れ込んできます。
 これに次ぐのが、ギャンブル場のある自治体でしょうか。ギャンブル場自体も法人ですから当然法人税も払って貰えますし、競輪・競馬・競艇などの公営ギャンブルは賭け金にも税がかかりますので、それで大いに潤います。大田区は上記の法人税のほか、平和島競艇場もありますから、もう笑いが止まらないでしょう。品川区も大井競馬場を抱えています。わが川口市もオートレース場があるので財政はまあまあといったところです。
 しかし、世田谷区には、さほどめぼしい企業が本拠を置いているわけではありません。人口密度も高いので、大規模な工場なども置くわけにはゆかないでしょう。
 ギャンブル場もありません。世田谷区民はいわゆる「意識高い系」が多く、新しく設置する気になったとしても猛反対運動がまきおこるのが眼に見えるようです。
 結局、主な税収は個人の所得税に頼るしかないことになります。消費税だって、個人消費のレベルですから大した額にはなりません。
 そんなわけで、世田谷区は意外と貧乏なのです。練馬区杉並区なども事情は似ているかもしれませんね。
 その頼みの綱の高額所得者が、ふるさと納税をはじめて区に税金を納めてくれなくなったら……まずいことになるのは理の当然なのでした。
 ふるさと納税をする人は、もちろん豪華な礼物に心を奪われてということもあるでしょうが、自分の暮らしている市や区が、自分の納めている税金ほどには行政サービスをしてくれないと感じてのこともあるでしょう。意識高い系、権利意識のとりわけ強い中間層が多い世田谷区などでは、そう考える住民も少なくなさそうです。
 たいしてなんにもしてくれない区に納めるよりは、眼に見える形で反対給付をくれるふるさと納税をしたほうがましだ……と思っても、無理はありません。また存立も危ぶまれるような田舎の市町村の助けに、自分がなっているという意識も、それなりに甘美なものがあるでしょう。
 そういう人が増えると、現住の市や区は減収となり、さらに行政サービスが低下するはめに陥ります。そして行政サービスが低下すれば、ますますふるさと納税をしたがる住民が増えて……と、絵に描いたような悪循環が生まれることになります。
 世田谷区のようなところで、近年急激にふるさと納税をする人が増えているというのは、すでにこの悪循環にはまってしまっている可能性が高いと思います。そういう自治体が増え、都市部の市や区が財政破綻するようなことになれば、ふるさと納税というシステム自体が禁止されるかもしれません。何事もほどほどにしておきたいものです。

 本来ふるさと納税というのは、過疎が進んで税収もピンチになった地方自治体を救済するため、そこに現住はしていないものの生まれ故郷であるとか、なんらかのゆかりのある人たちから税金を納めて貰えるようにしたのが当初の形であったはずです。
 もちろん、二重に税金を納めたりするのは誰しもイヤですし、そんなことを強いるのも酷だということで、ふるさと納税をした分の住民税は免除になったわけです。
 またはるばる遠方から納税をしてくれた人に対して、自治体が心ばかりのお礼の品を贈ることにしたのも、まあ微笑ましい話題だったと言えましょう。
 が、そんな初心は、たちまち形骸化しました。つまり、ふるさと納税できる人に制限を設けなかったせいで、縁もゆかりもない人からも納税して貰えることになり、それを促すために豪華な礼物を取り揃えてアピールするという、考えてみればかなり本末転倒なことになって行ったのです。
 さすがに行き過ぎだろうというので、礼物を取りやめるところも今年ようやく出てきましたが、その結果がどう出るかは、今年のそこの歳入が明らかになるまではまだわかりません。
 ふるさと納税をするなら、親戚が当該自治体に現住しているとか、かつて住んでいたことがあるとか、なんらかの制限を設けるべきでした。それをしなかったために、地方自治体のほうは礼物の豪華さを競うようなことになり、都会の自治体のほうははっきりと影響が出るほどに税収が減るという、いささか狂騒的な事態になってきています。
 関係者一同、いったん頭を冷やしたほうが良さそうです。

