忘れ得ぬことどもII

大きな数

 自然科学系の本もけっこう読んでいるのですが、前にも書いたとおり、私の興味はわりと浮世離れしたところに偏っています。数学であれば無限論とか整数論、物理学であれば高次元の話とか素粒子の話、生物学であればできるだけ変な生き物の生態の話などが好きで、残念ながら高校までの授業で扱うような分野とはかけ離れていたため、学校時代の理数系の成績は芳しくありませんでした。
 大きな桁の話などを、ぼんやりと考えるのも悪くありません。
 数詞としていちばん大きいのは(ごく)であると、子供の頃何かで読みました。その後、極よりもっと大きい単位もあって、最大が「無量大数」であると知りました。10の68乗とされていますが、88乗という考えかたもあるようです。それにしても単位として「3無量大数」「150無量大数」などと使うのはちょっとイメージが違う気がします。無限大(∞)とは意味が違いますが、つまりは「量ることもできない大きな数」ということなので、事実上は無限大と言って良い数詞なのかもしれません。
 一、十、百、千、万までは漢字文化圏では古代から同じ数字を表しています。万の旧字は「萬」で、これはサソリの象形文字らしいのですが、サソリを大きな数の名前に借用した理由はよくわかっていないようです。日本語では「よろず」が万にあたりますが、和語の数詞としてはこれが最大だったかもしれません。八百万(やおよろず)となると古代日本ではほとんど無限大を意味したに違いありません。

 中国ではもっと多くの数を表す数詞が必要でした。何しろ戦国時代ころに、すでに10万を超える軍勢が成立したりしていたわけなので。
 古書に現れる「億」は、十万のことでした。万の万倍を表すようになるのは代以降であるようです。漢代に中華帝国の人口は1億を超えたので、位取りを変える必要があったのでしょう。ただ、「億の万倍」が次の「兆」になるという数えかたと、「億の億倍」が兆になる数えかた(上数)がしばらくは混在していました。上数によれば、億の万倍は万億となり、さらに十万億、百万億、千万億と進んでようやく兆になります。現在の「京」と同じですね。
 億以上の数詞などというものは、当時の実生活ではほとんど必要が無かったでしょう。ただ仏教が入ってくると、やたらと大きな数が経典に次々と出てくるため、それを訳すためには大きな数の名前が必要になったのではないでしょうか。兆という言葉は「百万」の意味で古代にも使われていましたが、それ以上の数詞は仏教に伴って作られたのではないかと私は考えています。
 なお、「億」は「心いっぱいに数える」という意味だそうで、つまり本来は「人間の考え得るもっとも大きな数」を表していたと考えられます。また「兆」は「占いに使う亀の甲に入ったひびわれ」の象形で、「きざし」を意味します。これが数詞に借用された理由は「萬」と同じくよくわからないようですが、億より大きい数ということで、「人智の及ばないほどに大きな数」というつもりで用いられたのかもしれません。

