忘れ得ぬことどもII

銀座のふたつの展覧会

 今日はマダムのお伴をして銀座に出かけてきました。マダムが友達から貰ったという展覧会のチケットが2種類2枚ずつあり、いずれも銀座で開催されているらしいのです。最初は私は
 「ど〜ぞ、行ってらっしゃい」
 と言っていたのですが、今回はマダムが私と一緒に行きたい意向であったようだったので、4月の重荷であるオペラの編曲作業も終わっていたことだし、他に至急の仕事も無いので、同行することにしました。
 もっとも、どんな展覧会なのだか、私は把握していませんでした。マダムによると、なんでも片方は「ウォーリーをさがせ!展」だとのことで、それを聞いて私は若干怖じ気をふるいました。近年とみに老眼が進んだ上に、このところのパソコン作業などでいささか眼精疲労気味であり、ウォーリーのような細かい絵を凝視すると頭痛や吐き気がしてくるのではないかと危惧したのです。
 画面いっぱいにぎっしりと描き込まれた細かい人間の絵の中から、ただひとりの主人公の姿を見つけ出すという、注意力と集中力だけを要する、ただただ単調な作業は、私はもとから苦手です。体調が万全なときであっても頭が痛くなりそうです。だからウォーリーの絵本にもあまり近づかないようにしていました。よく医院の待合室などに置いてあったりしますが、とんでもない話で、あんなものを眺めていてはどう考えても熱が上がりそうです。
 午前中は洗濯などをしていて時間がつぶれてしまい、昼から出かけましたが、朝方から微妙に首筋がこっているようであり、何かの拍子で頭痛に変わりそうな感じでもあったので、念のため頭痛薬を2錠服んでおきました。

 銀座に行く場合、うちからだと京浜東北線電車で有楽町まで行き、そこから歩くというのが標準的なのですが、昼間は快速運転のため有楽町に停車しないのと、昼間の電車なのにけっこう混んでいて坐れなかったので、上野で下りてメトロ銀座線に乗り換えました。もちろん運賃は余計にかかりますが、マダムがメトロの回数券を持っていたのであまり割高感がありません。銀座のど真ん中の4丁目に出られるので気分的に楽でした。
 展覧会に行く前に、まずは昼食です。これもあらかじめマダムご指定の店があって、4丁目の出口からはすぐでした。オーガニック野菜のサラダバーがついている店で、マダムは先日中軽い腸炎を患ってあまり食べられなかったのを取り戻すかのように、サラダをもりもりお代わりしていました。ただ生野菜というのはからだを冷やすようで、あとでまた少し下り気味になってしまったそうです。
 食事のあとで、まず向かい側と言って良い場所にある三愛ビルに入りました。ここの8階と9階が、リコーイメージングスクエアという一種のギャラリーになっています。8階のほうでやっていた北山敏写真展『ミクロ×宇宙』」というのが、マダムが貰っていたチケットの一方でした。
 なんとも幻想的な、不思議な写真が展示されています。顕微鏡でさまざまな液体を拡大視してゆき、面白い造形があれば撮影するというやりかたであるようです。
 何を写したのか、見ただけではとてもわかりません。タイトルに「c」とか「w」とか「b」といった英文字がついており、それが被写体となった液体の頭文字なのでした。ネタバレになると申し訳ないので文字を隠しますが、cはコーヒー、wはワイン、bはビールで、そのほかにi(インク)、r(リシン=樹液)、s(醤油)なども使われていました。
 どれも身近な液体なのに、顕微鏡の倍率を上げてゆくと、驚くほどに奇妙な美しさを持った画像が出現してくるのでした。確かに、酒類には必ず発酵を促す微生物が含まれているはずですし、結晶様の部分が含まれている液体もあるでしょう。「c」は原料をミルで挽いて抽出するわけですから、原料に含まれる繊維質らしき細長い粒子(?)が目立ち、何枚か見ているうちに、「c」だけはタイトルを見なくとも判別できるようになりました。
 不思議なのは「w」の写真によく現れてくる、中央の凹んだ円盤状の赤い物質で、なんだか赤血球のように見えます。それが妙にぎっしり詰まった区画があったりして、これはなんなのだろうかと思いました。そういえば戦国時代、西洋の宣教師や商人たちが「w」を飲んでいるのを見て、日本人は彼らが人の生き血を飲んでいるのだと勘違いしたなんて話があります。赤血球そっくりの円盤がぎっしりと詰まった写真を見ているうちに、生き血というのはあながち間違った観察でもなかったのではないか、などと思えてきました。
 ギャラリーには北山氏ご本人が居ていろいろ説明してくれましたし、プロモーションビデオなども解説付きで見せてくれました。子供の頃から、顕微鏡でプランクトンを観察するのが好きだったのだそうです。顕微鏡で見たものを、はじめの頃は絵として描いていたらしいのですが、そのうちもっと直接的な写真という手段を用いるようになったのでした。
 海外では著名な写真賞をいくつも獲っているものの、日本国内の賞はすべて落選しているとか。日本の美術界に見る眼がないとも言えますが、まあ日本の写真賞というのは、こういう写真を求めては居ないということなのでしょう。

