今年に入ってから、譜面作成サービスの仕事はあんまり入っていなかったのですが、夏になってから妙に続けざまに入ってきました。 この仕事は、せっかくFinaleという作譜ソフトがあり、かなりのクオリティで楽譜を仕上げるスキルもあるのだから、直接頼まれる作曲や編曲の片手間に、web経由で小遣い稼ぎでもしようと思ってはじめたことです。 以前の写譜屋さんの仕事に近いでしょう。写譜屋さんは、コピー機が珍しい時代には音楽業界で大活躍した職業です。料金はそれなりにかかりましたが、スコアの写しだろうとパート譜だろうと、ケント紙の五線紙と写譜ペンを使って、ごく短期間で仕上げてくれたものでした。 コピー機が普及すると、写譜屋さんの仕事はだいぶ減りましたが、パート譜作成というジャンルはまだ必要でした。オーケストラの譜面などになると、パート譜を作るのはなかなか大変なのです。これも写譜屋さんに頼めばすぐに作ってくれました。大きな依頼になると、相当に大量の社外スタッフを動員していたものと思われます。 それが現在のようにコンピュータ作譜になると、パート譜を個人で作るのも簡単になってしまい、写譜屋さんの仕事はほぼ壊滅状態になったでしょう。 しかし現在でも、FinaleやSibeliusといった作譜ソフトを使いこなせない作曲家や編曲家も居り、そういう人たちが手書きの譜面をきれいに仕上げたいという需要はまだあります。また、演奏家が移調譜を求めるということもよく見受けられます。 つまり、需要の趣きは多少変わったものの、写譜屋という仕事自体は、まだ存在意義があると言えます。 従来の写譜屋さんも、コンピュータ作譜に方向転換した業者は、生き残っているのではないかと思います。 そういう「商売敵」が、どのくらいの料金を取っているのか、私はまったく知りません。だから相場感も何も無いままに、「A4判1ページ1,000円」という設定にしてはじめてみました。はたしてどの程度利用者が居るかどうか、皆目見当もつきません。まあ、お客が居なければやめたって良いわけですので、さほど期待もせずに依頼フォームを起ち上げたのでした。 すると、これが案外、そうおおぜいではありませんが、依頼者が居たのです。 割合としては、移調譜の作成という依頼が多数を占めています。いわゆる「キーを変える」というヤツです。 器楽曲の場合は、キーを変えるというケースは滅多にありませんが、声楽だといとも簡単にそれをやります。先生が「もう少し下げて歌ってみたら?」と指示することも珍しくありません。 作曲家の立場からすると、曲の調性というのはそれなりに理由があって決めているので、簡単にキーを変えて貰っても困る気がするのですが、声楽の世界では昔からそういうことをしているのでした。有名どころだと「高声用」「中声用」「低声用」などと調を変えた楽譜がそれぞれ出版されていたりもします。 しかしたいていの曲は移調譜など出版されていないので、自分で用意するしかありません。歌い手自身は元の譜を見てキーを変えられる場合もありますが、伴奏ピアニストはそうはゆかないのです。移調演奏のできるピアニストというのは限られていて、ほとんどの場合、移調した譜面を要求されます。 私も若い頃よく歌の伴奏などをしましたが、歌い手が一生懸命自分で書いたと思われる移調譜を渡されたことが何度かありました。おぼつかない筆跡で、大変な想いをして書いたらしいことが見てとれます。そんなことなら私が移調譜を作ってやるのに、とも思いましたが、向こうとしては、充分なギャラも払えないのに移調譜作成までお願いしては申し訳ない、という気持ちだったのでしょう。われわれ作曲家は、譜面を書くのがいわば本業みたいなものですから、まったく苦にはならないのですが、それ以外の人にとっては、楽譜を書くという作業が非常にしんどいことだという事情が窺われます。 移調譜作成を依頼してくる人がちょくちょく居るということは、きれいで見やすい楽譜を自分の代わりに作ってくれるなら、1ページ1,000円を支払っても構わない、と思う程度には大変なのでしょう。 なお、作譜ソフトを使えば誰でも見やすい譜面が作れるかといえば、実はそうではありません。作譜ソフトのデータをそのまま版下にしているとおぼしい出版譜で、おそろしく見づらい譜面に接したことがあります。大ざっぱに言うと、手書きの楽譜が見づらい人は、コンピュータで作ってもやっぱり見づらいものしかできないのだと言えます。ちょっとした小節の割りかた、ごく些細な音符の配置などで、譜面の印象というのはかなり変わるものなのでした。 