忘れ得ぬことどもII

12.興津阿房列車

 「時雨の清見潟・興津阿房列車」というのは、内田百『阿房列車』シリーズの中では異色というか、番外編みたいなものになっています。百闔ゥ身も、

 ──人が待つてゐる所に行くのに乗つた汽車が阿房列車だと云ふ事はない。

 と冒頭に書いています。
 国鉄の静岡管理局の部内誌でその名も「しずおか」という雑誌の、新年号に載せる対談を、「区間阿房列車」以来の百閧ィ気に入りの水口屋で開催するために、興津まで列車で行くというだけのことで、無目的が看板の阿房列車の概念からは外れるようです。しかし、隣の座席にヒマラヤ山系君が坐り、見送亭夢袋氏に見送られる光景はやっぱり阿房列車っぽい、ということで、まさに番外編としてシリーズに加えたものなのでした。掲載紙も一般雑誌ではなく、その名も「国鉄」という国鉄の局内誌でした。だから国鉄職員以外の眼に触れたのは単行本『禁客寺』が初出です。
 旅程としても1泊だけで、「特別阿房列車」と並んでシリーズ中最短です。章立ても「上」「下」と分かれているだけで、原稿枚数も最少でしょう。
 そんなわけで、私の探訪も短いものになりそうです。本当は前の「菅田庵の狐」か後の「列車寝台の猿」を扱った項目に一緒にしてしまいたかったのですが、その2篇は旅程も原稿枚数もかなり長くて、「時雨の清見潟」をうまくまぎれ込ませる余地がありませんでした。この「追想」シリーズでも番外編みたいなことになるかもしれません。

 興津行きは「菅田庵の狐」と同じく昭和29年の11月のことでした。前の篇ではなんだかお疲れのようでしたが、半月ほどを経た興津行きではすこぶる元気です。長崎行き急行「雲仙」で東京を出発します。
 長崎行きの長い道程のはじめのところをちぎって、由比や興津へ行くために「雲仙」に乗ったことが二三度ある……と百閧ヘ書いています。その二三度については百閧ヘ阿房列車はもとより、他の随筆でも触れていません。創作短篇「由比駅」の存在などで窺われる程度です。近場でもあるし、阿房列車以外で何度か訪れ、その都度水口屋に泊まっていたものと思われます。ヒマラヤ山系君が同行しないこともあったでしょう。
 かなり前に、百閧フことを扱ったテレビ番組で、当時水口屋の仲居さんだったという人が登場してインタビューを受けていましたが、阿房列車のシリーズ内での2回ばかりの投宿だけでなく、もっと幾度も訪れたお得意様という感じで百閧フことを語っていました。
 つまりここの「二三度」は、百閧ニ水口屋の関係を推測する上で、けっこう重要な語句と言えます。何しろ最初に泊まった「区間阿房列車」では鈍行列車で興津まで行っているわけで、「時雨の清見潟」が書かれるまでのあいだに少なくとも2回、「雲仙」に乗って行ったという証言になるのですから。
 ちなみに「区間阿房列車」の旅は昭和26年3月です。「時雨の清見潟」で水口屋に行ったのは、少なくとも4回目、もしかしたら5回目であったことになり、3年半あまりのあいだに同じ宿屋にそれだけ訪れているのであれば、確かに「お得意様」でしょう。

 ちなみに水口屋は、江戸時代に脇本陣、つまり参勤交代の途上で大名一行が泊まる宿として栄えました。大名本人は本陣に泊まるのですが、同行する家臣たちは、殿様の身の回りの世話をする担当の者以外は脇本陣に泊まります。つまり格式と伝統を備えた宿で、明治以後も多くの著名人や文人が訪れました。変に脇本陣のプライドにこだわらず、一般客向けの宿屋にシフトチェンジできたのが良かったのでしょう。
 明治の元勲のひとりである後藤象二郎が水口屋を好み、さらに井上馨西園寺公望がこの近くに別荘を建てたりして、彼らを訪問する政治家たちが泊まることも多くなりました。文人としては、夏目漱石正宗白鳥高山樗牛志賀直哉などが立ち寄っています。漱石が来たことがあるというだけでも、漱石崇拝者の百閧ノとってはお気に入りとなる資格があったと言えるでしょう。
 そんなこんなで高級化してしまい、昭和32年には昭和天皇香淳皇后両陛下の御座所になったものの、やがて興津の海岸が港湾工事で埋め立てられて景観が変わってしまいました。訪れる人も減り、その中でもなんとか営業を続けていましたが、昭和60年にとうとう営業を終了したのでした。現在は「水口屋ギャラリー」となって、訪れた名士たちの手跡や写真などを見られるようになっています。百閧フことも扱われているか、いちど訊ねてみたいと思っています。
 興津にある「駿河健康ランド」で宿泊したとき、たまたま日の出を見て感動したことがあります。一緒に居たマダムが
 「モネの絵みたい。モネってここに来たことがあるんじゃないの?」
 と思わず呟いたほどの美しさでした。海岸の様子こそ港湾工事と護岸工事で台無しになっていましたが、工事前はさぞかし美しい景色だったのではないかと想像されました。

