忘れ得ぬことどもII

6.春光山陽特別阿房列車

 昭和27年7月『阿房列車』の単行本が刊行されて以来、内田百の鉄道好きは広く世に知られました。同年10月の国鉄80周年記念イベントで名誉東京駅長に選ばれたのもそのためでしょう。そして、翌28年3月山陽本線を走る新しい特急の処女運転に招待されたというのも、『阿房列車』の売れ行きの余徳だったでしょうか。
 この特急の愛称は「かもめ」。戦後3番目の特急であり、京都博多のあいだを走りました。
 戦前の超特急「燕」は、好評につきすぐにセクショントレインが設定されました。「臨時燕」のちに「不定期燕」と呼ばれた列車です。当時の特急はきわめて格が高く、庶民がおいそれと乗れる列車ではなかったのですが、それでもそれまでの「富士」「櫻」の所要時間を一挙に縮めて、東京〜大阪を8時間で走り抜けたことで、利用誘発効果が現れたのだと思います。「不定期燕」はほとんど定期運転みたいなことになりましたが、それでも足りず、姉妹列車が投入されました。それが「鴎」です。
 「鴎」は残念ながら「燕」より20分ばかり余計に所要時間がかかったようですが、それでも「富士」「櫻」に較べてずっと速く、超特急のひとつとして受け取られました。
 戦後になって、「つばめ」に続き「かもめ」も復活することになり、いよいよ鉄道の復興が人々に印象づけられたのだと思います。
 もっとも百閧ヘ、ここでもいろいろと文句をつけています。曰く、新しい特急に使い古しの名前を持ち出さなくても良かったろう。曰く、戦前はつばメとかもメと韻を踏んだ特急が同じ区間を走る姉妹列車だったから意味があったので、今回は走行区間が違うから無意味である。曰く、山陽本線で海に面して走るところなどはあんまり無いので「かもめ」は不適当。いっそ山のカラスを驚かして走る「からす」とでもすれば良かったのに。
 まあ、鉄道マニアというのは、鉄道で何か新しいことがはじまると、なんだかんだと文句をつけるのがお約束であって、いわば嬉しさの裏返しみたいなものです。いつも怖い顔をしているような内田百閧ェ、近年の鉄ちゃんとほぼ同じ言動をとっていることに、微笑を禁じ得ません。

 さて、その「かもめ」の処女運転に百閧ニヒマラヤ山系君が招待されたわけですが、百閧ヘ必ずしも喜んでいない様子です。つまり、招待してくれただけで放っておいてくれればそれで良いのだが、そうはゆかないだろうというのが憂鬱なのでした。招待されているのは自分たちだけではなく、おそらく各界の名士が招かれているでしょう。中には知っている人や半知りの人も少なくないでしょうから、知らん顔をしているわけにもゆかず、いろいろと気を遣いそうです。また新聞記者なども乗っていて構いに来るに違いありません。そういったことを先回りして考え、自分から萎えてしまうのが百閧ニいう人でした。
 いっそのこと初乗りを諦めて、招待を断るべきか。
 それに考えてみると、百閧ヘともかく、ヒマラヤ山系君を招待するというのはおかしな話です。というのは、山系君こと平山三郎氏は、れっきとした国鉄職員で、しかもちっともえらくありません。いわば身内の下っ端をそんな場に招待するなぞ、国鉄は何を考えているのかと百閧ヘ憤慨するのでした。
 当時、国鉄職員は国鉄のフリーパスを持っていましたが、平山氏くらいの身分だと三等車にしか乗れません。出張の手続きをすれば二等車に乗ることはできたようですが、一等車には近寄ることもできなかったのです。それを考えれば、百閧フお伴でしばしば一等車に乗せて貰ったヒマラヤ山系君は、果報者と言わざるを得ません。
 新しい特急列車の処女運転に招待されるのだから、当然一等車に乗るのだろうと百閧ヘ考えたようです。国鉄職員である者を、国鉄が一等車に招待するとは、どう考えても筋が通りません。百閧ヘ筋の通らないことが我慢ならないたちでした。
 ところが、蓋を開けてみると、「かもめ」には一等車が連結されないことになっていました。
 そんな貧相な特別急行があるか、と百閧ヘあきれるのですが、先例はあります。戦前の「櫻」は一等車が無いどころか、三等車だけで編成された特急だったのです。途中から二等車も連結されましたが。
 「富士」が一・二等車だけで編成された「日本の顔」みたいな豪華特急だったのに較べ、「櫻」はあえて庶民派を狙ったわけです。もちろん特急料金は高く、庶民と言っても中産階級あたりが対象だったでしょうが。食堂車も「富士」は洋食、「櫻」は和食でした。
 だから一等車の無い特急と言っても、特別に貧相なわけではありません。
 そうとわかった途端、百閧フいろいろなこだわりが溶けて流れ、そんなことならありがたく招待を受けよう、ということに落ち着いたのでした。山系君も出張の一環と考えれば、二等車にタダで乗るくらい問題は無いでしょう。

