忘れ得ぬことどもII

長江の水害

 コロナウイルスで世界中大変なことになっていますが、その発祥地である中国では、長江流域の大水害に加え、バッタの大発生まで起こって、何やらこの世の終わりみたいな状況になっているようです。
 実際、疫病・洪水・蝗害と揃えば、あたかも黙示録のような光景であり、また中国においてはいくつもの王朝の末期に見られる「亡びの図」でもあります。
 バッタに関しては、目下アフリカから中東あたりにかけても大発生中だそうですが、それはサバクトビバッタという別種のもので、中国のはトノサマバッタに近縁の種類だそうです。蝗害(こうがい)というくらいで、古来イナゴだと思われてきたのですが、イナゴではなくバッタというのが正しかったようです。
 バッタの大発生は、旧約聖書などにも何度も描かれていますし、中国の史書にもたびたび記録されています。何千万、何億というバッタが突如として発生し、地上のありとあらゆる植物を食べ尽くしながら移動し、その通過したあとには文字どおり一木一草も残りません。当然ながら人間の食べるものもまったく無くなり、大量の餓死者が出ることになります。飢えた人々のうち多少なりとも元気の残っている連中は流民となり、食を求めて近隣の集落を襲うようになります。こういう流民がいちどきに大量に出てくると、もう官憲の手の及ぶところではなくなり、広域にわたる無政府状態となってしまいます。その中からだんだん大物が起ち上がって、王朝を倒そうとしはじめたりするのでした。
 こういう状況は、その「王朝」が共産党であっても、おそらく変わりは無いだろうと思われます。長江の水害とバッタは、対応を誤ると共産党の天下を揺るがすことになりそうです。

 水害の中心であり要所である三峡ダムは、私が大学3年の夏に船で旅したあたりでもあって、いささか他人事でない気もしています。1986年のことなので、当時はまだダム建設ははじまっていませんでした。
 私が船に乗ったのは、重慶から武漢までです。2泊3日の川下りでした。三峡ダムはこのあいだに建設されたわけです。上流にある重慶ではすでに洪水が起こっており、下流の街も次々と水没がはじまっています。
 船の切符はあらかじめ入手しておくことができず、重慶に行ってから買わなければなりませんでした。朝ホテルを出て船着き場に行くと、すでに大変な混雑です。とにかく列のひとつに並んでしばらく待ち、ようやく窓口へ辿り着いたと思うと、外国人用の窓口へ行け、と外にある小屋みたいな建物を示されました。やれやれと思いながらそちらへ行くと、因業そうなおっさんが居て、今夜の船はもう満室だ、と言うのでした。
 しかし、そこで引き下がっては中国の個人旅行はできません。私は「地球の歩き方」の記事で、そういう対応をされたときの対策を学んでおりましたので、最下等の船室で良いから乗せてくれ、と食い下がりました。おっさんは少し考えて、午後にまた来い、と言いました。
 仕方がないので、残りの午前中は街中の観光に宛て、昼食後にもういちど小屋に足を運びました。すると、3等船室のチケットが買えました。船室は5等まであるので、それを考えると比較的良い部屋だったと言えます。
 その後、もう少し世の中のことや中国のことなどをよく知ってから考えると、最初のときにおっさんにいくらか握らせれば、3等どころか2等船室も確保できたのではないかと思います。「地球の歩き方」にはそういう、ワイロを握らせるような汚い手段は掲載されていないので気がつきませんでしたが、あの国では安能務氏言うところの「銭は万能の宝貝(パオペエ)がまだ充分に通用しているはずです。まあ、学生風情がいきなりそんな裏技を使うのも変なものだったかもしれませんが。
 ともあれ私と、同行者の従弟とは、無事にその晩の船に乗ることができました。
 しかしその船旅は、なかなかハードなものではありました。少なくともいま同じことをしろと言われたら断るでしょう。
 3等船室というのは8人部屋で、カイコ棚のような2段寝台が4つ並んでいました。それはまあ良いのですが、風が吹き抜けない構造なので、真夏の旅にはいささかしんどいのです。いまはどうなっているか知りませんが、当時はまだ冷房などついていませんでした。4等船室は吹き抜けの16人部屋だったようで、むしろそのほうが楽だったと思われました。
 最下等の5等船室となると、まさに船底で、真夏に詰め込まれているとほとんど奴隷船みたいな様相であったようです。そのため、5等客はほとんど甲板に上がってきていて、甲板もえらくごった返していました。
 ちなみに2等以上はまったく別扱いで、甲板も食堂も別になっていました。冷房も入っていたかもしれません。
 3等以下の食堂は、メニューの選択肢も無く、行ってみるといきなりドンブリを渡されました。中国の街中でそこらの住人がよく食べている、煮た野菜をご飯に乗っけただけのものです。中華丼などというちゃんとしたものではありません。1、2回食べただけでイヤ気がさしてしまいました。あとの食事をどうしていたか記憶にないのですが、途中の碇泊地で何か買ったりしていたかもしれません。
 じっとしているだけで汗が噴き出てくるような蒸し暑さで、もとから蒸し暑さに弱い私は大半の時間を船室で寝てばかり居たようです。途中で三国志ゆかりの白帝城とか赤壁とかを通過しましたが、当時の私はまだ三国志についてもそんなに興味も思い入れも無く、わりとスルーしてしまったのがいまとなっては残念です。
 水の上なのだから涼しいだろう、と思えばまったくのあてはずれで、陰になるものもない水上でぎらぎらする太陽に照りつけられているわけです。真っ茶色の長江の水ではあっても、照り返しも半端ではありません。風も吹いているのかどうかわからないくらいです。夕方になってようやく少し涼しくなる程度でした。
 まあ大変な2泊3日で、武漢に着いたときには心底ほっとしたものです。しかし、出発地の重慶も、到着地の武漢も、夏の暑さでは中国でも指折りの土地で、南京と合わせて「中国三大かまど」などと呼ばれているのでした。武漢の船着き場の宿泊案内所でホテルを確保し、そこまで行ってようやくひと息ついたというところです。

