オウム真理教事件の裁判が終わったそうです。
長い長い裁判でした。当時「尊師」麻原彰晃の手先となって、人を「ポア」したりサリンを撒いたりした「若者」たちも、その多くが50代くらいの中年男、中年女となってしまいました。思い返せば、坂本弁護士一家殺害が平成元年、松本サリン事件が平成6年、地下鉄サリン事件が平成7年ですから、もうかれこれ23〜30年が過ぎていることになります。教団が宗教法人格を取得したのも、坂本弁護士事件と同じ平成元年のことだったそうですが、その非道なおこないへの裁きが確定したのが、平成の御代も残りわずかとなったいまであることを考えると、ある意味平成という時代の「闇」を象徴する存在であったとも言えそうです。
地下鉄サリン事件が起こった日、私は都心に出ていました。確か、東京駅からタクシーに乗って、その車内で流れていたラジオで事件を知ったのだったと記憶しています。なんで東京駅からタクシーに乗っていたかというと、これも記憶が薄れかけていますが、たぶん共立女子高校に向かっていたのだと思います。『一輪ざしの四季』という合唱組曲を共立女子高の合唱部が初演してくれることになっていて、その日のリハーサルに顔を出す約束になっていたのでしょう。
東京駅からメトロ東西線の大手町駅まで歩いて乗り換え、竹橋で下りて共立まで行くというのがスタンダードなルートなのですが、その日は遅刻しそうだったのかもしれません。作曲者が顔を出すのが多少遅くなっても誰も困らないようなものですが、ともかく急いでいて、珍しくタクシーを拾ったということであったようです。
サリンが丸ノ内線・日比谷線・千代田線の各列車で散布されたのはラッシュアワーの午前8時頃だったようですが、それをタクシーのラジオで聴いたということは、午前中であったのかもしれません。私は地下鉄に乗っていたとしても東西線ですから、被害に遭ったおそれはありませんでしたが、妹が都心の役所に通勤していたので心配したことを憶えています。 サリンによって死亡した乗員乗客は全部で13名、病院へ運ばれたり、多少なりとも気分が悪くなった人などまで含めると約6300名の被害者が出ました。まさにわが国では空前の化学テロでした。
この年には、1月に阪神淡路大震災も起こっています。そして3月にこの地下鉄サリン事件で、世の中に暗雲が垂れ込めたような気分になった人も少なくなかったのではないでしょうか。日本の治安が良いなどというのは幻想に過ぎない、というような自虐的なコメントも相次ぎました。
まあいまとなってみれば、阪神淡路大震災で人々の心が浮き足立っているところを狙って、あえてこの時期にオウム真理教がことを起こしたのではないかと思われるのですが。 麻原彰晃の名は、それまでも耳にしたことはありました。平成2年(1990年)の衆議院選挙に立候補したときに執拗に流していた珍妙な歌「♪ショーコー、ショーコー、ショコ、ショコ、ショーコー、あーさーはーらーショーコー♪」は、シンプルなだけに耳につきました。麻原の歌といえばもうひとつ、サリン事件との関連を疑われたときの「♪わーたーしーはーやってないー、けーっぱーくーだー♪」も有名ですね。信者たちの中に専門の作曲家が居るのだと、私らの仲間うちではささやかれていました。
「それにしても、もうちょっとまともな曲を作ったらどうなんだ」
などとも言い合っていましたが、こういうのは印象に残れば勝ちでしょう。
その頃は、また変な宗教団体が出てきたという程度の受け止められかたであったと思います。幸福の科学あたりと同列に見られていたのではないでしょうか。変ではあるけれど、そんなに危険だとは思われていなかったかもしれません。実はその時点ですでに、坂本弁護士事件を起こしていたわけですが、まだ誰も両者の関連については疑っていませんでした。
冷静に見れば、なんであんな薄汚いオヤジが驚くべきカリスマ性を発揮し得たのか、それなりに知力も高いはずの若者たちが盲信的に惹かれていったのか、不思議で仕方がないのですが、とにかく彼のはじめたオウム真理教は多くの信者をひきつけ、一大勢力となって行ったのでした。
