28.作曲家の経済学


 私は一応作曲家のはしくれであるから、いろんなところから作曲を依頼されて書き、お金を貰うということをしている。実際には作曲よりも、編曲を頼まれることが多いし、さらにはそういう「書く仕事」よりは、ピアノ、ソルフェージュ、合唱などを「教える」ことにより得る収入の方がどちらかというと大きかったりするのだが、まあとにかく自分の本業としては、楽譜を書いて作曲料なり編曲料なりを受け取ることだと思っている。
 その他、書いたものが楽譜やCDになれば印税が入るし、それがどこかで演奏されれば著作権料が入ることになっている。作曲料編曲料、印税に著作権料というところが、私の作曲家としての収入ということになる。まあたいていの作曲家はそんなところだろう。

 印税だけで食っていける、いわゆる夢の印税生活というのに憧れないことはないが、実のところこれは微々たるもので、いつの間にかたまっている積立預金みたいなものだと思った方が真実に近い。それは、楽譜というもののマーケットの狭小さによる。
 歌も楽器もやらないのに楽譜を買って眺めるなどという人はまずいないだろう。研究のために買う人はいるがごく少数派である。大部分は、自分が演奏するために購入する。つまり、楽譜のマーケットというのは、みずから演奏する人の数にほぼ限られると言ってよい。ピアノを習ったり合唱をやったりしている人の数はやたらと多そうな気がするが、さて日本全国で何人くらいになるだろうか。
 いろいろな自治体で地域の合唱祭などがおこなわれているが、あちこち見ていると、人口1〜2万人くらいに対してひとつの合唱団があるくらいの割合になるような気がする。私は板橋区とわりと縁が深いのだが、この区の人口は約40万人、区の合唱祭にはたいてい40団体くらいの合唱団が参加している。一団体の人数はたいてい十数人から二十数人、40人50人というのは稀である。合唱人口というのは500人〜1000人にひとりくらいなものかもしれない。
 ピアノだって、先生から普通に与えられるツェルニーとかソナチネアルバムとかの古典的著作からさらに先に進む人の数は限られている。まして邦人作品を好んで演奏するようなピアノ愛好家はどちらと言えば変人のたぐいと見なされる。
 そんなわけで、楽譜市場というのは実のところ大変に狭い。
 市場規模を考えれば、一般書籍の100分の1くらいの売れ行きしか望めないだろう。
 1万部も出れば、一般書籍ならミリオンセラーに匹敵すると言ってよい。
 私がカワイ出版から出した「TOKYO物語」という女声合唱のための本は、5年ほどで15回の版を重ね、たぶん一万数千冊を売っているはずだ。自分で言うのも口幅ったいが、楽譜市場においてはまさにベストセラーである。
 しかし、それによって私の得た印税所得は、合計してもせいぜい60万円程度に過ぎない。そんなに入ったなら良いではないかと言われるかもしれないが、一度にならともかく、5年間でこれだけである。とてもではないが印税生活など営める額ではない。
 印税というのは原則として書籍の定価の一割である。「TOKYO物語」は一冊1100円(消費税除く)なので印税は110円となる。ただし、この本は声楽曲、しかも編曲ものであるから、この110円を原曲の作詞者や作曲者と分けることになる。配分の計算方法はよくわからないのだが、出版社から送られてくる明細を見ると、最初の頃は3割で、最近は5割ということになっているようだ。つまり、一冊につき私の取り分は33円から55円ということになる。一万冊刷ったところでたかが知れているのがおわかりであろう。
 その点小説家はいいなあと思う。印税はまるまる受け取れるし、市場規模が大きい。千円の本がミリオンセラーになった(つまり100万冊売れた)とすると、印税額はなんと1億円となる。売れっ子作家が豪邸を建てられるのもうなづけるというものだ。作曲家はいくら売れっ子になっても、テレビに出て出演料を稼ぐなどの副業を持たない限り、まず印税で豪邸など構えられない。
 CDになれば楽譜よりは多少は市場規模が拡がるが、それでも私がやっているようなジャンルでは大したことはない。

 著作権料などはさらに微々たるものだ。私の出版物はみんな合唱ものだが、これらが演奏会で歌われると著作権料が貰えるけれども、その額は演奏会の入場料によって決まる。無料の演奏会の場合は一銭も入らない。日本の合唱団は大部分がアマチュアであって、演奏会をやるにしても無料かそれに近い低額でやることが多いから、こちらの実入りはすこぶる少ないのである。年間を通じて、2万円も入ればいい方だ。