 急行「雲仙」は、東京を出ると、品川・横浜・大船・小田原・熱海・沼津・富士に停まって静岡に着いたそうです。いまの感覚だと妥当な停車駅だと思うのですが、百閧ゥらすると停まりすぎだったようで、

 ──君子ハ左顧右眄セヌさうだから、急行雲仙は君子ではないのだらう。

 などと悪口を言っています。「左顧右眄」はしきりにあちこち眼をやること、転じて政策などに定見のないことを表す熟語ですが、「右顧左眄」と言う人のほうが多いかもしれません。私の使っているATOKではどちらも一発で変換できました。
 車内は暖房が利きすぎて暑かったそうですが、そういうときに窓を開けるのは、二等車以上では不作法な振る舞いとされたようです。そこへ車内販売でアイスクリームを売りに来たので、たいへん売れ行きが良かったとか。百閧ニ山系君も、ふたりで3つ買い、百閧ェふたつ食べました。阿房列車では他でもアイスクリームを食べるシーンがありますが、百閧ヘたいてい二人前食べているようです。あるときなど山系君のために全部で3個買っておいたら、山系君が要らないというので3個みんな食べたこともあります。食べ終えたら頭がガンガンと痛くなったそうです。それはそうでしょう。ともあれアイスクリームは百閧フ好物のひとつであったようです。
 「雲仙」は興津には停まりません。静岡まで行って対談相手の総務部長はじめ静岡管理局の人たちと会い、一緒に水口屋に向かうのでした。百閧ニしては普通列車に3駅乗るつもりだったのでしょうが、クルマで行くことになります。管理局のえらい人たちは普通列車に乗る気がしなかったのかもしれません。

 静岡の管理局では、「蝙蝠傘(こうもりがさ)君」というのが何度か登場しています。「区間阿房列車」でヒマラヤ山系君が静岡駅で訪ねて会えなかった友人がこの人で、その後「春光山陽特別阿房列車」の帰途では山系君からお土産のタヌキのコマを貰い、「雷九州阿房列車」では百閧ゥら蝙蝠傘をプレゼントされ、「隧道の白百合」では帰途の「つばめ」が静岡に停車しないのでわざわざ停車駅の沼津まで出向いてふたりを迎えています。
 蝙蝠傘君は、ヒマラヤ山系こと平山三郎氏の後輩の永田博氏のことでした。やはり百閧フ大ファンで、しかも非常にひたむきなファンだったようで、百閧ノも愛されたらしく、後期の百鬼園随筆「ヒマラヤ水系」「類猿人──蝙蝠傘物語」などでは主人公にもなっています。ただし永田氏のことをなぜ蝙蝠傘君と呼んだのかは、最後まで明かされませんでした。文中のさまざまなあだ名について解説している平山氏も、蝙蝠傘君については語っていません。知らなかったわけではなく、「本人にとって愉快なあだ名とは思えない」ようなことを書いているのを見た気がします。
 百閧ゥら貰った蝙蝠傘は、雨の日に使うと傷むので使わなかったそうです。これには百閧烽きれて、「雷九州阿房列車」の中でずいぶん紙数を費やしてじれったがっています。百閧フ死後、追悼の席で誰かに
 「例の蝙蝠傘はどうした?」
 と訊かれ、永田氏は答えました。
 「大切にしまってありますよ。だって、あれはぼくの宝物ですから……」
 その答えを聞いて、しばし座がしんと静まったと言います。
 山系君のさらに後輩ですから、この当時はまだペーペーのヒラ職員だったのでしょう。しかし座談会をコーディネイトしたのはたぶん彼で、いろいろ雑用をこなすために水口屋にも同行しています。

 クルマで水口屋に向かう途中、三保の松原を見物します。有名な景勝ですが、海の側から観るのが本来の愉しみかたで、松原の中に入ってしまってはそれほど面白くありません。百閧ヘ由比の海岸から何度も眺めていたので、現地にいちど行ってみたいと思っていたらしいのですが、案の定大したことはなかったようです。「三保ノ松原にも天女の霊にも済まなかつた」と反省しています。
 しかし、同じ道中、水口屋に近い西園寺公望の別邸「坐漁荘」を見学に行ったときは、一転して冷淡です。百閧ヘ旅先で、自然の景観にはある程度心を動かされることがありますが、

 ──遺跡とか名所旧跡とか云ふものに対して、私は不感であるのみならず、どうかすると反感をいだく様である。

 と自認しています。かと言って水口屋なり松浜軒なりの輪奐の美にそれなりに感じ入っているところを見ると、必ずしも自然が好きで人工物が嫌いとも言いきれません。要するに、かなり面倒くさい人だということですね。歴史を「感じさせる」建造物は良いけれども、歴史を「押しつけてくる」建造物は嫌いだというところでしょうか。
 このときは水口屋も改装していたそうで、百閧ヘ憮然としています。前の古ぼけた離れの座敷から海を眺めるのが好きだったようです。

