いろいろと物議を醸した「あいちトリエンナーレ」が閉幕したようです。この催しそのものは、同時進行的にあれこれとイベントが開かれるというものだったのでしょうが、イベントのひとつである「表現の不自由展・その後」が大騒ぎになり、ほとんどこれがあいちトリエンナーレの全体の印象を塗りつぶしてしまった観があります。 この企画の「芸術監督」が津田大介氏というところで、最初から首を傾げるような企画であったところがあります。津田氏がジャーナリストとかメディアアクティヴィストとか称しているのは知っていましたが、「芸術監督」を務めるような見識と立ち位置があったのかどうかは疑問です。芸術監督という役職はほうぼうで眼にしますが、少なくともなんらかのゲイジュツにおける実績のある人が任命されるものと思っていました。津田氏にそういう意味での実績があったとは聞いたことがありません。 私は自分で「表現の不自由展・その後」を観に行ったわけではなく、騒ぎのいきさつをネットで見ていただけですので、それほど詳細に語れるわけでもありませんが、いちおう表現者のはしくれではありますので、ひとこと申し述べておかなければならないかと思った次第です。細かい事実誤認などありましたら、ご指摘いただければ幸いです。 とにかく、展示の中に、韓国で量産されたお馴染みの「少女像」があったり、昭和天皇のご真影を燃やしてその灰を踏みにじる映像作品があったり、特攻隊員の遺書などを揶揄的に用いた造形作品があったりと、明らかに世間的な炎上を狙ったとしか思えないものがいくつも含まれており、その狙いどおりに炎上したというのが今回のてんまつであったと理解しています。 炎上を狙ったに違いないのですから、抗議が大量に寄せられるのも計画のうちでしょう。その中に脅迫めいた言辞があったとしても無理はない話です。それをもって 「ほ〜ら、日本という国はこんなに『表現の自由』を認めない国なんだ」 と勝ち誇るあたりまでがシナリオだったのではないかと私は見ています。ただ、炎上の度合いが彼らの思ったよりも大きくて、しばらくの閉鎖を余儀なくされたり、文化庁からの七千何百万円だかの助成金を打ち切られるという話になってきたので、少々狼狽したのではないでしょうか。少し混乱した時期があったのち、逆に開き直って、官憲による検閲だの弾圧だのとふたたび騒ぎ出したようです。助成金が打ち切られたのは痛かったかもしれませんが、「表現の不自由展」というコンセプトからは、むしろ騒ぐネタが供給されて大喜びというところだったのではないでしょうか。 トリエンナーレが閉幕して、閉会式で大村知事と津田氏が胴上げされる大盛り上がりになったそうですが、「ある意味」大成功であったのは間違いないと思います。地方のイベントがこれだけ全国的に注目されたのも異例だし、 「ほらほら日本は不自由だろ? 表現を弾圧するイヤな国だろ?」 と、誰に向けてかは知りませんがアピールできたのも、彼らにとっては「よっしゃぁ!」と拳を握りたくなるような快挙だったのでしょう。 一旦閉鎖して再開したときには、福島原発の被曝者を揶揄するような映像作品も追加されていたと聞きます。とにかく普通の日本人が眉をひそめ、いやがるであろうことをことさらにやって見せ、それで抗議が来たら「やっぱり不自由だ!」と叫ぶという、マッチポンプとしか言いようのない企画であり、その限りにおいては確かに大成功で、知事と芸術監督を胴上げしたい気分になるのもわからないではありません。 ただ、こんなアホな企画に七千何百万円という公金をつぎ込む意味があるかとなると、やはり「ふざけるな」と言いたくもなろうというものです。 世間的に物議を醸した問題の常で、「表現の不自由展・その後」に関しても、いろんなレベルの話がごちゃ混ぜになっていて、なんだかよくわからないものになっています。 いろいろな問題点はあるものの、煎じ詰めて言えば、 ──助成金を受けるために出願した書類と違うことをやっていたため、助成金が打ち切られた。 という、ただそれだけのことに過ぎません。 私もオペラ『セーラ』の上演に当たって、文化庁その他の助成金を貰えれば助かると思って申請書類を作ろうとしたことがありましたが、これがとんでもなく面倒くさく、私の手には余る作業でした。行政書士にでも頼まないと満足な書類など作れないのではないかと思えたほどでした。結局時間切れで断念したのでしたが、わずか数十万円程度の助成金を得ようとするだけで、もう大変なのです。その百倍もの助成金を分捕ろうとしていた企画に対して、厳しい審査がなされるのは当然ですし、提出書類と違う展示をしていたというようなことであれば、事後に打ち切られるのもなんら不思議ではありません。 