 従って、やはり作曲料や編曲料に頼らざるを得なくなる。作家で言えば原稿料である。
 ちなみに、よく誤解している人がいるのだが、誰か作曲家に作曲を依頼したとして、作曲料を払っても、その曲が自分のものになるというわけではない。通常は、厳密な言い方をすれば、作曲料によって買い取るのはその曲の「初演権」である。作曲料を払った個人あるいは団体がその曲を初演した/させたあと、作曲者がそれをどこかよそへ持って行って使用料を稼ごうとするのを差し止めることはできない。
 どうしても他の人間に演奏させたくないというのであれば、「著作権ごと買い取る」ことが必要になる。校歌や市民歌などのたぐいはこの形をとる場合が多い。この場合は、買い取った本人や本人が認めた人が、それをどこでどう使っても著作権料をとられることはなくなるけれども、当然ながら著作権料が含まれる分買い取り価格も高くなる。また著作人格権はこの場合でも失われない。買い取った人が、作曲者名として自分の名前をつけるなどということは許されていないわけだ。
 さて、作曲料や編曲料というのはいくらくらい払うべきものなのか、という点で悩む人は多いだろう。
 おいくら支払えばよろしいですか、と私もよく訊かれる。
 ところが、この質問に答えるのが私は大変に苦手である。
 相場などというものは存在しないと言ってよい。事務所などを通せばその辺はきちんと話をつけてくれるのだが、個人営業でやっているとそうもゆかない。この編成であれば演奏時間一分につきいくらいくら、と明確な料金表が作れればよいとは思うのだが、常に同水準の作品が書けるとは限らないという不安が自分にもあるものだから、そこまで割り切ることができないのだ。
 この辺は文筆業共通の悩みのようで、作家の原稿料なども、事前にわかっていることはむしろ少ないのだそうだ。最近は改善されてきたのかもしれないが。

 19世紀頃には、曲の小節数を基準に作曲料が支払われたというような話も残っている。ショパンがあまりリピート記号を用いず、繰り返しのフレーズをいちいち書いていたのはそのためなのだそうだ。まるっきり写すのはやや気がとがめたので、装飾音やパッセージを少し変化させた。だからショパンの曲は、繰り返しの都度ちょっとずつ違う書き方になっているのだとか。彼のあの魅惑的で変化に富んだ走句の数々が、実はお金をたくさん稼ぐために発明されたものなのだと考えれば、なかなか面白いではないか。
 ただしこれはおそらく、楽譜出版社との契約である。現在でも、出版社の委嘱によって書くのであれば、たいていは金額の提示がなされる。そしてたいていとても安い。出版社の委嘱であれば出版されることが間違いなく、従って将来の印税なども期待できるという点だけが取り柄である。
 一般のクライアントの場合、どうも困る。吹っかけることは可能だが、そんなに高いことを言うのなら委嘱をやめる、などと言われては身も蓋もない。と言って、「そんなに高い」という水準がそのクライアントにとってどの程度なのかということを見きわめるのも難しい。向こうも同じ気持ちだろうから、腹のさぐり合いとなる。
 結局私からは
「ご予算は?」
と訊ねることになる。何かの演奏会で使いたいというような場合は、その演奏会全体の予算を訊くこともある。全体予算に対する何%、という感じで話を持ってゆくと双方納得しやすい。
 なんだかんだ言っても、5万円で頼まれた仕事より50万円で頼まれた仕事の方に10倍の手間を掛ける、というわけにはゆかないのである。安ければそれなりの完成度にとどめる、なんてことができれば簡単なのだが、そんな器用なことは私にはできないし、他の作曲家にもできはしないだろう。曲の完成度など計量化できる性質のものではないから、要するに相手にどのくらい支払う気があるかという点に尽きてしまうのである。

 それでも、編曲仕事の場合は、最近になってようやく、一応の料金水準を提示できるようになった。合唱のメドレーなどを頼まれた場合は、その中に含まれる1曲について1万円〜1万5000円くらい申し受けている。だいぶ幅があるのは、やはりご予算に応じて、という含みだ。5曲のメドレーだったら5万〜7万5000円というわけだ。メドレーでなくて1曲ずつであればもう少し上乗せしていただいている。編曲ならそこそこのクオリティを保てる自信がついてきたから、ようやく言えるようになったというところである。
 オーケストラ編曲(オーケストレイション)であれば、もちろんそれなりの額になる。オーケストレイションの仕事は事務所を通じて来ることが多いので、こちらで気にしなくても、お金のことは処理してくれる。
 しかし作曲となるとまだ難しい。
 6000円だかでピアノで弾ける4声フーガを書いてくれと言ってきた人がいて、それにはさすがに唖然としたものの、それではいくらなら引き受けたかというと微妙な問題になる。6万円なら迷わず引き受けたろうが、2万円だったらどうだったろうか。
 あんまり安売りすべきでない、と忠告してくれる人も多いが、結局はクライアントとの関係ということになる。多少低額でも、コンスタントに頼んでくれるとか、他の人を紹介してくれるとかいう相手であれば関係を保っていたいものだ。この業界、人脈があらゆるところでものを言うから、一回の仕事だけを取り出して云々するわけにもゆかないのである。