一見インド哲学などの流れを汲むように思えるさまざまな独特の用語とか、ヨガを採り入れたらしい「行」とか、その種のアイテムが新鮮に感じられたのでしょうか。その頃の風潮を思い出してみると、荻野真のマンガ「孔雀王」他、密教とかヒンドゥー教とかの世界をパラフレーズしたようなものがわりにはやっていた気がします。ゲーム「女神転生」もヒットして、スーパーファミコン版が出た頃だったと思います。一神教的な絶対神とそれへの反逆者としての悪魔といった対立の図式はもう流行遅れで、多神教、ないしは哲学化した教義といったものがもてはやされる時代に入りつつあったのでしょう。
ヨガや座禅などの「行」もどき、それに薬物なども用い、加えて繰り返し一定の言葉を刷り込まれると、人間というのはわりに簡単に「悟りを開いた」もしくは「解脱した」気分になるようです。本来の禅修行などではそういう安易な「悟りもどき」を厳しく排除しているはずですが、若者たちにとってはその「悟りもどき」がふるえるような感激体験になったのでしょう。人間としてのレベルが急激に上がったように感じ、その経験をもたらしてくれた「尊師」を絶対的に信頼するということにもなったのだと思われます。こういうたわいなさは、むしろ高学歴な若者であるほど顕著だったのかもしれません。そして彼らはその頭脳を、化学兵器の開発とか殺人計画の推進とか、明らかに間違った方向へと働かせはじめたのです。 オウム真理教の教義は、愚劣な選民思想に、上に書いたようなインド哲学や密教などの用語を生かじりでちりばめただけの浅い思考に過ぎず、現在のネットなどで開陳すれば、たちまち「中二病」扱いで冷笑されるのがオチなシロモノです。しかしそんな浅薄な思想であっても、間近で、迷わずに力強く語られれば、つい信じてしまう者も少なくなかったのでしょう。もちろん当時は、まだネットがいまほどは普及しておらず、若者がさまざまな意見に触れる場も多くはありませんでした。
まして、オウム真理教は信者に世間との関わりを絶たせ、共同生活をさせていましたから、半信半疑だった者もだんだん染まって行ったことは充分考えられます。その意味では、麻原彰晃は確かに、教祖的人物としての手腕はなかなかすぐれていたと言えます。
もちろん、「尊師」の手腕だけではありません。世の中の風向きも、若者たちをオウム真理教などに向かわせるきっかけになっていたはずです。バブルがはじけ、世の中の浮かれた気分が一挙にしぼんでしまい、若者たちは目標を失っていました。バブルを謳歌していたすぐ上の世代を見ていた彼らは、どう生きれば良いのかわからなくなっていたのです。
目標とか生きかたとかいうものは、誰もが自分の生涯をかけて、さまざまな失敗や間違いを犯しながら見つけてゆくべきことですが、秀才であるほどその徒労に耐えられないようです。性急に答えを見つけようとし、その答えを教えてくれるかに見える存在に惹かれてゆくものなのかもしれません。
麻原彰光はその答えを与えてくれたのでしょう。ほんの短期間の修行で「悟りもどき」体験もさせてくれたし、その「悟りもどき」を本物の解脱と保証してくれて、もっともらしい位階まで授けてくれました。若者たちは、自分らが受け容れられ、認められ、他の人間たちよりも一段か二段上に立ったような気分になったことでしょう。ここまで来れば、サリンを撒くことで「一般の人間」を「選別」しようなどという傲慢きわまる妄想に陥るまで、ほんの一歩でしかありません。 ほどなく上九一色村の本部が強襲を受け、麻原彰晃以下幹部の大半が逮捕されました。
しかし私は、ここからが長いのではないかと思ったものでした。
教祖とか教団の主とかが、時の官憲に逮捕されたり処刑されたりといった事件は、世界の宗教史を眺めてみれば実にありふれた出来事に過ぎません。キリスト教がそうでした。マニ教も同様でした。イスラム教は幸いそういう憂き目を見ていないようですが、中の宗派を見てみれば似たような事件が起こっています。