それを、「助成金打ち切りは、政府による『表現の自由』の侵害だ」みたいなことを言い出すからややこしくなるわけです。いや、自分たちがそう言い張るだけなら、悪あがきしとるなあと受け取られるばかりで大した問題ではないのですが、お仲間みたいな連中が新聞やらテレビやらで同じようなことを言って騒ぎ立てるのが困ったものです。おかげでこの事案はすっかり「表現の自由」の問題にすりかえられてしまいました。 そこで考えなければならないのは、 ──「表現の自由」は無制限なものではない。人に不愉快な想いを抱かせるものを芸術と呼ぶのは間違っている。 という主張です。ネットではこういう主張もよく眼にしました。あれはアートではなく日本人へのヘイトだ、量産型「少女像」のとこに芸術性があるのだ、などと、大変かまびすしく意見が飛び交っていました。 私は個人的には、自分のことを芸術家とかアーティストとか呼んだり、自分の表現物のことを芸術とかアートとか呼んだりする手合いのことはあまり信用しないのですが、まあそれは措いておくとして、とりあえず表現物にはいかなる制限も無いものと考えています。 前に『アートのお値段』という映画を見たときにも少し書きましたが、現代アートというのは、古典作品とは違い、必ずしも誰が見ても心が洗われて感動するといったものではありません。人によっては「ふざけるな」と憤慨したくなるようなものもいくらでも含まれています。あえて観る者に不快感を与える作りかたを採ることも珍しくはありません。 美術作品だけではありません。音楽にもとんでもないのがあります。奏者がまず自分の片方の眼球をくりぬき、何年かあとにもう片方の眼球をくりぬく、などと指示している「楽譜」がちゃんと存在し、「作曲者」はそれを「音楽である」と言い張っています。もちろん「演奏不可能」な作品です。こんなのははっきり言って悪ふざけに過ぎないと思いますし、もし本当に「演奏」されたとしたら鑑賞者は「不快」どころではありません。「演奏会場」は阿鼻叫喚の巷ということになるでしょう。「作曲者」は、その阿鼻叫喚が音楽なのだと言いたいのかもしれません。 こんなものは音楽ではないと言ってしまえば簡単なのですが、ジョン・ケージの『4分33秒』、三つの楽章がすべて休符になっている「作品」がすでに音楽として認められてしまっている以上、この眼球摘出作品を音楽でないとかたづける根拠が無くなってしまっています。ケージは『4分33秒』について、人はこの曲の「演奏」中に、聴客の息づかいやら衣ずれ、遠くで聞こえる自動車の音、なんやかんやを聴き取るはずだ、と強弁しました。それが「音楽」なのだ、と言い張り、その強弁がある程度認められてしまいました。となると、奏者が眼球をくりぬくことで聴客の上げる悲鳴や怒号が「音楽」だ、と言い張られても、なかなか否定するのは難しくなるわけです。 だから、昭和天皇のご真影を燃やして踏みにじる動画、福島原発を揶揄する言葉をかわるがわる叫ぶだけの動画、特攻隊員の遺書を組み込んだドーム上の構造物の床に星条旗を張って「間抜けな日本人の墓」と題したオブジェなどを、制作者や関係者が芸術作品なのだと言い張るのであれば、それは芸術作品なのでしょう。周囲から「そんなのは芸術ではない」などと言っても仕方のないことです。 ちなみに大手メディアでは、これらの作品についてはほとんど触れず、「少女像」のことばかり報じて、あたかも「少女像」が問題になっているかのごとき報道をおこなっていました。これはなかば事実の歪曲と言うべきです。 この少女像というシロモノ、本来は在韓米軍の車輌に轢かれて亡くなった中学生だったかの女の子をモデルにして作られたのが、なぜか「従軍慰安婦」の像と曲解されて量産され、韓国内のみならず欧米などにも設置されています。日本軍は極悪にも、こんな少女まで強制連行して「性奴隷」にしていたのだ、というウリナラファンタジーの象徴となっているのです。確かにこんなものが展示されていれば、事情を知っている人は不快に感じるでしょうが、そんな猛抗議が寄せられるほどのことではないでしょう。抗議は主に、昭和天皇や特攻隊員を愚弄した「作品」に対して寄せられていたと思うのですが、そこを報じないので、 ──また嫌韓のネトウヨどもが騒いでいる。 みたいな印象にしかならないのでした。コメンテーターなどもその前提でしか話さないものだから、ことごとくがピント外れな論評になっています。 繰り返しますが、人に不快感を与えるのを目的とした「芸術作品」というのも、ありうると私は思います。 