ソナチネというのは、「小さいソナタ」という意味です。ただ、イタリア語だとSonatina、ソナティーナというのが正しい読みかたになります。ドイツ語だとSonatineなのでソナチネになりそうですが、ドイツ語のSは基本的に有声音(日本語で言う濁音)なので、元の発音に近いカタカナを当てればゾナティーネとなります。ソナチネという言葉は、イタリア語とドイツ語を混合したみたいな単語なのでした。 ピアノの初級〜中級学習者の、かつては必携とも言うべき曲集に「ソナチネ・アルバム」があり、全音や音楽之友社など主な楽譜出版社から同じ名前で出ています。日本で最初にどこが出したのかは知りませんが、そこで「ソナチネ」という名称がつけられ、それが弘まったために、日本ではこの呼びかたが定着してしまいました。日本でしか通用しない発音であることは、いちおう意識しておいたほうが良いかもしれません。しかしまあ、この稿でも日本で一般的なソナチネの名称を使うことにします。 ともあれ、Sonataという言葉に、指小辞の-inaもしくは-ineがつけられ、「小さな」「簡素な」という意味合いが付与されたのがSonatinaもしくはSonatineであるわけです。 この名称を持つ楽曲は、17世紀後半、つまりバロック時代の中期くらいにはすでに現れているようですが、当初は別に決まった形を持つ曲ではありませんでした。それはそうで、元の言葉である「ソナタ」のほうも、そのくらいの時代にはまだ定型というほどのものができてはいなかったのです。バロック時代の中期から後期にかけて、ようやく4楽章制のバロック・ソナタが確立しました。 ただソナチネのほうは、組曲やカンタータの序曲として名称が使われることがありました。そもそもソナタというのはカンタータの対語であり、本来は「器楽曲」を意味する言葉でしたので、器楽のみによって奏される序曲として、「小さな器楽曲」ということでソナチネという楽章が置かれたわけです。
現在の意味のソナチネ、つまり「小さいソナタ」となって、ソナタと相似的な構造を持つ楽曲として意味合いが固定されたのは、当然ながら現在の意味のソナタが出来上がってからのことであるはずです。何度か触れてきましたが、現在の意味のソナタを創始したのはJ.S.バッハの息子たちかその同世代の作曲家たちです。彼らは、ソナタ形式という楽曲形式を構築し、それを冒頭に置いた組形式の器楽曲をソナタと呼びはじめました。正しくは話が逆で、彼らの書いたソナタの第一楽章によく使われる形式をソナタ形式と呼んだわけなのですが。 彼らのソナタは、バロック・ソナタよりもむしろ協奏曲に類似性を持っていました。バロック・ソナタは緩(ゆっくり)急(速い)緩急という速度構成を持つ4楽章制が普通ですが、彼らの(前古典派、あるいは古典派初期の)ソナタは急緩急の3楽章制を基本とします。曲想のスタイルも協奏曲に近くなっています。 こうして18世紀半ばごろまでに「古典派ソナタ」がほぼ確立されます。タイミング的には、J.S.バッハが歿するのが1750年ですから、彼の晩年にはだいたい古典派ソナタの形が定まっていた感じで、ちょっと不思議な気もします。 古典派ソナタはハイドンやモーツァルトによってさらに磨きがかけられ、ベートーヴェンによって完成の域に達しました。 モーツァルトの同世代人であるクレメンティに、「Six Progressive Sonatinas」(作品36)という作品があり、作曲者自身がソナチネと名付けた楽曲は大体このあたりからはじまるように思われます。それまでも、わりと短くてシンプルな、そして多くの場合は教育的要素を持ったソナタのことをソナチネと呼ぶことはあったようですが、それは言ってみればあだ名のようなものだったのではないでしょうか。 クレメンティのこの作品(6つの段階的なソナチネ、とでも訳せましょうか)は、「ソナチネ・アルバム」の第一巻の7番から12番として収められ、われわれにはなじみ深い曲となっています。 特に前半の3曲は、「小さいソナタ」という意味合いを非常に的確に表しています。第1番(ソナチネ・アルバム7番)は、これ以上シンプルなものは無いと思われるほどにコンパクトなソナタ形式を冒頭楽章に置いています。40小節足らず、しかもけっこう急速なテンポなので本当にあっという間に終わってしまう第一楽章ですが、その中に、ふたつの対照的な主題、短いながらきちんと主題のモティーフを用いて作られている展開部、属音の保続(オルゲルプンクト)、第二主題がちゃんと主調に戻っている再現部と、古典的ソナタ形式に必要とされる要素がすべて揃っていて驚かされます。