 漢字の数詞はこの先、(がい)、(じょ、実際は禾偏)、(じょう)、(こう)、(かん)、(せい)、(さい)と進んで極となります。なお現代の中国ではこれらは使われていないそうです。
 上記の「上数」の数えかたは、万の2乗が億、億の2乗が兆、兆の2乗が京となるので、極までゆくととてつもない桁数になります。しかし上数で用いられたのはせいぜい京くらいまでだったようです。
 現代の万進法に落ち着いたのは意外と新しく、日本でも17世紀くらいのことでした。和算書「塵劫記」の初版ではまだ万万進法あるいは億進法が用いられていたそうです。1631年の第何版かでようやく万進法に統一されました。ただし、このときもまだ、極より大きな桁は万万進法になっていたそうです。
 現代日本で暮らしていても、兆より大きな数詞にお目にかかることは滅多にありません。国家予算が何十兆円という単位です。国の借金(借方)はかれこれ1000兆円に達するようですから、もしかすると近いうちに「京円」単位が使われるかもしれません。
 しかし「京」という数詞は、スーパーコンピュータの愛称になりましたので、わりと親しまれているのではないでしょうか。あれを「京都」とか「京都大学」の京と勘違いしている人も多そうですが、演算装置の能力が1秒間に1京回の演算を可能とするものであることからの命名です。
 垓となるとますます馴染みがなくなりますが、かつて発行された紙幣のうち最大の額面を持つものとして、ハンガリー1垓ペンゲ紙幣があります。第二次大戦後、ハンガリーは史上最悪のハイパーインフレに見舞われ、億や兆ではまるで間に合わなくなってしまったのでした。10垓ペンゲ札も用意されたようですが、発行には至りませんでした。画像を見ると、さすがに「100,000,000,000,000,000,000」という数字は無く、文字で「Szàzmilliò B.-Pengö」と書いてあるだけです。ちなみにこの1垓ペンゲ札の発行当時のレートは、20USセント(ドルではない)でした。
 このとてつもない額面の紙幣が発行されて間もなく、ハンガリーはさすがにたまりかねてデノミをおこないます。このデノミの率も史上最大でしょう。新しい通貨単位はフォリントとされ、なんと1フォリント=40穣ペンゲとされたのです。垓のさらに2つ上(億倍)の数詞「穣」が登場しました。この時点でのレートは1フォリントが87セントくらいだったと言いますから、1垓ペンゲ札が発行されてからわずかな間に、さらに数億倍のインフレが進んだことになります。際限のないインフレというのはまったくおそろしいものです。

 垓という文字の本来の意味はよくわかりません。亥はイノシシですが、これも亀甲占卜に関わる文字であったようで、兆と同じく「きざし」あるいは「根付く」といったような意味合いがあるそうです。それに土偏がついているので、例えば砂粒のようなものを意味したのかもしれません。大きな数の名前をつけるとき、砂粒をイメージするのは自然であるようにも思えます。
 それより上は、たとえば禾偏とサンズイがふたつずつ並んでいるところを見ると、もうひとつずつの漢字の意味はどうでも良くなっている気配があります。杼は和製漢字で、本来は「秭(し)」だったそうです。この文字は「積み重ねること」を意味します。また穣はそのまま「みのり」で、穀物を大量に集めたイメージだったでしょうか。
 溝は「みぞ」、澗は「たに」で、これらが大きな数の名前につけられた理由は不明です。正、載になるとさらに謎ですが、載は「年」と同義ですから、悠久の時の流れみたいなイメージになるのかもしれません。
 それに較べると極はわかりやすいですね。これ以上大きな数はないんだぞ、という意思を感じます。現代の万進法だと10の48乗、つまり1のあとに0が48個つく数となります。しかし、このあたりの数詞を実生活で使うことはまず無いでしょう。

 極の上は、文字が多くなります。そして明らかに仏教由来であることが伺えます。

 恒河沙(こうがしゃ)、阿僧祇(あそうぎ)、那由他(なゆた)、不可思議(ふかしぎ)

