宮脇俊三氏の『最長片道切符の旅』という本を読むのは何度目になることやら、もう文庫本のカバーはちぎれて無くなってしまい、巻頭に掲げられた全国図も分離してしまって、造本も壊れかけて来ています。ずいぶん読み返したことが偲ばれます。
処女作『時刻表2万キロ』を刊行した宮脇氏が、そのあと永年勤めた中央公論社を退職してすぐに旅し、間もなく書いた、いわば初期作品です。『時刻表2万キロ』は自分のところからは出さず、河出書房から上梓していますが、それまで編集者としてさんざん他人の書いた原稿を没にしてきた手前、中公から出すわけにはゆかなかったのだと言います。そして他社から自分の本を出した以上、もう中公には居られないというので辞表を出したのでした。潔癖すぎるようでもありますが、宮脇氏なりの筋の通しかただったのでしょう。
そして会社勤めをやめ、一世一代の「暇」を手に入れた宮脇氏が挑戦したのが『最長片道切符の旅』であったわけです。
旅をしたのは昭和53年のことで、国鉄はすでに大赤字にあえいではいましたが、まだ怒濤の赤字ローカル線廃止ラッシュがはじまるよりは少し前のことで、いわば国鉄の路線網がいちばん拡大したころと言えます。その年、私は中学2年生で、その翌年くらいから自分の旅をはじめていますが、私の高校・大学時代になると、もう私が乗りに行くのが早いか、路線が廃止されるのが早いか、というサバイバルレースみたいなもので、むしろ焦燥感を覚えるほどの乗り潰しでした。
それももう昔の話で、私自身がすでに、『最長片道切符の旅』を敢行したときの宮脇氏と同じ年齢になっています。この本を読みながら、かなりスカスカになった時刻表の巻頭索引地図を眺めていると、どうにもむなしい想いにかられてしまうのでした。 宮脇氏は北海道の広尾から鹿児島県の枕崎まで、いわゆる一筆書きの最長ルートを辿って、蜿蜒13319.4キロを34日間かけて乗り通しました。同じ駅を2度と通らないというのが片道切符の条件です。まあ、34日間ぶっ通しというわけではなく、ときどき中断して東京の自宅に戻っていますが、それにしてもすごい道のりです。私がこの前、青春18きっぷで14時間かけて乗りまわしてきた距離が689.4キロでしたが、その20倍以上です。もちろん、当時豊富に走っていた特急や急行を活用していますから、単純な比較はできませんが。
思えば起点の広尾駅も、すでにありません。北海道の最長一筆書きルートは、当時に較べるときわめて寂しいことになってしまっています。それというのも、北海道のローカル線廃止は、盲腸線だけでなく、通り抜けルートになっている路線もずいぶんやられたからです。胆振線、池北線、標津線、湧網線、深名線、名寄本線、天北線、羽幌線がそれらで、『最長片道切符の旅』においてはこのうち深名線を除いてすべてルートに含まれていました。
いまではたぶん、稚内〜新旭川〜網走〜釧路〜富良野〜旭川〜岩見沢〜沼ノ端〜札幌〜小樽〜長万部〜東室蘭〜苫小牧〜様似、というのが北海道内の最長ルートでしょう。本州とつなげるためには、長万部から函館方面に向かい、しかも函館までは行けず、新函館北斗から新幹線に乗らなければならなくなります。 新幹線の問題はだいぶ深刻に関わってきます。宮脇氏が旅をした当時は、東海道・山陽新幹線しか無く、しかもこれらの新幹線は東海道本線・山陽本線の一部と見られていました。ただし、在来本線と共有しない駅(新横浜・岐阜羽島・新神戸・新岩国。その後新富士と東広島が増えた)の前後は別線と見なし、片道切符に組み入れています。
その後新幹線はやたらと増え、しかもいまや在来線の一部ではなく、れっきとした独立路線として扱われています。だから新幹線を利用するかしないかでまるきり結果が違ってくるわけです。
早い話が、JR在来線のみでいま同じことをしようとすれば、北海道から本州に渡ることすらできません。そして、本州の最長ルートも大違いになってきます。