ここまで明確でコンパクトなソナタ形式は、ベートーヴェンですら作れていないと思います。まさに、「ソナチネとはこういうものだ」というコンセプトを高らかに掲げたような曲です。 第2番と第3番(ソナチネ・アルバム8番と9番)は、第1番ほど簡潔にまとまってはいませんが、それでもシンプルな形を持っています。また、形ばかりでなく、「軽妙な曲想」というソナチネのもうひとつの性格を提言しているようでもあります。「軽妙な曲想」ということに関しては、ソナチネ・アルバムの第1巻第2巻を通じて、短調のソナチネというのが一曲も含まれていないことでも窺えます。ベートーヴェンの作品49-1(第一巻16番)だけト短調ですが、これは「ソナチネ並み」かもしれませんがいちおうソナタです。長調が軽くて短調が重々しいとは必ずしも言えませんが、短調が長調よりもメランコリーとか暗さとかネガティブな情念などを表現するのに向いているのは確かでしょう。そういった性格は、ソナチネという楽曲には不向きだと言うことができそうです。 クレメンティ作品36の、後半3曲(ソナチネ・アルバム10番〜12番)は、形式的にも曲想的にももう少し大規模になってきます。特に最後の第6番などは雄大さといった印象さえ感じられます。ソナタに近いソナチネと言うところでしょうか。 なお第2巻に含まれているクレメンティの4曲のソナチネは、本来はソナタとして出版された作品37と38から抜粋したものです。作品36の後半あたりと大差ない規模なのでソナチネ扱いされたのかもしれません。
なおモーツァルトの「6つのウイーン・ソナチネ」という曲集が出版されていますが、これは木管のためのディヴェルティメントなどをのちの人がピアノ用に編曲したものであって、モーツァルト自身がソナチネという名称の曲を書いたわけではありません。 ベートーヴェンには「2つのソナチネ」があります。ソナチネ・アルバム第1巻に収録されている作品49は実際にはソナタですが、第2巻に収められている2曲はもともとソナチネであって、非常にシンプルに作られており演奏も容易です。第1番ト長調の第一楽章など、クレメンティの36-1よりも短くなっていますが、残念ながらソナタ形式を使っていません。この他、ソナタ第25番「かっこう」作品79もソナチネと呼ばれることがありますが、これはあだ名に近いでしょう。 クレメンティに次ぐ「ソナチネの作り手」としてはクーラウが居ます。彼の名も、ソナチネ・アルバムのいちばん最初に出てくるので、けっこう知られているでしょう。第1巻の1番〜3番は作品20で、比較的規模が大きく、ソナタと呼んでもおかしくない感じですが、ソナタ形式として見た場合に展開部がかなり小さく、充分なモティーフ展開がおこなわれないという意味において「小ソナタ」と称するのが妥当だというのでしょう。第4番〜第6番は作品55で、作品20に較べると小規模で演奏難易度の低い曲となっています。どちらにしても、教育的な意味合いが強い楽曲です。 さらに教育的側面を強調したのはディアベリでしょう。彼は連弾用のソナチネも書いていますが、第一奏者は最初に手を置いた位置からまったくポジションを動かさずに弾けるように工夫されています。「子供のための」曲というのがだんだん求められるようになってきたことを反映しているのでしょう。ソナチネ・アルバムの出品メンバーとしては、あとドゥシェクというのが居ます。実は春秋社で独自に編纂した「ソナチネ集」というのがあり、ドゥシェクの作品はむしろそちらに多く載っています。 ソナチネ・アルバムは最近では嫌う先生も少なくないのですが、良くも悪くも、古典派音楽の様式というものを身につけるにはたいへん有用だと私は思います。ただし、漫然とレッスンするのはダメで、ソナタの構造、ソナタ形式の構造などをきちんと説明しながら進めてゆくべきです。より難しい、モーツァルトやベートーヴェンのソナタを弾くための導入という役割を意識して指導すべきでしょう。
