八村義夫先生のこと

 大学1年の時の私の作曲の師であった八村義夫先生の唯一の合唱曲『愛の園──アウトサイダーI』を聴く機会がありました。
 八村先生はきわめて寡作な作曲家であって、遺作となった未完の『ラ・フォリア』というオーケストラ曲が確か作品16だったか17だったかだと思います。47歳の若さで早世されたわけですが、作品1とされているのが高校時代に書いたピアノ曲であることを考えると、約30年間で16、7曲というペースですから、驚くべき少なさです。
 『レクイエム』などで有名なモーリス・デュリュフレも非常に寡作で作品14までしか作っていませんが、デュリュフレはむしろオルガニストが本職みたいな人でしたから、作曲家としての活動が薄かったのも納得できないではありません。
 しかし、八村先生は私の知る限り、演奏者として活躍なさったことはありませんし、音楽学校で学生を教える以外の職に就いていたことはないはずです。プロパーな作曲家としてこれだけ寡作な人は珍しいのではないかと思われます。
 むろん数が少ないだけに、一曲一曲がきわめて精緻に練り上げられ磨き上げられた音楽となっています。
 私も決して勤勉な作曲家ではありませんが、自分でつけた作品番号はすでに80を超えています。八村先生のことを想うと、どうも「粗製濫造」という言葉が頭に浮かんでしまい、忸怩たる気分になってしまいます。

 八村先生の作品でいちばんよく知られているのは、ピアノ曲『彼岸花の幻想』でしょう。桐朋学園こどものための音楽教室による編集で春秋社から出ている『こどものための現代ピアノ曲集』という本に載っており、この本がそこそこ売れているために、『彼岸花』も人の眼に触れる機会が多いという事情によります。
 この本、「こどものための」などと冠していますが、特に第2集にはあんまり易しい曲が入っていません。桐朋学園こどものための音楽教室というのは、相当な英才教育を施しているところで、小学生でもバリバリ現代曲を弾きこなすような生徒が多く、そういう子供たちを対象に書かれたテキストですので、ちょっとピアノをかじった程度の子供では(大人でも)到底弾けないシロモノなのです。
 が、その中でも『彼岸花』は突出して難しく、音大のピアノ科の学生ですら容易には弾けない曲になっています。実際のちに八村先生ご自身が、

 ──ありゃ、子供には弾けないよな。

 と苦笑しておられました。「子供に弾かせる曲」ではなく、シューマン『子供の情景』同様、自分自身の子供時代を回想したという内容の作品であったようです。八村先生はこの時のことを反省したのか、後年作曲家協会の編纂で子供向きの曲集が作られた時には、今度は本当に子供に弾けるような『プレリュード』という曲を書いていましたが、これは作品番号外で、自分でも作品には含めたくない意向であったようです。
 『彼岸花』はあまりに難曲であったがゆえに、逆に曲集中でも光彩を放っており、意欲的な若者はむしろこの曲を弾きこなすことに野心を燃やしたりしていました。私の同期でも、寺島陸也くんが高校時代にこれを弾いたというので、仲間うちでちょっとした話題になっていたほどです。私も高校時代にチャレンジしましたが、音をある程度なぞることくらいはできても、とても曲として聴けるような演奏にはならずに断念していたのです。