 「かもめ」は京都発着の特急ですから、まず京都まで行かなければなりません。百閧スちは、夜行急行「銀河」の一等個室寝台で京都へ向かうことにしました。招待客には京都までの交通費も支給されたのではないかと思うのですが、一等個室寝台に乗れるほどの額だったかどうかは微妙です。二等車への招待なので、交通費も二等車相当の額だったのではないでしょうか。
 「銀河」は息の長い急行でした。昭和24年1949年)、戦後初の特急「へいわ」が走り出したと同時に早くも愛称名が与えられ、つい最近(2008年)まで走り続けていました。一貫して東京大阪間を走り、そして特急に格上げされることなく最後まで急行のままでした。頑固な下士官か職人みたいな列車です。時代を隔てた内田百閧ニ私が、共に乗ったことのある列車は唯一「銀河」だけでしょう。
 このときからしばらく後で、百閧フ親友である宮城道雄が、「銀河」のデッキから振り落とされるという事故で命を落としたことも想起されます。生前の宮城は「銀河」がお気に入りで、関西に行くときには決まって利用していたそうです。
 「銀河」が廃止されたのは、JR東海で機関車を運転できる人が定年退職してしまったためと聞きますが、東京・大阪間の夜行列車は、夜行バスの繁盛ぶりを見ても明らかに必要だと思います。「サンライズ」のように電車化して残すことはできなかったのだろうかといまでも惜しんでいます。
 「銀河」は当初から最後尾に、美しい天の川をあしらった電飾ヘッドマークをつけていたそうで、宮城道雄はそのこともたいへん気に入っていたようです。もちろん宮城は眼が見えないので自分で見ることはできませんが、お付きの人から教えて貰ったのでしょう。そんな素敵なヘッドマークをつけた列車に自分が乗っていると考えただけでも楽しかったらしいのです。
 で、百閧烽アのとき、そのヘッドマークを見に、見送りに来た見送亭夢袋氏も伴って、列車の最後尾までえっちらおっちらと歩いて行ったのですが、残念ながらこの夜はヘッドマークがついていなかったそうです。

 当時の「銀河」の京都着は6時40分過ぎくらいだったようで、通常の百閧ネら寝入って、最初のレム睡眠になるあたりです。そんな時間に起きなければならなかったので、基本的に不機嫌です。
 そのうちに集まって来るであろう招待客と挨拶したりするのが面倒くさいので、百閧スちは駅を逃げ出し、「かもめ」の発車時刻が近づくまでタクシーでそのあたりを見物して廻ることにします。最初百閧ヘ、動物園に行きたいようなことを言うのですが、こんな早朝では開いているわけがありません。なお動物園に行きたい話はその後何回か出てきます。「隧道の白百合・四国阿房列車」でもそんなことを言いつつ、体調を崩してこのときも行けませんでした。「菅田庵の狐・松江阿房列車」でようやく念願かなって天王寺動物園に立ち寄るのですが、そんなに何度も行きたがっていたわりには、いかにもつまらなそうで、なぜそんなに動物園にこだわったのか不思議に思います。
 タクシーの運転手にも、目的地を訊かれて「どこでもいい」などと答えているので、運転手も困ったことでしょう。京都御所平安神宮に立ち寄り、あとはぐるぐるとそのあたりを走っていたようです。