器楽の移調譜づくりで、代表的なのは、クラリネットなどのもともとの「移調楽器」のパート譜を移調するという依頼です。現代のクラリネットは、B管がいちばん一般的で、A管がそれに次ぐ感じですが、古典作品だとC管という指定がされているものがけっこう多く、当然ながらパート譜もC管のために書かれています。そのままではA管やB管では吹きにくいので、調を変えるというわけです。 C管クラリネットというのは現代でも存在はしますが、持っている人は少なく、まずオーボエ・ダモーレと同じくらいのレアさでしょう。 手慣れた奏者であれば、C管のパート譜を見ながらB管で吹いたりもできるのですが、アマチュアオーケストラなどの場合にはそうもゆかず、何度も依頼してくる人が居ます。譜面作成サービスにも「お得意様」が何人かできたのは頼もしい限りです。 元の譜面が用意できず、Youtubeなどの音源から「採譜」してくれ、という依頼もちょくちょく受けます。耳コピとなると手間が段違いにかかるので、さすがに単価を少し上げています。 この種の依頼でいちばんプレッシャーを感じたのは、自作の曲なのだが自分では楽譜が書けないので、演奏したものを聴いて譜面にして欲しいという案件でした。これは緊張しますね。幸いそんなに複雑な曲ではなかったのと、依頼者が変なこだわりを持つ人でなかったのとで、無事に済ませられましたが、作曲家というのは多かれ少なかれいろんなこだわりを持っているのが普通なので、こういうのはできることなら遠慮したいところです。 耳コピではないのですが、作曲家のこだわりにふりまわされた件もありました。詳述は避けますが、オーケストラの新曲で、初演団体の事務方から依頼を受けたのでした。 手書きのスコアを示され、パート譜を作るために、ここから作業用のスコアを作成して欲しいというのが依頼内容でした。あくまで作業用のスコアであって、指揮者がそれを見て振るというわけではありません。 そういう依頼でしたから、私はなるべくパート譜にしやすいように、記号を書き加えたり、異名同音(例えばファ#とソ♭)で音を置き換えたり、いろいろと工夫して提出しました。 ところが、事務方ではそれを作曲者に見せてチェックして貰ったわけです。それはまあ当然といえば当然なのですけれども、あくまで作業用のスコアであるということの説明が足りなかったのかもしれません。作曲者としては、自分が書いたのと違う箇所には当然チェックを入れます。その結果、私が工夫したところはほとんどすべて却下されました。 例えば、「親切臨時記号」。#や♭といった臨時記号のつけかたにはルールがあり、原則としてはそれがつけられた小節のあいだだけ有効です。当然、次の小節に同じ音があれば、#や♭のついていない音ということになります。しかし、実際の演奏になると、次の小節でも「つい臨時記号をつけてしまう」というエラーがちょくちょく発生します。特に新曲の場合などはほとんど避けられないほどのエラーです。 そのエラーをなんとか減らすために、原則的なルールでは必要のない臨時記号を記す場合があり、これを親切臨時記号と言います。 私がつけておいたそれらの親切臨時記号は、全部外されてしまいました。どうもその作曲者は、 「親切臨時記号など不要!」 というポリシーの持ち主であったようです。演奏の助けになるようにと私がつけたすべての記号に「トル」の赤文字が添えられているのを見たときには、正直なところかなり凹みました。 それだけではありません。その作曲者は、だんだん出版用スコアの校正でもしている気分になってしまったようで、見てくれの部分にもいろいろとこだわった注文をつけはじめました。作業用スコアにはほぼ必要のない指摘です。 ぶっちゃけて言うとこのときの仕事は規定により3万円ばかりの料金ということになっていたのですが、その程度の金額で必要のない修正のために何度も突き返されてはたまりません。あいだに立ってくれている事務方の人が気の毒だとは思いつつ、私は出版用スコアの作成をしているわけではないこと、音の間違いなどならいかようにも対処するが、これ以上書法上のダメ出しがあっても応じかねること、などを宣言せざるを得なくなってしまいました。 どうも、新曲がからむと、いろいろ面倒になるようです。 今年は上半期が「凪」だったのに、先月末から立て続けに依頼が入りました。