その逮捕理由や処刑理由は、必ずしも宗教上の罪状とは限りません。普通の刑法犯として裁かれることのほうがむしろ多いでしょう。
従って麻原彰晃を捕らえて、殺人罪などに問うたとしても、あるいは死刑にしてみても、それは信者たちにとってはいわば「法難」であり、偉大なる尊師さまが木っ端役人どもに陥れられたというだけのことで、信仰を捨てることにはつながらないのではないか、むしろより信仰が深まるなんてことになりはしないかと私は危惧しました。
麻原彰晃の偶像を叩き壊すには、ただひとつの方法しか無いのではないだろうかと考えたものです。
それは、誰が見ても徳の高い宗教家、高僧のような人物が、直接麻原彰晃と対面して、教義の上で彼を論破するという方法です。教祖的人物の化けの皮をはごうという場合、普通の法律などは無力であって、宗教という同じ土俵に立って論破しない限り、信者たちの信仰心は容易なことでは無くならないと思うのです。
誰か高名な宗教家がそれをやらないと、そう簡単にオウム事件のけりはつかないぞ、と私は予感しました。
あいにく、誰も麻原彰晃と宗論を闘わせることに名乗りを上げなかったようです。そして、私の予感どおり、事件はずるずると長引き、結審までに23年という時間が費やされてしまいました。
まあ幸いなことに、麻原彰晃によるマインドコントロールは、彼の教義同様、それほど深いものではなかったらしく、時間と共にだんだん解けてきたようです。われに帰った幹部たちは、大変なことをしてしまったと気づいたのはもちろんでしょうが、何よりもかつての中二病的言動を振り返ったときの、あの部屋中をごろごろと転げまわりたいような気羞しさに苛まれたことでしょう。
麻原彰晃自身は、ほとんど何もしゃべらなくなりました。自分のことはもちろん、他の幹部たちの公判に際して証言を求められても、まったく黙して語らなかったようです。どういう気持ちで居るのかはわかりようもありませんが、わがこと終われり、というところでしょうか。一大論陣を張って教義の正当性を主張しまくる、という図も多少期待したのですが、そんなこともしませんでした。
それにしても、オウム真理教事件に関して、宗教界からの発言がほとんど聞こえてこなかったことに、私はがっかりしています。語るにも及ばず、ということなのかもしれませんが、宗教者というのはこういうときにこそ言葉を発するべき存在なのではないかと思うのです。最近のイスラムテロに関してイスラム教の権威者がほとんど何も言っていないことにじれったさを覚えるのと同じ感覚です。
あるいはそういう場面で発言するのは、宗教者にとって火中の栗を拾うような行為なのかもしれませんが、そこであえて栗を拾わないのは、宗教者の保身というものではないでしょうか。 オウム真理教はアレフと名を変えて、新体制で続いています。アレフはいちおう過激な行動をしないと称していますが、将来、有能な煽動者でも現れれば、それもわかったものではありません。オウムの世界観は引き継いでいると考えたほうが良いでしょう。麻原彰晃の影響を否定しているかもしれませんけれども、かつてペテロも夜明け前に三度、イエスを否定したのです。
麻原彰晃以下、13名が死刑を宣告されました。また5名は無期懲役が確定しています。これですべての片が付いたとは、私にはどうしても思えません。何しろ13は最後の晩餐の人数です。
偉大な尊師と12人の高弟の「殉教」──
何十年かあと、麻原彰晃という人物の直接的なイメージも人々から薄れたのちに、そんな主張をしはじめる煽動者が出現しないと、どうして言いきれるでしょうか。われわれはやはり、麻原彰晃という男を、刑事犯的にではなく、神学的に叩き潰しておくべきだったような気がしてなりません。私のこの危惧が、杞憂であらんことを。
(2018.1.20.)
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