 そして不可思議の万倍が無量大数というわけです。
 恒河沙の恒河というのはガンジス川のことで、言葉としての意味はガンジス川の砂の数ということになります。
 試しにガンジス川の砂の数を計算してみましょう。ガンジス川の流域面積は約173万平方キロメートルです。支流のブラフマプトラ川水系を除くと84万平方キロだそうですが、大きな数の話ですので大きいほうの値を採りましょう。
 川底の砂の層がどのくらい厚く積もっているかはなんとも言えませんが、そう厳密を期する話でもないので、例えば平均10メートルとしてみましょう。すると砂の量は17兆3000億立方メートルとなります。
 砂粒の大きさもわかりませんが、砂礫のうち砂と定義されるのは1/16ミリメートル~2ミリメートルとされていますので、これも平均0.1ミリということにしておきましょう。すると1立方センチの中に100万粒入ります。
 17兆3000億立方メートルは1730京立法センチですので、それに100万粒をかけると、17杼3000垓粒。
 というわけで、数詞としての恒河沙のほうが、現実のガンジス川の砂粒の数よりも、文字どおり桁違いに大きな数であったことが判明しました。
 なお、地球がすべて砂粒でできていたとしても、その個数は10溝かそこらで、恒河沙にははるかに及びません。インド人がどれほど巨大な数を考えていたかわかります。
 阿僧祇は漢字そのものには意味はなく、サンスクリットアサンギャからの音訳です。アサンギャの意味は「数えられない」ということらしいので、つまりは「無数」ですね。
 那由他もサンスクリットのナユタの音訳で、こちらは「ものすごく大きな数」だそうです。経典によっては、那由他より阿僧祇のほうを大きな数としてあるものもあるようで、このあたり、もう曖昧模糊としています。
 不可思議、無量大数に至っては、考えるのが面倒になった気配があります。実際に数詞として用いられた例はほとんど無いでしょう。現代ではもっと便利な「×10の○○乗」という書き方があって、そのほうがむしろイメージも湧きやすいと思います。
 以上は中国や日本の数学書に記された数詞ですが、仏教経典に現れる数詞はなかなかそんなものではなく、華厳経などを見ると、「不可説不可説転」などというのが出てきます。これは

 10の37澗2183溝8388穣1977杼6444垓4130京6897兆6878億4964万8128乗

 だそうで、全宇宙の素粒子数を軽々と上回る数値です。

 ネットの検索サービスからはじまってさまざまなIT関連事業に進出しているGoogleですが、これはGoogolという「数詞」のミススペルから来た言葉です。ではGoogolとは何かというと、1920年ミルトン・シロッタという少年が作った言葉でした。ミルトンくんの叔父であった数学者エドワード・カスナーが、甥に向かって
 「1のあとに0が100個つく数の名前を考えてごらん」
 と問いかけ、その答えとしてミルトンくんが口にしたのがグーゴルGoogolだったのです。
 1グーゴルはすでに全宇宙の原子の数よりも多いと考えられますが、それにしても上の「不可説不可説転」にはだいぶ及びません。
 その後、10のグーゴル乗である「グーゴルプレックス」という数詞も作られました。1グーゴルプレックスは「不可説不可説転」の3乗より少し少ないくらいですね。
 さらに10のグーゴルプレックス乗を「グーゴルプレックスプレックス」と呼ぶそうです。この調子でいくらでも大きな数の名前はつけられそうですけれども、そんな数量を持つ「実体」はこの宇宙には存在しないでしょう。頭の中だけの遊びみたいなものです。
 Googleはミススペルではありますが、世の中のあらゆることを、それこそグーゴル単位で検索してやろうという意欲に満ちた命名でした。まあ、地球上のすべての文字を集めてもグーゴルには遠く及ばないわけですけれども。
 日本の文庫本1冊の文字数が大体10万字くらいのオーダーです。一生に1万冊くらいの本を読む人は居そうですが、それでもひとりの人間が生涯に眼にする文字は10億から100億程度のオーダーでしょう。これもかなりの数なのですけれども、むちゃくちゃに大きな数の話をしたあとでは、億くらいはごく少量という印象になりますね。
 地球上にある本の数は、当のGoogleが推計したところによれば約1億3000万冊だそうです。アルファベットを用いた文章は、日本語よりも当然文字数が多くなりますから、例えば1冊平均30万文字とすると、地球上にある印刷された文字の数は40兆くらいということになります。10の13乗程度のオーダーで、Googleの全検索数がこれを上回るとは考えられません。グーグルGoogleの、グーゴルGoogolまでの道のりは遼遠というところです。
 小さな数の名前についても触れてみたいところですが、こちらは私もあまり詳しくなく、せいぜい分、厘、毛くらいまでしか知らないため、ひたすらWikipediaその他を引き写すだけになりそうですので、このあたりで退散することにしておきます。

(2017.6.24.)

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