というのは、新幹線があらたに敷かれた区間の在来線がJRの手を離れるということになっているからで、東西を貫通するルートが非常に狭まってしまったのです。
まず東から西に抜けることを考えると、信越本線は直江津で行き止まりになりました。飯山線は豊野で行き止まり、大糸線も糸魚川で行き止まりです。逆に西側からの路線を考えると、高山本線が富山で行き止まり、北陸本線が金沢で行き止まりであり、東西を貫通するのは事実上東海道線と中央本線の2本だけになってしまいました。これが何を意味するかというと、東から西、あるいは西から東へは、「行って戻ってくる」ことしかできないということになります。つまり、宮脇氏が豊橋から飯田線・小海線・上越線・只見線を辿って会津若松まで壮大な「逆行」を愉しんだようなことはもうできないのです。逆行を組み込むためには、少なくとも3本の、「行って、戻って、行く」ための貫通路線が必要になります。
きちんと検証はしていませんが、たぶん、新幹線不使用の場合の本州の最長片道ルートは、北からはじめるなら三厩から盛であるとか、南からはじめるなら下関から新下関であるとか、そんなことになるような気がします。 四国は、仁堀航路が廃止されて出入口が1本しか無くなった時点で、最長片道切符からの割愛を余儀なくされたわけですが、四国内だけ考えても、中村線が土佐くろしお鉄道に移管されたために、多度津〜北宇和島〜若井〜窪川〜高知〜多度津という大きな環が切れてしまいました。現在四国内のJRで環状になっているのは、高松〜佐古〜佃〜多度津〜高松という中くらいの環と、向井原と伊予大洲を結ぶ新線と旧線による小さな環のふたつしかなくなり、ルートの多彩さが失われました。たぶん現在の四国内最長距離ルートは、窪川〜佃〜佐古〜高松〜向井原〜伊予上灘〜伊予大洲〜北宇和島〜若井、というものでしょう。本州とはつながりません。 九州では、長崎方面への出入り口が長崎本線だけになってしまったのが大きい気がします。宮脇氏の旅したころは、筑肥線が博多から出ていたので「入って、出てくる」ことができたのですが。また筑豊炭田地区の複雑怪奇な路線網が、赤字線廃止できわめてシンプルなものになってしまった影響も大きいでしょう。
本州とつなげるならば、門司〜西小倉〜宮崎〜隼人〜吉松〜八代〜久留米〜夜明〜田川後藤寺〜新飯塚〜折尾〜吉塚〜桂川〜原田〜鳥栖〜肥前山口〜早岐〜諫早〜長与〜長崎、といったところでしょうか。九州内だけだとまた違ってくるかもしれません。 新幹線を使うことにすれば、話は大いに異なってきます。当時と違って別線と見なされているわけですから、新幹線と在来線を行きつ戻りつということも可能になりますし、上記の行き止まり問題などは北陸新幹線で簡単にクリアできます。
この場合、山形新幹線と秋田新幹線は、在来線を新幹線車輌が走っているだけですので、さすがにルートとしては数えないということになるでしょう。
最長片道切符ルートについては、新線の開通もしくは路線廃止などがあるたびに、いちいち計算している人が居るようで、たぶんネットを探せば正解ルートがどこかに載っているでしょう。面倒なので私は探していませんが、その場合はたぶん新幹線は使えるようにしてあると思います。
第三セクターまで考えると、さらにややこしいことになります。第三セクターは国鉄由来のものばかりでなく、万葉線やえちぜん鉄道、ひたちなか海浜鉄道のように私鉄由来のもあります。しかし国鉄由来の第三セクター線を、そうでないものと差別する法規上の根拠はありません。
仮に国鉄由来の線に限るということにしたとしても、国鉄時代に部分開業すらしていなかったほくほく線や智頭急行などはどう扱うのかという問題が出てきます。つくばエクスプレスだって、本来は常磐線のバイパス線として国鉄が管轄するはずのものでした。スカイアクセス線も当初は成田新幹線になるはずだった路盤を活用しています。宮脇氏だったら深刻に思い悩むところでしょう。
