忘れ得ぬことどもII

マダムの救急搬送記

 うちのマダムには妙な願望がいろいろあって、それが叶った場合に周囲がけっこう迷惑するんではないかということも含まれています。
 一例を挙げれば、「入院してみたい」というのがそれです。まず入院するほどの傷病を患うというのが困ったものですし、入院となれば費用もばかになりません。ある程度は保険が効くとはいうものの、だとしてもその後の保険料が上がったりすることもあるので、入院などしないに越したことはないわけです。しかしマダムの入院願望は根強く、どんなパジャマを着るかとか、どの縫いぐるみを持ってゆくかとか、そんなことばかりちょくちょく妄想しています。
 私はしばらく前に検査入院をしたことがあり、大いにうらやましがっていました。
 去年の春、マダムは親知らずの抜歯をすることになりました。血管やら神経やらがけっこう複雑にからまって、近所の歯科医では手に負えないというので、大学病院に紹介状を書いてくれました。それで大学病院に行くと、いわゆる日帰り入院をして抜歯手術をおこなうということになったそうで、マダムはなんだかウキウキしながら帰ってきました。日帰りでも、入院というのが嬉しかったのでしょう。
 朝から出かけて、午前中に抜歯手術を受け、しばらく病室で休んで、夕方近くなって帰ってきたわけですが、病室で昼食を食べたのがワクワク体験であったようです。まだ麻酔が効いているので、配膳員がベッドまで運んでくれたそうですが、あとで明細を見たら、その配膳にまで料金がかかっていたのでおやおやと思いました。自分で取りに行っていればそこは料金がかからなかったのです。
 個人病院ならまた違うのかもしれませんが、入院していると、ちょっとしたことにいちいち料金が発生するというのも困った点です。

 そんな真似事みたいな入院ではあったものの、マダムとしては長年の願望が叶ったというもので、「入院したい」と口走ることは少なくなりました。もっとも、「少し長い入院をしたい」とたまに口走るようになったのはまた別の話ですが。
 それと共に、「救急車に乗りたい」というのもマダムの願望のひとつでした。
 マダムが救急車に乗ったことが無いわけではなく、彼女の母親が口を切ったときに119番通報して、病院まで同乗していったということはあるそうです。しかし、自分自身が搬送されたということは無く、いちど救急搬送されてみたいと言っていたのでした。
 そんな中、私が去年の10月の自転車事故の際に救急搬送されたもので、これまたうらやましがって、余計に言いつのるようになりました。救急搬送だって、それを必要とする事態のことを考えると、経験しないに越したことはありません。むしろ聞く人によっては怒られそうな願望です。
 ちなみに私はその搬送が2度目です。1度目はもう20年以上前、尿管結石をやったときのことで、朝方に急激な疼痛に見舞われて、たまたま私のところを訪ねていた母に救急車を呼んで貰ったのです。私の痛がりように母はうろたえて、
 「えっ、救急車って何番にかければいいんだっけ」
 などとパニクっていました。
 まったく冗談ごとでは済まないのですが、マダムは
 「2回も救急車に乗って、いいなあ」
 と太平楽にうらやましがっているのでした。
 そんなマダムが、ついに救急搬送されたのです。

 金曜の晩はChorus STの練習があり、マダムと私はそれまで別々の用事があるので、練習がはじまる1時間かもう少し前に練習場所の最寄り駅あたりで落ち合って、夕食をとってから一緒に練習に出席するというのが毎週の習慣になっています。
 昨日(2月8日)の晩もそのようにしていました。最近のChorus STの練習場所は、通常は巣鴨教会というところなのですが、冬季は教会の広間では暖房の利きが悪くて寒いため、古巣の田端で練習することがあります。昔、東京水族館と大きく書かれていたビルで、実際に都内の水族館に魚を卸したりしていたのですが、空いた部屋がいくつかあって、社長夫人であった故竹腰里子さんの好意により、合唱団などの練習場所として使わせて貰っていたのでした。Chorus STは、設立当初からここを練習場所にしていました。
 それが全面的な建て直しをすることになり、いまの巣鴨教会に移ったわけですが、建て直したビルはマンション兼、本格的な音楽スタジオとして開業しました。
 音楽スタジオの相場的な価格よりもだいぶ安く借りられるので、人気があり、最近では場所を押さえるのもなかなか大変になっています。まして、合唱団が毎週決まった時間に使わせて貰うということはできなくなってしまいました。それで練習場所は巣鴨教会のままになっていますが、臨時にここのスタジオを借りるということはときどきやっています。
 昨日はちょうど田端のスタジオを使う日だったので、マダムと私も田端駅で待ち合わせました。
 駅近くの古い中華料理屋で夕食をとり、まだ少し時間があったので隣のマクドナルドに入ってコーヒーを飲んで行こうとしました。
 椅子に腰掛けて、マダムがおもむろにティッシュペーパーを取り出して鼻をかんだと思ったときに、異変が起こりました。
 出てきたのは鼻水ではなく、血だったのです。それもかなり勢いがあって、鼻に当てていたティッシュがたちまち真っ赤になりました。
 マダムはあわてて新しいティッシュを当てましたが、それも見る間に赤くなります。ティッシュだけでは間に合わなさそうなので、私はゴミ箱の上から紙ナプキンを何枚も引き抜いて渡しました。
 とにかく出血を止めないとどうしようもないので、ティッシュを丸めて鼻孔に詰めさせます。マダムがやると、丸めかたが甘いようですぐにまた血がにじんでくるので、私が固めに丸めて詰めさせました。それも何回か真っ赤になったのち、ようやくひとまず、詰めた紙に血がしみてこないようになってひと息つきました。
 それにしても出血量が妙に多いようです。私も鼻血を出すことがありますが、こんなに大量のティッシュが、持ち重りするほど血を含むということは見たことがありません。
 とにかくそんな様子なので、マダムは練習に出席せず帰宅することにしました。私もついてゆこうと思ったのですが、大丈夫だから練習に出てくれと言われました。
 心配でしたが、いちおうそれ以上血は出てこないようでしたので、くれぐれも気をつけるよう言い置いて練習に行きました。終わるまで、気がかりでなりませんでした。

