先日、「ぐるっとパス」というのを購入しました。東京都内とその近辺の博物館・美術館などの、入場券もしくは割引券などが1冊にまとめられたものです。このぐるっとパスで入れたり割引を受けたりできるミュージアムは実に92館もありますが、購入価格は2200円で、なかなかお得と言えます。 とはいえ、有効期限が最初に使用した日から2ヶ月しかないので、使える全施設に足を運ぼうとすれば、毎日ひとつずつ行っていても間に合わないわけです。 暇なときにせいぜい美術館めぐりをしようか、という気になるところですが、かなりのペースでいろんなミュージアムに足を運ばなければ、もったいないことになります。ミュージアム以外でも、上野・多摩・井の頭の都立3動物園にも入場できます。 マダムはけっこう美術館めぐりが好きで、絵画のみならず陶芸やデザインなどにも興味があるので、いろいろ行く予定を立てています。一方、私は案外と腰が重くて、あんまり美術館に出かけることがありません。暇なときにせいぜい、と言っても、そんなに暇なときが無いのが実情で、その中で「今日こそは」と思い切らないことにはなかなか行く機会が得られないのでした。 今日(2018年9月17日)は敬老の日で、マダムの毎週月曜に入れている仕事が休みだということで、マダムは一日じゅう美術館めぐりを愉しむべく、朝から出かけてゆきました。 私も一緒に、という話もあったのですが、マダムの行きたいミュージアムは私の興味と少々ずれていました。それで、今日は私は私で、興味のあるミュージアムを訪ねてみることにしました。 よく考えれば、私はマダムと較べると時間が自由になりやすく、何も今日出かけなくとも良かったのですが、上に書いたとおり、何か「思い切り」が無いと腰が上がらないたちではあり、マダムと同じ日に別行動で別々のミュージアムに行くというのもなんだか面白そうに思えてきて、やはり出かけることにしたのでした。 と言っても、マダムを見送ってすぐ私も出かけたというわけではありません。しばらく仕事をして、それからほんの短時間うたた寝をして、気がつくともう13時半近くなっていました。もう今日はこのまま家に居ようかとも思いましたが、マダムが帰ってきてがっかりされそうな気がしました。とにかく外に出ることにします。 とりあえず、行くなら最初に行こうと思っていたところがあります。池袋のサンシャインシティの中にある古代オリエント博物館です。 古代オリエント博物館には、もう30年近く前に、スキタイの黄金細工展を見に行って以来です。スキタイというのは最古の遊牧民族と言われる人々で、紀元前8〜3世紀に黒海沿岸を中心に活躍しました。遊牧というと原始的な生活を想像しますが、実は農耕よりも新しいライフスタイルなのだそうです。古くからおこなわれていた「牧畜」と遊牧を混同する人が多いのですが、両者はまったく別物らしいのでした。 それはともかく、古代オリエント博物館の展示は、メソポタミア・エジプト・イランのそれぞれの出土品と、それらを一挙に貫通させたマケドニア以降のヘレニズム文化のコーナーに分かれていて、各地域の特徴がわかりやすく解説されていました。 あのあたりの国々の消長というのは、何度聞いてもよくわかりません。まあほぼ5千年に及ぶ記録の残っている地域ですから、複雑怪奇なのも無理はないのですが。 中国史だと、いちおう正統とされる王朝が連綿と交代していて、それらを軸にして周辺も考えてゆくというスタンスがとれますが、中東地域はどこが正統王朝ということがなく、あっちこっちにできた小王朝があるとき急に力を得て大帝国を築き上げ、しばらく覇権を握るものの、また別の地域に興った王朝によって亡ぼされるということを繰り返しています。それぞれの覇権国家がどんな特徴を持つ、どんな政策をおこなった国であったのかということもイメージが汲み取りづらいのでした。アッシリア帝国が相当に苛酷な収奪をおこなったらしいとか、アケメネス朝などイラン系の帝国は比較的おだやかな統治をしたようだとか、その程度の認識しかありません。もう少し勉強してみようかとも思います。 ハンムラビ法典の石碑のレプリカが置いてありました。「眼には眼を、歯には歯を」で有名ですが、これがしばしば誤解されているように「やられたら、やり返せ」という意味ではないのは明らかで、その旨は解説文にも書かれていました。正しくは、 ──もしアウィールムがアウィールムの仲間の眼を損なったら、彼らは彼の眼を損なわなければならない。(第196条) ──もしアウィールムが彼と対等のアウィールムの歯を折ったなら、彼らは彼の歯を折らなければならない。(第200条) という条文になっているそうです。アウィールムというのは上層の自由市民(貴族)を意味し、この条文はあくまでそのアウィールム同士が争ったときにのみ適用されるのでした。アウィールムがそれより下の身分の者を傷つけた場合は罰金刑となりました。 この「彼ら」というのが誰なのか、複数になっている以上被害者ではあり得ないのだが、そのあたりはまだ謎だ、と解説されていましたが、私の感覚ではそんなに難しく考えることはないと思います。「彼ら」は明らかに司法官を意味するのでしょう。ハンムラビ法典は史上初の成文法として評価されますが、ここに書かれた条項は、罪刑法定主義と、勝手な復讐の禁止をあらわしているとしか思えません。 ──争いによって市民の肉体が傷つけられた場合、国家が責任を持ってそれと同等の刑を加害者に科すので、被害者やその家族は勝手に復讐をおこなってはならない。 「眼には眼を、歯には歯を」の条項の言わんとしているところはそういうことでしょう。復讐は往々にして過剰報復となり、復讐が復讐を生んでのっぴきならない宿怨になりがちです。ハンムラビ王はそういう憎悪の連鎖を好まなかったのだと思われます。つい百数十年前まで、れっきとした先進国でも個人の復讐が認められていたことを思うと、3000年以上前のこの法典がいかに進んでいたか、感嘆するよりほかありません。 古代オリエント博物館を出て、さてどうしようかと思いました。もうひとつくらいは足を運べそうです。
博物館はサンシャインシティの中でもいちばん池袋駅から遠い、文化会館の中にあります。雑踏の中を池袋駅まで戻る気がせず、「バスターミナル」と記されているほうへ行ってみました。文化会館の1階がサンシャインのバスターミナルに隣接しています。 行ってみると、発着するのは長距離の高速バスやリムジンバスがメインらしく、路線バスは1系統しかありませんでした。明治通りを通って渋谷駅まで行く都営バスです。池袋駅を経由するようでした。この系統、渋谷駅発の便にはけっこう乗ったことがあったことに気づきましたが、サンシャインまで来たことはありません。 このバスに乗って行ける施設が無いかどうか、ぐるっとパスを繰って探してみました。候補はいくつかありましたが、その中から漱石山房記念館を選びました。なんと去年オープンしたばかりの新しい施設です。 バスで直接行けたわけではなく、東新宿駅前で下りて、都営大江戸線に乗って2駅、牛込柳町で下車します。そこから外苑東通りを少し北上し、牛込保養センターのところを左折すると記念館があります。 外苑東通りを歩いていたら、なんとなくあたりに見覚えがあります。曙橋でクール・アルエットの指導をしたのち、たまにバスに乗って目白駅や雑司ヶ谷に出ることがあるのですが、そのバスが通る道ではありませんか。いちど歩いたこともありますが、歩いた頃にはまだ漱石山房記念館はできていなかったかもしれません。 記念館はまさに漱石の旧居跡に建てられたそうです。私は漱石のファンというわけではなく、漱石の心酔者であった内田百のファンであったわけですが、なるほど百閧ヘ毎週木曜日にここに通っていたのかと、大げさに言えば感無量でした。漱石は、あまりに訪問者が多くて仕事に差し支えるので、毎週木曜を「面会日」として、他の曜日は面会謝絶ということにしていました。まあ寺田寅彦などごく親しい何人かは、それ以外の曜日にも訪ねていたようですが、ともかく木曜晩には漱石を師と仰ぐ人々が争って参集し、大変な賑わいになっていたそうです。 のちに百閧燻tの真似をして面会日を設定したのですが、週一回などというペースではあわただしくてとても対応しきれず、月2回、「お朔(ついたち)十五日」だけ人と会うことにしていました。漱石先生はよくもまあ毎週、あんな騒ぎを辛抱しておられたものだ、と感心しています。 展示はコンパクトにまとめられていましたが、書斎を復元してあったのには驚きました。ペルシャ絨毯を敷いた洋間で、絨毯の上に机を置き、その前に2枚重ねの座布団を敷いて執筆したのだそうです。原稿に詰まると、鼻毛を抜いては原稿用紙に植えつけていたとか。『吾輩は猫である』にも苦沙弥先生がそんなことをしているシーンがありましたが、漱石の晩年の文章の校訂を任されていた百閧ェ、反故になった原稿用紙を記念に貰って帰ったところ、その何枚かには本当に漱石の鼻毛が植わっていたそうで、「漱石遺毛」という随筆が書かれています。 あらためて思ったのですが、漱石の小説家としての活動はわずか11年間に過ぎませんでした。この短期間に、よくぞあれだけの名作を生み出せたものだと感嘆します。文学作品としての内容もさることながら、漱石の凄みは、「どんなことでも文章で書ける汎用的な文体」を確立したことにあるような気がします。言文一致の創始者は二葉亭四迷ということになっていますが、四迷の文章を現代人がすらすら読めるかというと、そう簡単ではありません。しかし漱石の文章なら、もちろん用語などに注釈が必要な場合はありますが、基本的な文体としては現代の中学生でも充分に理解できます。小説だけではなく、「満韓ところどころ」のようなルポルタージュも書けるわけで、もっと後輩である泉鏡花のルポルタージュが惨憺たる悪文になっている(司馬遼太郎によると)のに較べると、漱石の文体ははるかに「なんでも書ける」スタイルになっていると思います。 漱石が文筆活動をはじめたのは、同級生であった正岡子規の死後であり、また同じく同級生の山田美妙もほぼその文学的活動を終わらせたのちのことで、それだけに彼らの試行錯誤を参考にし、大人としての観点から文体を組み立てるということができたのでしょう。その意味では「漱石翁」などと呼ばれたのも妥当に思われますが、その「翁」が死んだ齢よりも、自分がとっくに年上になってしまっていることに戦慄を覚えもします。 コンパクトな展示ですが、いろいろ考えさせられました。 (2018.9.17.) |