ただし、それに対し「不快だ」と批評するのもまた自由であるべきでしょう。不快感を与えるのが目的でありながら、「不快だ」と言われると激高するのでは、何をやりたいのだかわかりません。 制作者たちは、これらの作品が普通の日本人にとって非常に不愉快なものであることは、重々承知していたのだと思います。それで怒って抗議してくる人たちをあげつらって 「こういう連中が居るから表現が不自由になるんだ」 と嘲笑うというのが真意だったに違いありません。「ネタにマジレス、カッコ悪〜〜(笑)」みたいな意図だったのだと思われます。 ところが、実際に抗議を受けると、ムッとしてしまったのかもしれません。結局そのあたりの覚悟の無さが、大村知事や津田氏のブレブレな言動となって顕れているような気がします。 あまりの炎上ぶりに、イベントは一時閉鎖され、再開したときには、「撮影は一切不許可」「内容についてSNSなどにコメントするのも不可」「入場者を限定し、入場前には作家によるレクチャーを受けることとする」などというていたらくになっていました。「表現の不自由展」ではなく「鑑賞の不自由展」ではないか、と批判が巻き起こったのもむべなるかなでしょう。 撮影不許可はまあ他の展覧会でもよくありますから、まあ良いとしましょう。しかし「事前の作家によるレクチャー」となると、残念ながら「芸術作品」であることを諦めたのかと解せざるを得ません。作者が鑑賞前に「このような意図で制作したので、そのつもりで観て欲しい」と説明すること自体は、まあ現代アートにはむしろあったほうが良いことであるとも思えるのですが、それはあくまで指針というか参考であって、鑑賞者に強制されるものではありません。鑑賞者はそれらの指針や参考を頭に置いた上で作品と向き合い、自分の知識や感性や経験と響き合うところを探します。その結果、作者の意図とはまるで違うところに意味を見出したりしても、それはまったくの自由です。 で、「やっぱり不快だった」という感想を抱くのだって自由だし、SNSだろうとなんだろうとそれを表明する権利も持っています。「内容について触れるな」というのはかなり無茶な要求です。 一体に、こういうものを作る人々というのは、自分たちの「表現の自由」は声高に叫びますが、対立する立場の者の言辞は封じようとする傾向があります。例えば前に書いた、一橋大学で百田尚樹氏の講演会が中止に追い込まれた事件の際、津田氏は中止にするのが当然だという立場で発言してはいなかったでしょうか。 結局、他人の神経を逆撫でするようなことをするのは好きでも、自分の神経を逆撫でされるのは好まないということなのでしょう。こういうタイプの人は、あまり大きなことを言わないほうが良さそうです。 「こういうことをしたいのなら、好きなようにやればいい。しかし何も公金を使ってやることじゃないだろう。私費を投じて、好きな場所で開催すればいいじゃないか」
という意見が、まあいちばん妥当なところだと思います。ただこのイベントが、抗議を受けて炎上するところまでシナリオとしてもくろんでいたのだとすれば、公金を使ってやることに意味があったのだとも言えます。閉会式での胴上げは、そのもくろみの大成功を祝してのことだったのではないでしょうか。 もちろん、人々がそれを許容するかどうかは別問題です。今後、助成金の申請はさらに厳しいものになるでしょう。芸術の名の下に無批判に垂れ流していた助成金が、本当に文化振興の役に立っているのかどうかを、もっと厳重に審査すべきだという世論が高まるでしょうから。 展示されていた作品は、自分たちがゲイジュツと呼ぶのだからゲイジュツであったのかもしれませんが、そのゲイジュツとしての価値が高いものだったとはどうしても思えませんし、その後の炎上まで含めてのシナリオだったとしてもアホな企画であることに変わりはありません。「うわ〜、こいつは凄いな」と唸らされるような要素がこれっぽっちも感じられないのです。こんな企画には、おそらく二度と助成金が下りることは無いでしょう。一発芸みたいなイベントだったのであって、それで良いのだろうと思います。 表現の自由とか不自由とかについて、人々に深く考えさせるというものでもありませんでした。人に不快なものを見せて、見た人が不快だと抗議したら「表現の自由が侵された」と叫ぶ……今回の企画はひっきょうそれだけのものであって、そこになんの深みも面白みも感じられません。まあ、ジャーナリストでありメディアアクティヴィストである津田大介氏には、「芸術監督」という任は重すぎたのだろうと言うしかなさそうです。 (2019.10.15.) |