 練習が終わるとすぐに飛び出して、帰宅します。
 マダムは家の寝室で横になってテレビを見ていました。鼻にはティッシュが詰められていましたが、詰めた紙は特に赤くなってはおらず、まあ無事であったようで安心しました。
 ところが、テレビで見ていた映画が終わり、マダムが洗面所に行ってうがいをした途端、悲鳴が響き渡りました。
 また凄い勢いで鼻血が出てきたらしいのでした。ある程度血が固まっていたのが、うがいをしたことでのどの側からその固まりが排除されてしまい、再び出血がはじまったということかもしれません。
 「#7119に電話して!」
 とマダムが叫びました。
 私は知らなかったのですが、#7119というのは救急相談ダイヤルだそうです。マダムはChorus STの仲間からのメールでそのことを知ったようでした。
 言われるままに電話で#7119をダイヤルしましたが、何度ダイヤルしても話し中コールが鳴るばかりです。
 タブレットで#7119と検索してみると、「#7119 埼玉」というキーワード候補が出てきたのでそれを出してみると、固定電話からかけるべき番号が判明しました。どうも#7119だけのは、携帯電話からのコールであったようです。
 今度はすぐにつながりました。マダムの容態を告げると、まずとりあえず洗面器を用意し、その上にうつむきになって小鼻を押さえているよう指示されました。その上で、いま埼玉県内に耳鼻科の救急診療のできる登録病院が無いので、都内を当たってみるように言われ、東京都の救急相談の番号を教えられました。
 すぐに東京都のほうにかけてみました。5つばかり救急病院の連絡先を教えてくれましたが、この時点になるとマダムが、洗面器の上にうつむきながら
 「119、119!」
 と絶叫しつつあったので、電話の声が聞き取りづらくなっていました。
 「あの、本人が救急車を呼んで欲しいと言ってるんですが、呼んだほうがいいでしょうか」
 と訊ねてみると、
 「ああ、お呼びになっても良いと思います。ただまあ、伺った様子ですと、それほどの緊急性は無いと思われますが……」
 という答えでした。
 病院に連絡して、タクシーで向かうか……と思ったのですが、洗面器の中はもう真っ赤で、押さえているタオルも血でびっしょりです。しかもいままで出血していた鼻孔とは反対のほうからも血が出てきて、口からも出てきたそうです。さらに指先が冷たくなってきたとか。これは悠長なことを言っているときではないと判断し、すぐに119番をダイヤルしました。
 もう夜半なのでやや気が引けましたが、15分くらいで救急車が到着しました。私たちはそれまでに、保険証やお薬手帳ほか必要なものを用意していました。
 かくして、マダムは救急車で搬送されるという長年の願望を叶えることができたのでした。
 私ももちろん同行します。私は4ヶ月前に搬送されたばかりであり、そのときとおなじ救急隊員だったらちょっと気まずいな、と思ったりしましたが、別の分署からの派遣でした。

 救急車に乗っても、すぐには出発せず、しばらく応急処置というか、ガーゼを当てて鼻をかなり強く圧迫するということをしていました。
 「もしこの処置で血が止まるようでしたら、病院には行かなくて良いと思うんですが、どうしますか」
 と訊かれました。なんでも、夜間救急診療の場合、1万円くらいは無条件にとられてしまうらしいのでした。これは実際の診療費や処置費がいくらであろうと戻ってはこないそうなので、いちおう確認されたわけです。
 しかし、この大量出血の理由がはっきりしないと心配ですし、いつ再発するかもわかりません。とにかく診察して貰わないと安心できませんので、やはり搬送して貰うことにしました。
 救急車に乗ってからは、そんなにひどい出血にはなっていませんでした。どうもそれまでは、圧迫のしかたが甘かったようです。最初は救急隊員がマダムの鼻をつまんでおり、そのあとで自分でつまむよう言われ、搬送中に手がしびれてきたというのであとは私がつまんでいました。ときどきガーゼを外して様子を見られます。家にいたときのような噴出はしていませんでしたが、といって血が止まったわけでもなさそうでした。
 川口市内には対応できる病院が無く、越谷市にある病院に運ばれました。さっきの救急相談と話が違うようですが、たぶんその病院は、救急相談ダイヤルに登録していなかったのでしょう。
 夜中のことでもあり、そうでなくとも救急車の中からは外の景色はほとんど見えません。どんな道筋で来たのかもわからず、自分がどのあたりに居るのかもわかりませんが、とにかく病院に到着しました。