 三峡ダムは、この重慶と武漢のちょうど真ん中あたりに建設されました。私が旅した6年後、1992年に建設が決定され、94年に着工、15年をかけて2009年に完成したのでした。
 世界最大級の河川である長江の中流域に建設されたこの巨大ダムは、ひとつには洪水対策、ひとつには水力発電を目的としています。最古の王朝とされる(か)の初代王(う)は、黄河の治水を成功させることでその地位を得たのでしたが、治水というのはその後も中華王朝の重要な役目でした。長江の中流域にダムを造って治水をおこなうプランは、もともとは孫文が発案したそうですが、その後の内戦やら対外戦争やらでなかなか実行に移せず、20世紀も終わりになってようやく着工できたというわけです。
 水力発電のほうは確かに大きな効果をもたらしました。ここのダムで作り出される電力は、年間で約1000億キロワット時、ひとつの水力発電所としては世界最大であり、中国国内で必要とされる電力のほぼ1割を賄っています。
 しかし治水目的のほうはどうなのでしょうか。当初から、ダムの設計に欠陥があり、20年ともたないのではないかなどとささやかれていました。重力式コンクリートダムということで、そうそう決壊ということは起こらないにせよ、貯水能力に疑問を呈する向きはありました。
 そして20年どころか11年目にして、三峡ダムは早くも鼎の軽重を問われる状態に陥っています。
 ダム湖は非常に広く、重慶市のすぐ先くらいまで届いています。その重慶が、このたびの豪雨で半ば水没状態になっているわけです。ダムを放水すれば、重慶の洪水はおさまるのでしょうが、下手に放水すると下流が大変なことになることは眼に見えています。実際、いまのところダム湖があふれかねない分だけ放水しているようですが、すでに流域の街がいくつも水没しつつあります。やむを得ず、流域の農地を遊水池のように扱って、かろうじて水を逃がしているとのことですが、豪雨は上がる気配も見えないようです。
 この梅雨どき、わが国も西日本を中心にだいぶ水害があり、死傷者も多く出ました。日本の川は、世界的に見ると滝みたいなもので、実際明治の頃に増水した神通川だったかを見たドイツ人技師が、
 「これは川ではない、滝だ」
 と叫んだ記録が残っています。つまり流れがきわめて速く、増水するときもあっという間で、水が引くのもすぐなのでした。集落全体が水没したような話もよく聞きますが、そう何週間も水が引かないなどということは、日本ではまずありません。
 しかし、大陸の河川になると、まったく様相が違ってきます。中流あたりから下は高低差もほとんど無く、水は流れているのか流れていないのかよくわからないくらいに遅い動きになります。それが一旦増水すると、水が流れてゆく先があんまり無いので、いつまでも滞留します。川下に流れてゆくのを待つにしても、流れてくるのは水だけではなく大量の土砂も一緒なため、どうしても流れが悪くなり、そのためにさらに水はけが悪化します。黄河や長江クラスの大河の治水というのは、なかなか利根川荒川を付け替えるのとはわけが違うようです。その利根川や荒川だって、大変な労力と犠牲を伴ってやっとできたわけで、大陸の治水の困難さというのは想像を絶するものがあります。