 京都駅に戻って、8時30分、いよいよ「かもめ」の初運転がはじまります。京都駅の駅員たちはもとより、保線区の職員たちも、そこらじゅうから集まってきて手を振ります。新しい特急の運転が、関係者にとってはそれほど嬉しいことだったのかと、自分の不機嫌さをちょっと反省する百閧ナした。
 大阪駅も大変な混雑で、報道陣を含めた物見高い人たちが、新しい特急列車をひと目見ようと集まってきていました。その報道陣の一部は車室に入ってきて、百閧フところにも何人もインタビューしに来ます。そのことは覚悟していたので、不得要領に応対します。
 大阪の次は三ノ宮に停車しますが、神戸には停車しません。よそ者にはわかりづらいのですが、神戸駅よりも三ノ宮駅のほうが、諸官庁や繁華街に近く、乗降人数もずっと多いので、神戸市の事実上の中心駅と見なされています。確か最初期の新快速も、神戸駅を通過していました。
 ただ「かもめ」が走り出したこの時期は、まだ神戸駅のほうにも賑わいがあったのと、何より東海道線の終点・山陽線の起点という誇りが残っていたため、こっちにも特急を停めろという運動がかなりやかましかったようです。それで、下り列車は三ノ宮停車で神戸通過、上り列車は神戸停車で三ノ宮通過ということにしていたそうです。
 百閧ヘそれについて考察し、やはり神戸駅を通過するのはよろしくないと思ったようです。と言って両方停めるとなると、特急たるものがそんなにちょくちょく停車するのも望ましくない(いまのJR特急に聞かせたい話です)というわけで、奇想天外な提案をするのでした。
 三ノ宮と神戸をひとつのプラットフォームでつなぎ、同じ駅にしてしまう。片方を三ノ宮口、片方を神戸口にすれば、どちらの駅に停めるかでもめなくとも良い。
 さらに気宇壮大に話が拡がります。
 東京大阪間の輸送力が不足しているなら、東京と大阪を同じようにひとつのプラットフォームでつなぐ。そうすると、列車に乗る必要もなく、ただプラットフォームを伝って行けば大阪に着いてしまう。
 こんな壮大な話ではありませんが、地下鉄の乗り換え駅のことなど考えると、百閧フこの提案を思い出してしまいます。前もどこかで例に出しましたが、メトロ丸ノ内線淡路町と、メトロ千代田線新御茶ノ水という、全然別の駅だったものが、都営新宿線小川町駅ができたことで、小川町駅のコンコースを介した乗り換え駅となってしまうといったたぐいです。別々の駅を、駅そのものでつないでしまうというのは、期せずして百閧フ発想と似てはいないでしょうか。

 故郷である岡山では、あえて車内にとどまっていたら、旧友の「真さん」が窓を叩いて「栄あん、栄あん」と百閧呼ぶのでした。それこそ竹馬の友の「岡崎屋の真さん」こと岡崎真一郎氏でした。随筆にもよく登場しますし、阿房列車でもこの後、何度か岡山駅のプラットフォームで百閧ニ会うことになります。
 岡山を出ると、広島まで無停車で、この当時日本最長の無停車区間だったそうです。蒸気機関車の場合、給水や給炭の必要があるので、無停車で走るには限りがあります。岡山広島間くらいが限界だったのでしょう。
 小郡(現新山口)に停車するのも給水のためだったそうですが、客扱いをしたのか、客扱いをしない運転停車だったのかわかりません。
 あとは下関・門司・小倉に停車して博多に着きます。この3駅は連続停車で、三ノ宮と神戸の両方に停まるのが特急の立場上よろしくないと考える立場から言えば停まり過ぎな気がしますが、関門トンネルをくぐるためには電気機関車に付け替える必要があり、その連結解放のために、下関と門司にはどうしても連続停車せざるを得なかったのでした。また小倉は北九州(豊前)地域の中心的な駅ですので停まらないわけにはゆきません。
 山陽本線や鹿児島本線が全線電化したあとは、関門トンネルで機関車を付け替える必要は無くなったわけですが、この3駅の連続停車の伝統はずっと残りました。かろうじて門司を通過する寝台特急が、ごく短期間存在したくらいです。
 陽が暮れて、博多に到着しました。覚悟していたとはいえ、車中ひっきりなしに取材を受けたりして、百閧フ機嫌は良くありません。下りてからも「乗車のご感想は」等々と訊いてくる記者がひきもきらず、ほとほと疲れ果てた様子です。記念の晩餐会も失礼して、出迎えてくれた昔の学生と一緒に、早々に博多駅を逃げ出しました。
 ところが、逃げ出した先のホテルまで記者が追いかけてきました。会社に戻ったら、もう少し要領を得たインタビューをしてこいと叱られたとか。
 百閧ヘ二言三言話したのち、ついに精根尽き果て、