 大学時代、先生が
「学校で『売り込み方』を教えるべきだね」
とよくおっしゃっていた。
 実際、音楽大学に行っても、営業についてフォローしてくれる学校はまずどこにもない。卒業してしまえばそこまでで、あとはそれぞれの才覚で勝手にやってくれたまえ、という態度である。
 仕事を世話してくれとまでは求めないけれど、音楽家として営業してゆくための講座くらい設けてくれてもバチはあたらないのではあるまいか。演奏畑などでも、どうせ音大の中のレッスンだけではとても間に合わず、外で個人レッスンを受けている学生が大半なのだから、大学では実技レッスンよりもむしろそういうことを教えるべきであるような気がする。
 むろん、最終的には個々人の実力や人脈にかかっているのは言うまでもない。営業術の講義を受けたくらいで食ってゆけるものではないし、世の中は各地の音大から毎年吐き出される何千という人数ほど音楽家を必要としてはいないのだから、挫折する人が多くてもやむを得ない。
 しかしながら、最低限の営業くらいはできるようにして欲しいものではないか。
 いつだったか、コンサートのあとのレセプションに少し遅れて行った演奏者が、食べ物などがほとんど残っていなかったので、あたり構わず
「会費払ったのに、何よ、これは。なんにもないじゃない」
とわめき散らしていたことがある。レセプションというのはお客さんとか賛助出演者とかのための主催者側からのお礼の催しであるということが全然わかっておらず、単なる打ち上げとしか思っていなかったらしい。営業の一環であるという認識がないのである。多少なりともそういうことが学校で教えられていれば、トラブルを起こすこともなくなると思うのだが。

 私の出身大学の作曲科は一学年20人である。他の音大を合わせるとやはり年々100人くらいの「作曲科卒業生」は生まれてくるわけだ。しかしそのすべてが「作曲家」になるというわけでもない。作曲だけで食えるはずもないので、どこかに就職するなり、アルバイト生活をするなりしなければならなくなる。
 学校の教師になれればまだいい方だ。それも、音大や音高の教師などは滅多に空きがないし、最近は普通の学校の音楽の授業など減らされる一方であるから、まあ狭き門である。
 私のようにピアノや合唱を指導するということをする人も多い。ヤマハの音楽教室とか、そういうところだと中間搾取がかなり厳しく、かなりの人数を持たないと生活できない。
 しかるべき音楽事務所や音楽出版社に勤める人もいるが、こういうところも最近の不況であんまり求人していない。まるっきり音楽と関係のない会社に、普通に就職するという人も少なくないのである。
 女性だったら結婚してしまう場合も多い。男性の最低ラインは、誰か稼ぎのある女性に食わせて貰う、つまりヒモ生活であろうか(見ようによっては最高ラインとも言えるが)。
 本当は生活のことなど考えずに、書きたい曲を書いていたいというのが大部分の作曲家の希望ではあるのだが、現実世界ではなかなかそういうわけにもゆかない。
 結局筆を折ってしまう人も多い。そうでなくとも、生活を安定させるためと称して始めた仕事がそのまま本業になってしまい、作曲の方は一年か二年に一曲くらい室内楽などちょこちょこと書き上げて、あんまりお客も来ない作品発表会に出品するだけ、というケースが非常に多いのである。こうなるととてもプロと称するわけにはゆくまい。もちろん作曲の場合、作品そのものの出来にプロもアマも関係ないけれど、人様からお金をとれる作品であるかどうかはまた別の問題だ。

 世の中の「作曲家志望」の若者たちに水を差す気はないが、作曲で食べるというのはかくも厳しいことであることは確かだ。私も高校時代、レッスンを受けていた先生に志望を伝えたところ、先生は私の親に、
30歳までは親が食わせてやらなければならないと思ってくださいよ」
と釘を刺したほどだった。私の場合は学生時代からつかんだ人脈のおかげで、幸い30歳になるより前に自活できたが、一般的にはその通りだと考えて間違いはない。
 プロになってしまうと、自分の書きたいものを書いていればよいというわけにもゆかない。クライアントによってはかなりうるさいことを言う人もいるし、そうでなくても締め切りというものが発生する。締め切り破りの常習犯は少なからず居るけれど、ともあれ初演予定日より遅れることだけは不可能であり、いかに不本意な出来でも渡してしまわなければならないのである。
 むしろ作曲は余技にしておいて、好きなだけ時間をかけて作品を練り込む方が、結果として良いものができるかもしれない。表現活動というのはそういうものであろう。

(2002.2.28.)


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