 もし三峡ダムが決壊して、ダム湖にたまった水が一気に流れ出せば、武漢はもちろん、もっと下流の南京や上海まで壊滅的な被害が出ると言われています。しかも大量の汚水まじりの長江の水は、通常時でも河口から沖合何十キロにもかけて海を茶色く染めているのが、東支那海から対馬海峡を経て日本海まで拡がり、わが国の漁業にも悪影響を及ぼしかねないという予測さえあります。
 そうでなくとも、現地の雨期は8月なかばまで続くのが常だと言うし、ダムの放水量が今後どんどん増える可能性は充分にあります。上に書いたとおり、中流域から下流域にかけて、高低差はほとんど無いようなものですから、放水量が増えれば、水が下に流れてゆくというよりも、全体の水位が上がり続けると考えたほうが良いでしょう。武漢で、南京で、上海で、一様に水位が上がってゆくのです。
 武漢あたりですら、長江の広さはちょっとした海峡並みです。河口にある上海ともなれば、向こう岸がまるっきり見えないほどで、崇明島という沖縄本島と同じくらいの広さの中洲まであります。それだけの大河の水位が一様に上がってくるのでは、おそろしいものがあるでしょう。
 長江周辺には、水量のバッファになりそうな大きな湖もいくつもあります。洞庭湖鄱陽湖太湖等々、いずれも琵琶湖などよりはるかに大きな湖であり、中でも鄱陽湖はの太祖となった朱元璋が宿敵陳友諒と大海戦ならぬ大湖戦をおこなって勝利したという歴史を持つ中国最大の湖です。ところがこれらの湖も、軒並み水位を爆上げしつつあるというのだから不気味です。三峡ダムが決壊すれば、これらの湖も間違いなくあふれ出すでしょう。
 去年の衛星写真で、三峡ダムの筐体が相当に歪んでいるという話が伝えられました。しかし今年はその歪みが直っていたという真偽不明の噂もあります。とにかく、コロナウイルス蔓延の初期の隠蔽を見ても、中国共産党のコメントというのはまったく信じられないのでした。この水害でも、死者は100人かそこらという発表があり、とうてい信じがたいというのが一般的な受け止めかたです。水浸しになった重慶や沿岸の街の写真を見ただけでも、少なくとも数千人単位の犠牲者が出ていると思われるのでした。

 中国では、武漢コロナウイルスとは別のウイルスがまた流出したとか、エビに対する致死率が著しく高いウイルスが出たとか、バッタも一方からではなく2、3方面から押し寄せているとか、いろんな話が錯綜して伝えられており、いったい実態がどうなっているのかさっぱりわからない状態になっています。そんな中で香港を取りこんでしまったものだから、各国の報道機関などもだいぶ混乱しているようです。とにかくこの巨大な国家が、いまや世界的に大迷惑な存在になってしまったことは間違いなく、どの国もはらはらしながら様子を窺っている感じでしょう。
 最初に書いたように、疫病・洪水・蝗害という三点セットは、王朝滅亡のフラグと言っても良いようなものです。の最後の頃にも、の最後の頃にもこれが起こりました。今年のこれが、はたして現・共産党帝国の滅亡フラグとなるのかどうか。注視が必要な気がします。

(2020.7.20.)

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