2018年のゴールデンウィーク後半、私は主に在宅してこまごまとした用事を済ませていたのですが、マダムは恒例の「ラ・フォル・ジュルネ」に通い詰めていました。
このイベントは、フランスのナントではじまった一種の音楽祭です。会期中、いくつかの会場で同時進行でいろんなミニコンサートが開催されます。お客はスケジュール表を見ながら、自分の好きなコンサートに足を運びます。入場料は廉価(ナントの場合、6ユーロ〜15ユーロ程度)に抑えられているので、気軽に聴くことができ、いままで音楽にあまり縁の無かったような人たちも、クラシックに触れる契機になるというものでした。 「ラ・フォル・ジュルネ」はいろんな国、いろんな都市で開催されるようになりましたが、東京の場合、少々趣旨が違ってきているような気がします。本来、入場料が安く抑えられるのは、提唱者であるルネ・マルタン氏の主張に賛同した音楽家たちが、ほとんど手弁当というべき安いギャラで集まって、それぞれに好き勝手なこと(いちおう全体のテーマのようなものはありますが)をして貰えるからです。それを考えると、出演者は大半が同国人であるべきでしょう。 ところが東京大会では、やたらと海外からの来日演奏家が多く、またそういうコンサートばかり客席が埋まります。当然アゴアシ付きで呼ぶわけですので、ギャラも高くなり、入場料もその分跳ね上がります。6ユーロ(660円くらい)で聴けるプログラムなどまず見あたらず、15ユーロ(1650円くらい)というのも数少なく、大半は2000円とか2500円を要することになっているのでした。ひとつのコンサートはせいぜい45分くらい、つまり普通の演奏会の半分くらいですから、この値段ではちっとも安くありません。ナントのイベントでインタビューを受けた老婦人は、20くらいのコンサートをハシゴしてすっかり堪能したと言い、約100ユーロくらい費やしたということだったのですが、東京では4つ5つ聴くだけで1万円に達してしまいます。どうもマルタン氏の狙いとは違うことになっているように思えてなりません。 とはいえ、広場でやっている無料の演奏もありますし、有料公演のチケットを1枚でも持っていれば入場整理券がとれる公開レッスンみたいなイベントもありますから、そういうのをうまく組み合わせれば、そんなに高額のお金を使わなくとも充分愉しめるようにはなっています。 マダムも、有料公演のチケットを3日(木)〜5日(土)の会期中3枚入手し、あとは無料イベントを組み合わせることで毎日満喫していました。若干仕事の入った日もありますが、毎朝勇んで出かけていたのです。 さて、その「ラ・フォル・ジュルネ」も昨日で終わりました。今日6日(日)は、マダムは仕事を入れようとしていたのですが、その予定がキャンセルとなり、もう一日暇ができました。 それで、「ラ・フォル・ジュルネ」開催に併せて、丸の内界隈でやっていた、「アート・ピアノ」というイベントを観に行きたいと言いました。 こちらは、ピアノを素材として、何人かのアーティストがそれぞれの方法で作品を作り、丸の内界隈のビルにセッティングするというイベントです。時間を限って、一般客にそのピアノを弾いてみることを許可するというのが珍しく、いわば「触れて音を出せるアート作品」というわけでした。こちらのイベントは、5日で終了ではなく、もう1週間くらいピアノを置いたままにしているそうです。 私としては例によって、 「どうぞ、行ってらっしゃい」 と言いたいところだったのですが、なんでもマダムのSNS友達が、ご亭主と一緒に出かけて、それぞれがアート・ピアノを弾いている写真をSNSにアップしていたそうで、それを見てうらやましくなったマダムが、自分も亭主連れで行きたくなったようなのでした。 まあ、私もゴールデンウィークの後半、何をするでもなかったし、今日は特に予定もなかったので、マダムに同行することにしました。昼過ぎまでいろいろ家で用事があったので、出かけたのはほぼ15時くらいでしたが。