 ──僕は君が何と書いても文句を云はないから、僕が云つたという事にして構はないから、そつちで書いてくれたまへ

 と丸投げしてしまいました。丸投げされた記者がどう書いたかを、平山三郎氏が旺文社文庫の解題で紹介しています。

 ──十五日夕京都から山陽特急かもめを迎えてわき返る博多駅の人並みをかきわけながら降り立った試乗者に混って作家内田百闔≠ェふらりと来福。○汽車を愛すること子供以上の百闔≠セがこの日はいたく御きげんナナメの体。御招待で来たが疲れた、と多数歓迎陣に囲まれて御満悦の天坊国鉄副総裁の表情と好一対。○「かもめの乗り心地? 他の汽車と比べて取りたてていうこともないさ。しいて感想が必要なら適当に書いてもらって結構」と持ち前の毒舌をちょッぴり。

 さて、このときのことを記した「春光山陽特別阿房列車」は、ここで終わりではありません。翌朝の急行「きりしま」に乗って、お気に入りの八代まで足を伸ばすのです。
 途中停車駅が記してあります。鳥栖久留米大牟田熊本。現在の九州新幹線の駅よりも少ないようです。
 八代駅まで、松浜軒の仲居さんである御当地さんが出迎えにきてくれていました。もうひとり連れが居て、百閧ヘふたりまとめて「もとじまさんと御当地さん」と認識していましたが、どちらがどちらだかわかりません。御当地さんが名乗って、もとじまさんが転職したことを伝えると、はじめてもうひとりが知らない人であったことに気づいたというのです。私も人の顔を憶えるのが苦手なほうなので、わからないでもありません。
 油紙女史も他へ移って、古株である御当地さんが新しく入った仲居さんの教育を受け持っているというわけで、油紙女史の後を継いで仲居頭になった感じであったようです。一緒に居たのはその新しい仲居さんのひとりでした。
 この日、松浜軒には珍しく他の客が居ました。と言っても宿泊客ではなく、幼稚園のPTAの宴会でした。
 ビジネスホテルは別ですが、地方の宿屋というのは、宿泊客よりもそういう宴会などで稼ぐ部分が多いそうです。それを言えば都会のホテルも、結婚式とか宴会の収入のほうが大きいと言いますから、全体的な傾向なのでしょう。松浜軒に百閧ェ泊まったときに、泊まりの相客が居たことは、いちども無かったようです。
 宴会は20時までという話でしたが、百閧ヘ、とてもそんな時間には終わるまいと読んでいます。御当地さんは、ひとりお銚子一本だけなのだからそう遅くはならないと説明したのですけれども、そうなると飲まない人の分が飲み助のところに集まり、飲み助のひとりあたりにすればかなりの分量になるはずだというのが百閧フ推測でした。果たして散会になったのは23時近くだったとか。百閧スちはそれまで階上の座敷で飲んでおり、宴会が済んでから下の座敷に移って寝た、とあります。何も宴会をしていた座敷で寝たわけではないのでしょうが、たぶん宴会が終わらないとうるさかったということなのだと思います。

 1泊して、翌朝は晴れていたので庭園を散歩して、ますます気に入ったようです。わずか3ヶ月後に、また来ることになるのです。
 帰りは「鹿児島阿房列車」のときと同じく、また「きりしま」一本です。同じように博多までは二等車、博多で連結される一等個室に乗り換え、食堂車へ行って(この前の反省を踏まえ、九州担当と本州担当の食堂乗務員が交代してから出かけたでしょうが)一献し、個室に戻って眠った……という次第が坦々と書かれています。
 朝起きてからは、個室にこもっているとうっとうしいので、一等座席車に移って坐っていたとのこと。このあたりを見ても、一等席は指定席ではなかったことが推察されます。さすがに寝台は指定制だったでしょうが。
 途中、静岡でヒマラヤ山系君の後輩の「蝙蝠傘(こうもりがさ)君」に土産物を渡したというくだりで、ぽつんと切れるように「春光山陽特別阿房列車」は終わっています。
 さんざん気疲れしてしまった「かもめ」初乗りでしたが、のちにゆっくり乗り直すということはしていないようです。京都発8時30分では、朝寝坊な百閧ニしてはとても乗る気になれなかったのでしょう。寝台急行から乗り継ぎという強行軍も、この一度で懲りたのだと思われます。また、いくら特急だとはいえ、二等車に好んで乗る気もなかったのかもしれません。同じ区間、一等車を連結した急行は何本も走っているのです。要するに山陽特急「かもめ」は、百閧ニはあまり縁がなかったと言わざるを得ないでしょう。

(2017.5.19.)

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