その最初を飾ったのが、少し風変わりな仕事でした。ある地方の民謡を三十何曲も採集した手書きの譜面を浄書して貰いたいという依頼だったのです。譜面を書いた本人からではなく、あいだに立った人が居るという点で、上記のオーケストラ曲と似た事情ではあるまいかという気がしましたが、まとまった規模ですので逃すのも業腹です。 まあ、送信されてきた手書き譜を見ると、採集者は譜面を書ける人ではあるものの、その道の専門家というわけではなさそうに思えました。楽譜を書く上での基本的なルールのいくつかをご存じないかに感じられたのです。それならあんまりうるさいことは言ってこないかな、と希望的観測をしています。 その基本的なルールをわきまえた形に書き直そうかと提案したのですが、いちおう手書き譜に書かれたとおりにしてくださいと返答が来ました。あいだに立った人としては、そう言うしか仕方がないでしょう。しかしいささか隔靴掻痒の感が免れません。二度手間になりそうな気がしてならないのでした。 とはいえ、この作成譜は、どうもそのまま版下となって、どこかから出版されそうな雲行きです。それはそれで、なんとなくワクワクします。 Finaleのデータそのままで送って欲しい、という件がふたつも入りました。 作成した譜面は、ほとんどの場合PDFファイルにしてクライアントに送信します。以前は郵送ということも多かったのですが、それだと印刷・郵送のための実費を別に申し受けることにしているので、クライアントとしては余分な費用がかかります。私としても、データを印刷し、それを封筒に入れて宛名を書き……という手順が面倒くさいし、ミスがあっても修正版を送るのが二度手間・三度手間となりかねません。最近は家にプリンターが無くとも、コンビニエンスストアのコピー機などにフラッシュメモリをセットすれば、PDFなどのデータを直接印刷できるようになったということもあり、PDF納品が圧倒的に主流になっています。 Finaleデータで欲しいという依頼は、譜面作成サービスを10年ほどやってきましたが、これまでは1、2件あった程度でした。同時期にふたつも入るのは珍しいと言えます。クライアントがFinaleを持っていれば、送ったデータにいろいろと手を加えることも可能なので、確かに便利ではあるのでした。 ただ、ちょっと問題があります。Finaleは毎年のように新しいヴァージョンが発売されるソフトで、新しいヴァージョンでは古いのを読めますが、その逆はできない場合が多いのです。 私はずっとFinale2006というのを使い続けていました。機能的にそれで充分だとも思っていましたし、それだけ古いヴァージョンで作ったデータなら、相手が読めないということはまず考えられません。 ところが、この春にパソコンを買い換えたところ、Finale2006がインストールできなかったのです。CD-ROMを挿入してインストールしようとしたら、途中で止まってしまいました。それでもホーム画面にはアイコンが出ていたのでクリックしてみたら、起動は問題なくできましたし、作業も可能でした。しかし致命的なエラーがありました。セーブができなかったのです。 セーブのできないデータなど、クソの役にも立ちません。やむなく、私は12年ぶりにヴァージョンアップすることにしました。12年も経って、もうヴァージョンアップ扱いしてくれないのではないかと心配しましたが、ちゃんとヴァージョンアップ価格で入手できました。 そしていま使っているFinale25ですが、この12年のうちになんとファイル型式まで変わってしまいました。Finaleのデータはもともと「mus」という拡張子がついていたのですが、いまは「musx」になっています。Wordのデータも「doc」だったのが「docx」になりましたが、それと同様ですね。Finale2012以前のヴァージョンでは、この「musx」ファイルを読むことができないようです。相手が持っているのが2010とかだったら、せっかくデータを作成して送っても、先方で読むことができなくなります。 幸い今回の2件は、どちらもmusxファイルが読めるヴァージョンをお持ちだったようで、問題はありませんでしたが、今後気をつけなければならないでしょう。 これまでに、ずいぶん多くの曲を入力してきました。
電子データですので、できたものをクライアントに送ってしまっても、私のところにもデータがそのまま残っています。Finaleのデータも、それをPDFに変換したデータも、容量はたいしたことが無く、収納している外付けハードディスクにはまだまだ空きがあります。 楽譜は、音楽家にとっては財産です。私は期せずして、譜面作成サービスの料金と同時に、楽譜という財産をハードディスクの中に蓄え続けています。身近に大災害でも起こったら、私はこのハードディスクだけ持って逃げることにするつもりです。 この副業も、事情の許す限り続けてゆこうと思っている次第です。 (2018.8.25.) |