アート・ピアノは、東京駅北口近くの丸の内オアゾから、有楽町駅近くの国際ビルまで、しめて6箇所のビルに設置されているようでした。 最初に丸の内オアゾに行くと、エントランスホールのところでフルートの演奏をやっていました。これは別物だろうと思ってオアゾを一周したのですが、他にはピアノなど見あたりません。「アート・ピアノ」のパンフレットを見ると、オアゾの「1階ウッドデッキ」というところに設置されているらしいのですが、どこにあるのかよくわかりません。どうもフルートコンサートをやっているそこしかあり得ないようです。 そこではないだろうと思ったのは、伴奏に使われているピアノが、特にペイントされているようでもなかったからなのですが、よくパンフレットを見ると、このオアゾのピアノを担当したのは篠崎恵美というアーティストで、絵を描くというよりも生花を使っていろいろ表現する(華道とも違うようですが)人でした。確かに花がたくさん飾られています。やはりこれがアート・ピアノのひとつだったのでした。 コンサートはもうすぐ終わりそうだったので、最後まで聴いていましたが、一般客がピアノを弾けるような雰囲気ではなかったので、そこを出て、次は新丸ビルの3階へ行きました。
ここでは明らかにアート・ピアノとわかる、増田セバスチャン氏の手による絢爛たる花柄のグランドピアノが設置されていました。実はグランドピアノを使っているのはここだけでした。置かれた空間もかなり広く、天井も吹き抜けになっていて、演奏空間としてもなかなかすぐれていたと思います。 ここに入ったときも、誰かがリストの「愛の夢第3番」を弾いていました。おやおや、こちらでもコンサート中だったかと思いましたが、聴いているとときどき音を外していて、どうやらプロの演奏家ではなさそうです。最後まで弾かずに、最後のカデンツァに入るあたりでやめてしまいました。つまりこのピアノは、まさに一般客が弾いていたということです。 弾きたい人はピアノのうしろあたりに並んでいました。せっかくなので、私たちも並んでみました。特に何を弾くという心づもりも無かったのですが、まあレパートリーはマダムも私もいくつか持っています。また、ひょっとして使えるかなと思い、「ラプソディ・イン・ブルー」の連弾譜を持ってきていました。マダムと合わせたことはいちども無いのですが、まあなんとかなるのではないでしょうか。 「愛の夢」のあとは、小学生くらいの女の子が出て、バロック調の何かの曲を弾きました。その後何人か、ポップス系の曲を弾きましたが、その中にはずいぶんとヴィルトゥオーゾっぽい弾きかたをしている青年なども居り、なかなかレベルの高いコンサートになっていました。マダムがだんだん心許なさそうな顔になってきました。いろいろな曲を知ってはいるものの、暗譜で最後まで弾ける自信のある曲が案外少なかったようです。最初は適当に弾き流せば良いくらいのつもりだったのでしょうが、演奏を聴いているうちに、これはヤバいと思いはじめたらしいのでした。ヘタな弾きかたをしては本職の沽券に関わるという気分になってきたのでしょう。 そのうち、年配の夫婦が連弾で『くるみ割り人形』の行進曲を弾きはじめました。タッチからして本職とは思われませんでしたが、これまたかなりの迫力ある演奏です。 その夫婦の息子と思われる少年が歩み出ました。いきなり弾き出したのはショパンの練習曲op.25-6、3度トリルのための最高難度と言える曲で、それがまたけっこう立派に弾きこなしています。彼はショパンを弾き終えたあと、ちょっとドビュッシーの前奏曲も弾きはじめましたが、そちらは暗譜が不充分であったのか、間もなくやめてしまいました。 その次に鍵盤に向かった青年が弾きはじめた曲を聴いて、私は思わず 「マジか」 と呟きました。彼が弾きはじめたのは、リストの「スペイン狂詩曲」です。これも大変な難曲であることはもちろんですが、何しろえらく長い曲なのです。15分近くかかるはずで、こんな場で演奏すべき曲とは思えません。 「まさか全部弾くつもりじゃなかろうな」 私はマダムと顔を見合わせて苦笑しました。 ところが、彼は壮大な前奏を弾き終わり、ゆったりとしたフォリアを余裕たっぷりで弾き続け、速いホタの部分に入っても一向にやめようとはしません。 私たちのうしろに並んでいた若いお母さんが、 「あの、ここで弾くの、5時になったら打ち切られちゃうんでしょうか」 と心配そうにスタッフに訊ねていました。どうやらそれぞれのピアノに「演奏許可時間」というのがあり、だいたい17時で打ち切りになるらしいのでした。17時まではもうほとんど間がありません。娘にぜひ弾かせてやりたいと思って来たのに、打ち切られては立つ瀬がないというところでしょうか。 「大丈夫ですよ。弾きたいかたが居られなくなったところで終わりますので」 という答えを聞いて、安心していました。 そんなことを知らぬげに、スペイン狂詩曲の彼は没我状態でガンガン弾きまくり、ついに一箇所もカットすることなく全曲を弾ききったのでした。