 安曇野に自宅兼ギャラリーを構えているそうです。ギャラリーの名は「ビンサンチ」だそうで、ビンというのはご自分の名前にひっかけているのだろうとわかりましたが、サンチがなかなかわかりませんでした。なんのことはない、「敏さん家(ち)」というだけのことであったようです。
 写真展は滅多に見に行きません。写真というのは往々にして、被写体からのメッセージが強すぎて、私としては辟易することが多いのです。しかし、身近な液体の顕微鏡写真で、いわば純粋に造形美を鑑賞するだけの「ミクロ×宇宙」展は、思いがけず愉しめました。

 三愛ビルを出て、今度は松屋銀座に入ります。8階のイベントスペースで「ウォーリーをさがせ!展」が開催されています。
 さっきの写真展に較べて、こちらは大変な混雑でした。「ウォーリーをさがせ!」は子供たちに大人気です。それに今回は「誕生30周年記念」だそうで、従って初期の読者はもう40代くらいになっているはずです。好天の日曜日の午後となれば、ファンが押し寄せないわけがありません。
 原画がたくさん展示されていましたが、危惧したとおり、あまり凝視していると気分が悪くなりそうでした。それに人が多いため、あまり近づけないことが多いのです。照明もやや暗めの会場で、人のうしろから覗き込んで、何百人ともつかない細密画の中からウォーリーを探し出すのは、まあ無理と言って良いでしょう。
 何枚かでは私もウォーリーを発見できましたが、そのうち眼がくらくらしてきましたので、途中で諦めました。マダムはほとんどの絵で発見していたようです。ウォーリーで特徴的なのはその赤白縞のシャツなので、まずはそのシャツを探すのですが、顔だけしか出ていないという絵も多く、とにかく精神力をがりがりと削られる想いがするのでした。
 ただ、作者は漫然と人の絵をぎっしり描いているわけではなくて、いろいろ奔放な仕掛けを施しているようで、その解説をおこなっているコーナーは大変興味深く感じました。作者はわりと言葉遊びが好きであるらしく、例えば水中を描いた絵の中には、キャットフィッシュとかドッグフィッシュとかが出てきます。英語が得意な人は、キャットフィッシュとはナマズのことであり、ドッグフィッシュがツノザメのことであるのはご存じでしょうが、絵の中では猫の顔をした魚や犬の顔をした魚が泳いでいます。こういう、慣用的な言葉をあえてバカ正直に字義どおりに解釈して奇妙な絵にしているという箇所が、「ウォーリーをさがせ!」には無数にあるようです。単に主人公の姿を発見しただけで終わらせてしまうのは惜しいような細かいネタがいっぱいに詰まっているので、その意味では一冊くらい手元に置いてみるのも悪くないと思うほどでした。
 作者マーティン・ハンドフォード氏は、子供の頃から、画面に人間がたくさん散らばっているような、いわば「群像画」とでもいうものを描くのが好きだったようです。ハンドフォード氏が6、7歳のみぎりに描いた絵も展示されていましたが、大量のガレオン船による水軍の上陸と、それを迎え撃つ軍隊の合戦図だったりします。そういう嗜好が、大人になってもそのまま続いていたということなのでしょう。