とりあえず、ソナチネ・アルバム2巻によって、ソナチネという曲種のコンセプトもほぼ固まったと見て良いでしょう。 ソナタ同様、冒頭にソナタ形式の楽章を据えた多楽章の楽曲となります。楽章数は2〜3が普通で、4楽章というのは滅多にありません。上に書いたモーツァルトのウイーン・ソナチネには4楽章のものがありますが、繰り返しますがこれは元がディヴェルティメントであるからです。 ソナタ形式の第一楽章は、比較的短いものが多いのですが、単に演奏所要時間や小節数というよりも、モティーフ展開が簡略で、展開部が短いのが特徴と言えるかもしれません。 ゆっくりした第二楽章は二部形式や三部形式の簡単なものが主流ですが、ときどき複合三部形式なども用いられます。また緩徐楽章は省略されることもしばしばあります。 終楽章は元気の良いロンドもしくは複合三部形式が用いられることが多くなっています。ロンドでも、ABACABAといった複雑な形が用いられることは稀で、たいていはABABAかABACAの単純な形です。 こういう基本構成は、ロマン派から近代、現代に至るまで、さほど変化していません。ソナタのほうは単楽章のものも多くなりましたが、ソナチネはほぼ同じ形です。 そして比較的軽妙な曲想を持っていること。この点も、現代までそれほど変わっていないように思えます。ソナチネというタイトルで、あんまり重々しかったり壮大であったりする印象の曲は珍しいでしょう。 あと、「演奏が易しい」という特徴もありそうな気がしますが、これは19世紀以降の作品には必ずしもあてはまらないと思われます。レーガーのソナチネやラヴェルのソナチネを考えても、決して演奏が容易な作品ではありませんし、ブゾーニに至っては名人芸的な超絶技巧が要求されます。 ピアノ以外の楽器のためのソナチネというのはわりと少ない気がしますが、まったく無いわけではありません。シューベルトやドヴォルジャークにヴァイオリン・ソナチネがありますし、デュティユやバートンのフルート・ソナチネなどもよく演奏されます。 クレメンティやクーラウ、ディアベリの作品にあった「教育的要素」はいまやほとんど顧みられませんが、ソナチネという曲種そのものは、絶滅しそうでいて案外としぶとく生き残っている観があります。
ロマン派以降の主なトピックを拾ってみましょう。 メンデルスゾーン、シューマン、ショパン、リストといったビッグネームがソナチネを書いていないのは残念ですが、シューマンの「若い人のための3つのソナタ」作品118は実質的にはソナチネと言えそうです。規模的にも難易度的にも、教育用ソナチネに近いものがあります。 ソナチネを復権させたのは、上に書いたレーガーでしょう。「4つのソナチネ」作品89は、レーガーの古典派好みを如実に顕した作品です。ソナチネというタイトルにしては、わりに規模の大きなものが多く、クレメンティやモーツァルトのソナタくらいのボリュームがあります。第2番などは4楽章まで持っていたりもします。思うに、「ソナタ」という名称がこの時代(19世紀後半)、けっこう重く扱われていて、そう軽々しく書くべきものとは考えられていなかったのかもしれません。それでこの「擬古典派」とも呼ぶべき作品集にはソナチネの名を与えたとも考えられます。演奏もけっこう難しいものが含まれています。 演奏の難しいソナチネといえば、ラヴェルの作品がすぐに思い浮かぶでしょう。ラヴェルは別にソナチネを復権させるというような意識は無かったと思われ、1曲しか書いてはいません。「ソナタ形式による楽曲」という作曲コンクールに出すために書いた小品を第一楽章にして、3楽章揃えてみたのでソナチネの名を与えただけのことです。第一楽章と第二楽章は、演奏の難易度はともかくとしてコンパクトなサイズですが、第三楽章は気の赴くままに書いたようでかなりの大きさになっています。 そしてさらに、上に挙げたブゾーニの「6つのソナチネ」というのもあり、第1番や第3番のように比較的易しい曲もあるものの、第5番、第6番になるとまことに超絶技巧を要します。特に第6番はビゼーの「カルメン」のパラフレーズになっており、作曲者本人の腕前に任せて好き勝手書いている感じです。もはや軽妙でもなんでもありません。 教育的側面を重視した作曲家となるとカバレフスキーが挙げられます。彼にも2曲のソナチネがあり、第1番は子供の発表会などでもよく弾かれています。もっとも、しっかり弾きこなすにはそれなりの経験とセンスも必要になるようです。第2番のほうはさほど面白くないのか、あまり聴くことはありません。