もしかして、偉いプロデューサーの眼にでも止まらないかと期待したのかもしれません。確かに彼のテクニックは素晴らしかったのですが、弾いているあいだずっと同じ姿勢のままで、ここを思い切りアピールしようとか、ここを特に聴かせてやろうとかいう「意図」が見えづらく、お金をとれる演奏であったかと言えば微妙なところでした。私が審査員なら78点というところかな。 次に並んでいた若い女性は、 「わたし、もういいです」 と小声で言って、列から外れてしまいました。 その次は、小学生か中学生くらいに見えるふたりの兄弟らしき少年たちで、なんと私が譜面を持ってきていた「ラプソディ・イン・ブルー」連弾版を弾きはじめました。しかも、相当にしっかり弾きこなしています。後生畏るべしというか、行く末楽しみな子供たちでした。 やっとマダムの番になりました。結局彼女は、「月の光」を弾きました。やたら「濃い」曲が続いたので、そのあたりなら聴いている人もホッとひと息つけるでしょう。実際、弾きはじめた途端に 「あら素敵」 という声が聞こえました。 ところで、アート・ピアノの写真を撮って、決まったハッシュタグをつけてSNSに投稿し、それをスタッフに見せると、丸の内界隈で使える500円分のクーポン券を貰えるのだそうで、私はマダムのスマホを借りて、演奏中のマダムの写真をたくさん撮っていました。別に演奏中の写真でなくとも良いのでしょうが、せっかく花柄のグランドピアノをマダムが弾いているのですから、その現場を撮ったほうが張り合いがあります。 そのうちマダムは弾き終わっていました。さすがに本職の貫禄で、大いに拍手を貰っていました。 クーポン券を貰えるのは、パンフレットには隣の丸ビルの1階と書いてあったのですが、この日はスタッフが花柄ピアノの会場まで出向いてきていて、その場で貰えるようになっていました。マダムは私の撮った写真の中から1枚をフェイスブックに投稿し、それをスタッフに見せてクーポン券をゲットしました。 「『月の光』を弾いて、500円のギャラを貰ったわけだね」 と、マダムはご満悦でした。
新丸ビルを出て、次に三菱ビルの1階エントランスに行き、AtelieR odecoの手になるアップライトピアノを見ました。こちらは色とりどりのキルティングのようなものでピアノを覆っている感じです。ピアノの周囲にはチェーンが張られていました。演奏許可時間は終わりということでしょう。マダムは花柄グランドの他のところで私にも弾かせたかったようで、許可時間が終わっていたのを残念がっていました。まあ、花柄グランドの置かれた広間は、人の出入りも遅くまでありそうで、周囲も商業施設が多いところだったので、希望者が途切れるまで演奏を続けられるのでしょうが、他のビルは基本的にオフィスビルであり、遅くまで音を出しているのは困るのだと思います。 隣の丸の内ブリックスクエアの地下1階には、白根ゆたんぽ氏による電子ピアノが設置されていました。和田誠氏みたいなシンプルな線で、黒猫を抱く裸婦というような、ちょっぴりエッチな感じのイラストを描くのが白根氏の作風であるようです。置かれた電子ピアノにも、一面にびっしりと女性のイラストが描かれていました。 新東京ビルの1階エントランスに置かれていたのは、全体を黄色くペイントし、無数の小さな鏡をとりつけたアップライトピアノでした。渡辺元佳氏の作品です。鏡はいろんな角度でとりつけてあるので、写る色彩がさまざまで、しかも見る位置によって色合いが変わってくるという仕掛けでした。 最後が国際ビルで、やはり1階エントランスに、千原徹也氏によるアップライトピアノが置かれていました。これはかなりどぎつい色彩に塗り分けられたピアノのフレームに、線画が細かく描き込まれているというものでした。 以上6つが、今回出品されたアート・ピアノでしたが、見ていて心地よいのはやはり花柄グランドだったと思います。他のは少々狙いすぎという気がしました。演奏されているとまた少し違った感じかたになるのかもしれませんが…… パンフレットを見せると割引になるという飲食店やブティックなどがたくさんあり、その中のひとつであるタイ料理屋で夕食をとって帰ってきました。 まあ、ゴールデンウィークを締めくくるにちょうど良いイベントであったかと思います。
(2018.5.6.)
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