まあ、思い悩む以前に、JRと第三セクターを通しての切符が買えるケースは少ないので、ルートに組み込んだとしても、1枚の「最長片道切符」にはならないでしょうが。 宮脇氏は経由路線名がぎっしりと書かれた切符を持って旅を続けます。最初のうちは、検札の車掌や改札の駅員にこの切符を見られるのが気羞しくてならなかったようですが、北海道を抜けるあたりからは、むしろ積極的に見せるようになったそうです。
途中下車するたびに、改札口で途中下車印を捺して貰っています。私もかつてはよく捺して貰っていたものでしたが、最近は途中下車印なんてものが存在しているのでしょうか。磁気券が多くなり、自動改札で途中下車情報なども記録されるので、ほとんど無くなったのではないかと思います。そもそも駅員の居ない駅も多くなりました。 在来線で、特急列車・急行列車・普通列車が抜きつ抜かれつ走るなんてことは少なくなったので、時刻表的な面白さも、当時に較べるとだいぶ減少したと思います。急行が全滅して、優等列車同士の追い抜きはほぼ無くなりました。特急が他の特急に抜かれるのを待つというのは、かつて九州夜行などではありましたが、いまはもう無いでしょう。
「抜きつ抜かれつ」はむしろ新幹線で見られるようになりました。「こだま」はほとんど各駅で通過待ちをおこなっており、「ひかり」に乗ってもしょっちゅう「のぞみ」に抜かされる憂き目を見るようになっています。「さくら」はかろうじて九州内では後続の「みずほ」から逃げ切るダイヤが組まれているようですが、今後「みずほ」が増えればどうなるかわかりません。各停タイプの「つばめ」はちょくちょく通過待ちがあります。
在来線のほうはといえば、普通列車が特急を待つという、ごくあたりまえの光景は見られますけれども、それ以上のことはなかなか起こりません。快速がじゃんじゃん走っているような区間だと、特急がもし走っていても、ダイヤ的には快速と同じようなスピードでしか走れないことが多く、快速を抜くようなことはあんまり見られません。
快速が2種類以上あるところにしても、本格的に「抜きつ抜かれつ」を実現しているのは関西圏の東海道・山陽線くらいなものでしょう。ここでは確かに、快速を新快速が抜くということもよくあります。ただしその新快速を特急が抜くということはありません。新快速運転部分の特急は、どちらかというと新快速の邪魔をしないように走っている感じです。
中京圏の東海道線には、確かに快速・新快速・特別快速と揃っていますが、停車駅にはさほどの差が無く、快速を特別快速が抜くという光景は見られません。東京口の中央線では、特別快速が快速を抜きますが、抜くのは快速が各駅停車になっている区間に限られるので、ダイヤ的には快速が普通列車を抜くのとおんなじで、さほど面白くないのでした。
このように、ダイヤ上の面白さもあまり感じられないままに、現在「最長片道切符」の旅をしようとしても、実のところそれほど食指が動かないのです。私は新幹線も嫌いなのでなるべくなら使いたくないのですが、使わないとなると大した距離にはならなさそうです。宮脇氏の旅した13319.4キロには遠く及ばず、せいぜい5000キロ程度でおさまってしまうのではないかという気がしてなりません。まあ、ある意味私の身の丈には適ったスケールとも言えそうなので、いずれ暇ができたらやってみたいという気も少しはあるのですけれども。
いずれにしろ、鉄道斜陽時代に鉄道ファンなどやっている自分が不運だったのだと思うほかないのでしょう。それだから、本がすり切れるまで、国鉄最盛期の旅行記である『最長片道切符の旅』を読み返すことにもなるのだと思っています。
(2017.8.27.)
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