 その他の作品はどんなものであったかというと、実のところ『彼岸花』と同じような傾向のものが多かったようです。私も全曲を聴いたわけではありませんが、ゼミの時に半分くらいは聴かせて貰ったと思います。
 基本的に、「拍節」というものを嫌い、サイクルとして繰り返す「拍子」を極力感じさせないような音楽を目指しておられました。どの曲だったか、録音を流しながら、
 「どうもこの曲は自分でも気に入らないんだな。どこが悪いのかよくわからないんだが」
 と言っていたので、楽譜を拝見しながら聴いていた私が、
 「少々拍節的だからじゃないでしょうか」
 と言うと、
 「ああ、それだ」
 と声を上げて得心されていたことを思い出します。『彼岸花』のような独奏曲の場合、八村先生はほとんど小節線というものを使わないことが多いのですが、その時聴いていたのは合奏の曲であったために、パート譜の関係で小節線無しというわけにもゆかず、4/4とか6/8といった拍子表示もなされていたのです。あくまで便宜的なものとしてそうしていたのでしょうが、逆に拍子を表示することで、逆に曲想が影響されてしまって拍節的になっていたとおぼしいのでした。
 そのことを自身で気づかれずに、なおかつどこか気にくわないというあたりに、徹底した拍節嫌いの執念を感じました。
 拍節とか拍子とかいうのは、時間表現である音楽に必然的に附随する、ほぼ原理的な観念・感覚であるはずなのですが、それを拒否するというのはよほどの信念と言わなければなりません。代わりに八村先生が持ち込んだ原理は「間合い」というものだったでしょう。能における鼓や龍笛の入りかたが理想であったのかもしれません。八村作品の演奏の難しさは、そういう、普通の音楽とは「原理が異なる」ところにもあったのだと思います。
 『彼岸花』ももちろんそうなっていましたし、他の多くの曲も同様の作りかたをしていました。
 リズムのサイクルは拍節の基になるものですからほとんど用いられません。明確なメロディも現れません。基本的には、ある「響き」を、ある「間合い」を持って「置いてゆく」というのが八村作品の作曲法ということになります。こういう作りかたでは、とにかく一曲を仕上げるのに時間がかかることが想像されます。寡作であったのも当然なのでした。
 オーケストラ曲などは大変であったと思います。たぶん『錯乱の論理』と最後の『ラ・フォリア』だけしか無かったはずですが、まず否応なしに小節線を引き、拍子の表示をしなければならないというのが先生にとっては苦行であったことでしょう。メロディもリズムも拒否したところで、響きだけを連ねてゆくとなると、ほとんど瞬間ごとに音の「位相」のようなものを確認してゆかなければならなかったはずです。『ラ・フォリア』を作曲中、
 「一日に一小節だけ進めるようにしている」
 ということを言っていた記憶があります。それ以上は進めることができず、また油断すると何日も放っておくことになりかねなかったのでしょう。

 以上の記述で予想されるであろうとおり、八村義夫の音楽は決して素人受けのするものではありませんでした。まさに「玄人好み」の最たるもので、従ってコアなファンもいっぽうには居ますが、一般にはほとんど知られていないのではないかと思います。
 「響き」を「置いてゆく」、というように書きましたが、その「響き」もいわゆる「現代音楽」的な厳しい音であって、聴いて心地良いという性格のものではありません。『彼岸花の幻想』のラスト近くに、思いがけずにニ長調の和音が比較的長い時間にわたって響くということがありますが、そういうのは「あえて狙った」とき以外にはまず現れません。ただ、絶筆となった『ラ・フォリア』の最後の和音(確か、7楽章ある予定だったうちの第2楽章の途中であったと思います)は、私にはちょっと意外なほどに「心地良い」ものでしたが。
 なお私は1年生の時のみ八村先生についていただけで、大学の講座のシステムにより、2年生になると別の先生のクラスに行かされました。その2年生の時に亡くなられたわけですから、私は事実上最後の学生でした。2年の時には、亡くなった河井英理さんが八村クラスでしたから、正確には彼女が最後の学生でしょうが、たぶんゼミはほとんど開かれなかったのではないかと思います。
 1年間指導を受けたわけですが、私が自分の書いたものを八村先生に見て貰ったのは、2回だけでした。いちばん最初の時に自己紹介代わりに「ハープシコードのための『パルティータ』」なる曲を持ってゆき、

 ──うん……なんというかな、そう、イチキュウサンゴオ、という感じだね

 と言われたのが第1回です。1935年頃に書かれたような、つまりその時から見て半世紀くらい古くさいということで、さすがに少しショックを受けました。そのこともありましたし、何しろゼミの先輩がたの現代音楽談義などを聞いていてもさっぱりついてゆけず、実際しばらく私は曲が書けなくなりました。私のこれまでの生涯で「書かない」時期は何度かあっても、「書けない」状態になったのはこの時だけだったと思います。おまけにこの年の秋ごろに無理矢理途中まで書いて試演会で部分初演したヴィオラソナタを、先輩にケチョンケチョンにけなされたりしたので、当のソナタは先を続ける気力を失い、ますます何を書けば良いのかわからなくなりました。
 それでも年度末には、単位を貰うため曲を提出しなければなりません。それで書いたのが『オノゴロ島』で、さすがにこの曲だけは先生に見て貰わざるを得ませんでした。これが第2回です。
 『オノゴロ島』は雅楽の構成に従い序・破・急の三部分から成っています。序の部分は曲がりなりにも八村クラスに1年間居た成果を見せるべく、拍節も小節線も無い書きかたにしました。そのせいばかりでもないでしょうが、先生の評言は