日本人作曲家も、ソナチネはわりと書いています。ソナタよりも多いかもしれません。 音楽之友社から、「日本のソナチネ」という曲集が出ています。昭和42年刊ですので、もうずいぶん古い出版です。たぶんもう絶版になっています。私の手許にあるのは「日本のソナチネ 1」となっていますが、「2」以降が出たのかどうかわかりません。ネットで検索した限りでは、国立国会図書館の蔵書にも「2」以降は無いようですので、たぶん出版計画が流れたのでしょう。 高木東六、池内友次郎、尾高尚忠、山田一雄、塚谷晃弘、奥村一、三善晃、原嘉寿子の各氏作曲のソナチネが収録されています。ただし三善先生のは「組曲『こんなときに』」という曲で、この本を買ったときから 「ソナチネじゃねーじゃん!」 と内心でツッコミを入れていました。 高木先生と山田先生の作品は比較的楽に弾けますが、あとの曲はなかなか歯ごたえがあります。その中では奥村作品がわりと取っつきやすく、この曲集の中で私が人前で弾いたことのある唯一の曲です。池内作品と尾高作品は非常に難しく、長岡敏夫先生の「ピアノの学習」という本では最高難度に近い「上3」「上4」のランクを与えられていました。また塚谷作品と原作品はストラヴィンスキーかヒンデミットあたりの作風を思わせ、やはりかなり演奏困難です。 春秋社から出ている「こどものための現代ピアノ曲集」にも、何曲かソナチネが含まれていました。これらも、決して易しくはありません。 湯山昭氏の「日曜日のソナチネ」はいまでも売れているようです。発表会などでも聴いたことがあります。そんなに難しくないのが高得点なのでしょう。また、湯山先生といえばピアノ曲でも歌曲でも「軽妙洒脱」という形容詞が浮かんでくるような作風なだけに、ソナチネという楽曲の性格にも適っていたのだと思われます。 手許には助川敏弥氏の「ソナチネ“青の詩”」という楽譜もあります。邦人作曲家のソナチネの中では、私はこれがいちばん好きかな。青空とか青い海とかを思わせる清冽な感じの曲想が佳いし、演奏もそう難しくはありません。作曲者も「中級くらい」と言っています。 われわれも、レーガーと同様、「ソナタ」と言ってしまうとちょっと身構えるところがあり、あまり正面きって取り組む気分でなかったり、古典的なソナタ構造を少々愉しんでみたいようなときに「ソナチネ」の名称を用いたくなるのかもしれません。
私も、ソナタはまだ書いていませんが(習作を除く)、ソナチネはけっこう書いています。 中学2年のときに書いたソナチネ第1番は、その頃の習作としてはけっこうまとまっており、いまでも軽く人前で披露することがあります。第三楽章など300小節近い規模を持っていますが、非常に急速なタランテラ風の曲なのでさほど長く感じません。 高校1年のときにソナチネ第2番を書きましたが、こちらは先陣の影響を受けまくっていて、いまになって人前で弾くのはちょっとためらわれます。第一楽章はもろにラヴェルっぽく、かと思えば第三楽章はドビュッシーの「雨の庭」と同じような音型を用いています。ただ、演奏効果自体はけっこうあると思っています。 浪人中に「リコーダーとハープシコードのためのソナチネ」を書きました。不思議な編成ですが、もちろんフルートとピアノでも構いません。当時浪人仲間のフクオカくんの家にハープシコードがあり、それを使ってみたかっただけのことです。 以上は習作期の作品ですが、わりと最近(2007〜2009)になって「子供のための3つのソナチネ」を書きました。ただこの「子供のため」というのは「手が小さい子供でも弾けるように、オクターブを使っていない」というだけのことで、演奏そのものはそんなに易しくはないかもしれません。 3曲とも、第一楽章にはソナタ形式を使いましたが、いずれもきわめてコンパクトになっています。第3番など、「ソナタ形式の諸要件をきちんと満たしつつ、どれだけ少ない小節数で書けるか」に挑戦したほどです。ちなみに結果は21小節。クレメンティの作品36-1よりも少なくなりました。ただしアルマンド風でかなり音符が細かいのと、第一主題の再現を省略するというズルをしています。ショパンのソナタだってそうじゃん、とたかをくくりました。 この第3番、第二楽章がスケルツォ・ワルツでかなり大きく、全体の重心を形成し、第三楽章はシャコンヌにしました。ときどきソナタの終楽章が変奏曲になっているのがあるので、そのタイプを用いたのですが、ソナチネなので、変奏曲よりコンパクトな印象があるシャコンヌを援用したのでした。 いま作品リストを見たら、この「子供のための3つのソナチネ」に先立って、2006年に「マリンバのためのソナチネ」を書いていたのを忘れていました。これはかなり技巧的で、簡単には演奏できないと思います。 こうしてみると、私も「ソナタ」に対してはだいぶ身構えてしまうところがあるのに、「ソナチネ」はわりと気楽に書く気になれるようです。たぶんこれからも書く機会はあることでしょう。ソナチネは廃れそうで廃れず、易しいのも難しいのも取り混ぜて、今後も生き残ってゆくような気がします。
(2020.1.18.)
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