 私が受付で書類に記入したりしているうちに、マダムは救急隊員に連れられて処置室に行ってしまいました。
 救急隊員に言われたように、1万円あまりを夜間救急料金として請求されると聞かされましたが、財布には現金がろくに入っていません。
 「カードでいいですか」
 「すいません、これに関しては現金だけでお願いしてます」
 「はあ。どこかでお金下ろせますかね」
 私が訊くと、近くのコンビニエンスストアの場所を教えてくれました。
 言われたとおりに歩くと、目の前に鉄道の高架が見えました。まだ自分の現在位置ははっきりしませんが、越谷市であれば、JRの武蔵野線東武スカイツリーラインか、どちらかでしょう。線路沿いということは判明しました。
 コンビニのATMでお金を下ろして病院の受付に戻ると、
 「いま処置中ですので、そこでしばらくお待ちください」
 と言われました。待合いロビーがあったので、そこの長椅子に腰を下ろして、持ってきた文庫本を読みはじめました。
 真夜中だというのに、病院の廊下を行き交う人が思いの外多いのに驚きました。どこかの制服なのか、同じような服を着た5人組くらいの女性のグループが近くに坐っており、そのひとりがいやに泣きじゃくっていたのが気になりました。
 そんなに読み進めるまでもなく、処置室に呼ばれました。
 鼻の奥の動脈系の血管が破れて出血していたそうです。なるほど、出血量が多く、容易に止まらなかったのは、動脈系だったからであるようです。鼻の奥というのは外気に触れる箇所でもあって、血液を冷やす効果があることもあり、動脈系と静脈系の毛細血管がけっこう錯綜しているのだと思われます。
 そういえば血の色も、静脈血の赤黒い感じではなく、鮮血という感じのあざやかな赤色でした。
 処置は、レーザーを当てて血管を灼いておいたとのことでした。2箇所に当てたそうです。つまり、破れた箇所の前後を灼いて、血が通らないようにしたということなのでしょう。
 実は、マダムの父親が、しばらく前に同じ処置を受けています。義父の場合は動脈系ではなかったのか、いちどに大量出血するというのではなく、何度も繰り返し鼻血が出るという症状だったようです。近くの耳鼻科医院に行っても原因がわからず、大きな病院で診て貰い、今回のマダムと同じく、血管をレーザーで灼いたのでした。マダムは処置内容を聞いて、
 「親子なんだな〜」
 と実感したとか。
 もっとも、血管が破れていたというのは「症状」であって「原因」ではありません。鼻の奥は確かにデリケートなところですが、動脈系の血管がそう簡単に破れるとも思えないのです。血圧が高いとか、血管が劣化しているとか、もっと根源的な原因があるはずで、今後の生活で気をつけてゆかなければならないのは当然のことです。

 1週間後にもういちど様子を見るために通院することになったようです。場所によっては来にくそうだと思いましたが、さっきの高架のところに出て、左に進むと、正面すぐに南越谷駅が見えました。高架はとうきょうスカイツリーラインだったのです。と同時に、武蔵野線とスカイツリーラインが交差する駅でもあって、そこから徒歩3分という距離の病院は、交通の便は非常に良かったようです。
 マダムは普通に生活して差し支えないようでしたが、注意書きを見ると、刺戟物を摂ったりするのはやはり控えたほうが良さそうでした。それを知るや否やカレーを食べたがったマダムって。
 興奮しないように、という一文もありました。要するに血管が拡がることになるようなふるまいは避けるべきであるようです。マダムはしょっちゅうなんでもないことで叫ぶ人なので、ここも微妙に心配です。
 破損箇所を通行止めにするという処置で、今回の出血はおさまるでしょうが、その周辺の血管が破れやすくなっている可能性は否定できません。血管の若返りとか、そういうことも試みてゆくべきでしょう。まだまだ要注意です。
 マダムは願望を叶えたわけですが、救急搬送されるというのは、思ったほど楽しいことではなかったようです。それはそうでしょう。やはりされないに越したことはないのです。
 血が止まらないので、自分はこのまま死ぬのではあるまいかということをわずかながら本気で思いもしたそうです。実際の出血は、たぶん多めの献血程度だったろうと思いますが、あとからあとから血があふれてくる状態というのはどうしても恐怖感を覚えます。
 動脈系血管だと、処置して貰わないと容易に出血が止まらなかったはずなので、119番したのは正しい判断だったと思いました。
 マダムも今回の件で、いろいろ考えることがあった気配です。それによって今後、より良い生きかたができるのであれば、無駄ではなかったと言えるのではないでしょうか。

(2019.2.9.)

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