 対談は、総務部長の堀口峯雄氏が水を向けて、百閧ェしゃべりまくるみたいな雰囲気であったようです。「百鬼園先生正月噺」と題されたこの対談、部内誌「しずおか」に掲載されたのち、旺文社文庫『百鬼園先生よもやま話』という戦後の対談・座談を集めた本に抄録されましたが、こちらも旺文社文庫の消滅に伴って絶版状態なので、現在読める手段はなかなか無いかもしれません。
 『よもやま話』に抄録されている範囲では、百閧ヘタバコ、飛行機、それに汽車の想い出話や国鉄への要望などをいろいろ語っていますが、実は「時雨の清見潟」という1篇にとって肝心なのは、オフレコの部分でした。百閧ヘかつて伊藤博文が、自宅近くの大磯駅に急行を停めさせて乗り込んだというエピソードを持ち出し、
 「ぼくもそうしたいので、明日の急行列車を興津に停めてください。それに乗って東京へ帰ります」
 と管理局の面々に頼んだのです。もちろんお酒の席での軽口で、相手がたも苦笑してその場は済ませたようですが、ここがキモなのであって、これが無ければわざわざ興津行きの稿を阿房列車として書くこともなかったでしょう。
 というのは翌日、普通列車で静岡まで出て急行「きりしま」に乗って帰京するという、「区間阿房列車」のときと同じような旅程を立てていたのですが、時ならぬ雨と強風のため、ダイヤが乱れまくっていたのでした。
 そのため、急行列車もなかなか進むことができず、駅ごとに長時間停車しています。
 そのおかげで、百閧ェ静岡から乗るつもりだった「きりしま」が、興津駅でしばらく停車するはめになり、期せずして百閧ヘ伊藤博文と同じように、本来急行の停車しない駅から急行列車に乗り込んで堂々東京へ向かうことができ、その天の配剤に狂喜するのです。列車の順序と時刻を較べ合わせて、「きりしま」が興津で停車するのではないかと推理したときの百閧フドヤ顔が眼に浮かぶようです。
 この「奇蹟」があったから、対談という「用事」のための興津行きが、番外編っぽくはありますが阿房列車の1篇として加えられることになったのでした。百閧ヘこの奇蹟のことを、何がなんでも随筆として書いておきたかったのに違いありません。
 もちろん、いまの列車ではそんなことはできません。自動ドアですから、本来停車しない駅でアクシデントのため臨時停車したとしても、ドアを開けずに待っているはずです。手動のドアの時代だったからこそできたことでした。
 客車列車の手動のドアが無くなったのはいつ頃だったでしょうか。私の学生時代である1980年代にまだあったのは確かで、車内が暑苦しくてデッキに出て扉を開け放って涼んでいた経験があります。さすがにそういうところを車掌に見つかると叱られたのですが。
 走行中に開けられる扉など危険なので、客車列車の扉もだんだん自動ドアになって行ったのですが、手動時代だってそうしょっちゅう事故が起こっていたわけでもありません。慣れの問題です。宮城道雄が転落死した事故などもありましたが、それもかなり不運な偶然が積み重なった結果であることが検証されています。
 まあ、走行中の扉が開けられるかどうかなどはどうでも良いことではありますけれども、百閧ェ臨時停車中の急行に乗り込んだような楽しいことが決してできなくなったというのも、それはそれで寂しくはあります。

 強風で富士川の鉄橋が通れず、「きりしま」が動き出すにはまだしばらくの時間がかかりました。
 ようやく動き出したと思ったら、次の由比駅でも臨時停車し、ここでも長いこと動きませんでした。
 そのうち陽が暮れてきたので、百閧スちは食堂車へ行きます。お酒をくみ交わしはじめれば、もう列車が動かないことなど気にならなくなり、ふと気づくと富士川を渡っていたのでした。そこからは順調に走ったと思うのですが、東京着は何時になったことでしょうか。
 現在のJRでは、特急や急行(定期列車は全滅しましたが、臨時列車でまだときどき走ります)が2時間以上延着した場合は、特急料金や急行料金が返金されます。これは国鉄時代も同様でしたが、阿房列車の頃がどうだったかはわかりません。
 1時間くらい遅れることは昔はよくあったのですが、2時間となると滅多に無く、宮脇俊三氏などもこの返金を受けたことは無かったようです。私はいちどだけあります。かつての最長昼行特急「白鳥」に、大阪青森の全区間乗った際、途中の新潟県内で豪雨に行き当たり、2時間半くらい遅れたのでした。私はそのとき札幌行き急行「はまなす」に乗り継ぐことになっていて、その「はまなす」は殊勝にも「白鳥」の到着を待っていてくれたのでしたが、乗り継ぎ客が乗り込んだらすぐに発車というあわただしさで、青森では返金の手続きがとれませんでした。翌朝札幌に着いてから手続きして、「白鳥」の特急料金を返して貰ったのでした。
 料金返金の話は、次の「列車寝台の猿」で出てきますが、もしかすると「時雨の清見潟」のときも返して貰ったかもしれません。

(2017.5.25.)

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