 そもそも、税金とはなんなのでしょうか。
 古くは、領主が領民から取り立てるものでした。人々が社会生活をしてゆくためには、いろんな取り決めや人間関係がからんできます。そういう面倒なことを引き受けてやるから、その対価として年貢を払え、というのがかつてのありかたでした。いちばん面倒なことはおそらく軍事や外交でしょう。「守ってやるから払え」という関係であったというのがいちばん適切だったのではないでしょうか。
 もちろん、必要な経費分だけで済ませる領主などはそうそう居らず、たいていはもっとたくさん取り立てて贅沢な暮らしをしたりしました。ときには本分を忘れてちっとも領民を守らないばかりか、領民にとって害になるような領主も現れ、そうすると人々は一揆を起こしたりして反抗しました。
 やがてその関係は多層化します。小領主は大領主に吸い上げられ、大領主は王とか皇帝とかいう者たちに吸い上げられることになります。フランスなどでは王様に吸い上げられすぎて領地が維持できなくなり、領地と領民を手放して単なる王様の家来になってしまう領主が相次ぎました。これを絶対王政と言います。
 しかしそのフランスで、いちはやく王様が潰され、共和制というものがはじまりました。
 共和制における税金とは、かつての領主に納める税金とは少々性質が違います。言ってみれば「会費」みたいなものです。市民社会という「会」を運営するために徴収される「会費」、と考えればわかりやすいと思います。
 さらに近代に至ると、その「会費」も強制徴収となって、自主的に出しているというよりも「取られている」感覚が強まってきました。この場合、どう考えれば良いのか。
 私が税金について、眼からウロコが落ちた気分になったのは、変な話ですが内田百『阿房列車』を読んでいたときでした。『第三阿房列車』所収の「列車寝台の猿」の中に、次のような文章があります。

 ──鳥栖に停まつた時、車内放送で大雨警報が出てゐると知らせた。おやおや、これでは行く先がどうなるかわからない。
 「大変だね」
 「まあいいです」
 「尤も汽車が水浸しにならない限り、我我は別に急ぐわけではないから、車内にかうしてゐる分には、ちつとも構はないが」
 「東京駅で急行券の払ひ戻しと云ふ事になりませんかね」
 「そいつは難有い。大分儲かるね」
 「いくらだつたでせう。ええと」
 「博多からは又一等だから、二人分の急行税は相当なもんだ」
 「急行税ですつて」
 山系は若いから、急行税と云ふ言葉を使ひ馴れないだらう。さう云へば郵税もいつの間にか郵便料金と変つてゐる。今に世の中がもつと民主主義的になると、税と云ふ言葉の感じは人民に失礼であるから、所得税などと云はず、所得料金と称する事になるに違ひない。──


 驚くべし、急行料金はかつて「急行税」と呼ばれていたのでした。郵便料金を「郵税」というのは私もなんとなく知っていた記憶があります。要するに昔は、国庫に入るお金はすべて「税」だったのでしょう。現在では国鉄郵便局も民営化されて、その収入は国庫には入りませんので、税とは呼べません。
 それはともかく、私が蒙を啓かれたのは、「税」は「料金」という言葉に置き換えることができるのだという点でした。上の文章は60年ほど前のもので、いまだに所得税は所得料金ということにはなっていませんが、なるほど「所得料金」と考えると「所得税」というものの正体がうっすら見えるような気がします。「消費税」はもっとわかりやすいかもしれません。「消費料金」──消費するための料金、と思えば、その存在や税率が妥当であるかどうかはともかく、どういう意味で払わなければならないのか見当がつけやすいでしょう。
 国や自治体に払う「料金」こそが「税」なのです。国や自治体が用意したインフラ、水道管や電信柱から消防団、警察に至るまで、そういったものを使用するための料金と考えれば、まあ払うのも仕方がないか、という気分になるでしょう。つまりは、納めた税金分の行政サービスが受けられないと感じれば、住民は怒っても良いことになります。
 その一方で、実際に住んでいる市や区に納めるべき税(料金)を、行ったことも無い村に献上するというのは、やはり何かちょっと違うのではないか、という気もしてきます。
 普通に寄付金として、その分の控除を受けられるようにしておいたほうが、変な加熱もせずに穏当に済むのではないでしょうか。

(2017.2.25.)

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