 ──うん、ぼくは好きだけどね、こういうの。

 というものでした。

 ──ただ、良い成績は取れないかもしれないなあ。

 他の先生がたには良さがわからないかも、というのが八村先生の意見でしたが、私はずいぶん力づけられた気がしました。実際には、けっこう良い成績を貰っています。そればかりか、ヴィオラソナタをけなした先輩がまた私にからんで来たとき、他の先輩が『オノゴロ島』を引き合いに出して擁護してくれたこともありました。私のその時点においては、最善のものが書けたのだろうと思います。
 そんなわけで、書いたものについて意見を貰ったのは、本当に最初と最後だけでした。あとは何をしていたかというと、上記のように先生自身や他の人の曲を聴きながらあれこれ先生が語るのを拝聴していることが多く、あとは技術的なこととして対位法楽曲分析を指導されました。
 これらは、先輩がた相手にはあんまりやらせていなかった課題であるような気がしますが、先生自身はものすごく詳細に研究しており、対位法の参考にと渡された先生のノートのコピーは、それだけで教科書として通用しそうなほどの内容になっていました。楽曲分析に至っては、前もちょっと書いたことがありますが、ベートーヴェンのソナタアルバムのページの余白が真っ黒になるほどに書き込みがなされ、ついにはそれだけでは足りず紙片をつぎ足してメモ書きしているほどに詳細な分析がおこなわれていました。同席していた先輩がたも度肝を抜かれたようでした。つまり彼らはそれまで、八村先生がそこまでベートーヴェンを徹底的に研究していたことを知らなかった、言い換えれば先生から楽曲分析の課題は与えられなかっていなかったということになります。
 なぜ先生が私にだけそういう課題を与えたのかよくわかりません。まあ、こいつにはそういう勉強が必要だと判断したまでのことでしょうが。
 その結果、確かに対位法と分析に関しては上達したと自分で思います。ただ肝心の作曲についてはどうでしょうか。
 作風はもちろんまったく違い、友人から
 「八村の弟子だったことがあるとは信じられないね」
 と言われたほどです。ほとんどいかなる意味でも、八村義夫の衣鉢を継いだような要素は私の書いたものには見当たらないでしょう。
 八村先生のいわば「遺言」として私が肝に銘じていることは、ただひとつです。

 ──書きたいように書けばいいんだよ。結局、それしかできないんだからね。

 なんだかあたりまえ過ぎる言葉であるようですが、真理というのはそういうものだろうと思っています。自分の美意識や感覚に適わないものを書くべきではない、という意味に私は理解しており、この「遺言」だけは守ってきているつもりです。

 さて、『愛の園』ですが、これはプロ合唱団である東京混声合唱団のために書かれた曲です。ピアノ曲における『彼岸花』と同等かそれ以上の難物で、まずプロでないと手に負えないと思われます。
 しかし最近聴いたのはアマチュア合唱団による演奏で、最近のアマチュアはこれを歌いこなすほどにレベルが上がってきたのかと感慨を催しました。三善晃『五つの童画』が近年再刊されたこともアマチュアのレベルアップぶりを象徴する出来事だったと思いますが、八村義夫作品がふたたび陽の目を見るのは嬉しい限りです。
 アマチュア合唱界では、ある団体が扱った曲目を他の団体が追随するということがよくありますので、今後『愛の園』もちょくちょく耳にするようになるかもしれません。
 決してとっつきは良くないし、楽譜の解釈だけで相当なエネルギーを費やすし、人に聴かせるところまで持ってゆくのは本当に容易でない作品ではありますが、意欲的な団体の挑戦を期待したいところです。

(2014.9.15.)


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