 また、ハンドフォード氏が日本での展覧会を記念して描いたウォーリーのイラストがあるのですが、そのイラストを描く過程を撮影したビデオも上映されていました。まずシャープペンシルで下書きを描くわけですが、驚いたことに最初に描いたのは、ウォーリーのズボンなのでした。ズボンを描き、靴を描き、それから上半身を描いたのちに、ようやく顔に取りかかります。それも最初に描くのは眼鏡なのでした。
 私もかつてはマンガをよく描いていましたし、いまも時々イラスト程度のものは描くことがありますが、脚から描くというのは奇想天外でした。どうしても先に顔を描いてしまいます。ただ、こういうのは馴れが大きく、例えば私は人の顔を描くにあたって、昔は前髪のラインを最初に描き、次に顔の輪郭線を描いていたものでしたが、近年は眼を先に描くことが多くなっています。このブログにある猫(?)の絵も、まず眼鏡から描いています。
 記念イラストはせいぜい5センチ程度の小さな絵で、ハンドフォード氏はシャープペンシルで下絵を描くと、次に極細の筆で彩色してゆきます。少しでも手元が狂うと下絵のラインをはみ出ることになりそうですが、氏は非常に丁寧に絵の具を乗せてゆきました。そうしてから、最後にこれまた極細のマーカーで輪郭線をなぞってゆきます。服の部分はあえて線を振るわせてみたり、とにかく芸が細かいのでした。
 最初の絵本を出すために描いた12枚の原画を用意するのに、ハンドフォード氏は約1年半を要したと言いますが、登場するひとりひとりにこのような手間をかけているのでは、それも無理はありません。1枚を描くのに1ヶ月半かかる計算になります。絵を描く作業単体でも大変ですが、上記のような小ネタをたくさん仕込もうとすれば、そのためのアイディアに苦労することもあるのではないでしょうか。もしかすると、読者のほうも、1枚の絵を鑑賞し尽くすために1ヶ月半くらいかけるのが、作者への礼というものなのかもしれません。

 展示をひととおり見たあと、松屋銀座のどこかに居るウォーリーを探し出して写真を撮ってくれば粗品が貰えるというので、張り切るマダムと一緒に探しにゆきました。イベントスペースの入り口のところに、
 「今日は1階で見かけたらしいよ」
 とヒントが書いてあったので、1階に下ります。
 デパートの1階といえばたいてい化粧品などの売り場で、一体にオシャレ感が漂っているものですが、気がつくとそこらじゅうの柱や壁に、絵本に出てくるキャラクターが貼り付けてありました。その中にウォーリー本人も居るのだろうと思いましたが、なかなか見つかりません。松屋銀座の建物は、東西にはごく短いのですが南北に長く、言ってみればウナギの寝床のような形をしているので、通路を行ったり来たりするにも手間がかかります。
 ようやく、エスカレーターの一基に乗るところで、ウォーリーを見つけました。他のキャラクターのように小さなシールではなく、ほぼ等身大のパネルになっていたので、かえって盲点になっていた感じです。このパネルが、日によっていろんなところに置かれるらしいのでした。
 ふたつの展覧会を見て、松屋銀座のビルを出ると、もう18時近くなっていました。近くの喫茶店で休憩してから帰りましたが、20時を過ぎています。マダムはとても楽しかった様子なので、同行した甲斐がありました。

(2018.4.29.)

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