ヘンデルとラモー

 このところヘンデルラモーのクラヴィーア曲(鍵盤作品)を少し集中的に弾いていました。別にどこかで披露するわけではなく、自分の愉しみのためだけです。いずれもベーレンライター原典版という版を使ってみました。
 ピアノ学習の上で、バッハはまあ必須と言って良いでしょう。インヴェンションからはじまって、平均律曲集イタリア協奏曲フランス組曲イギリス組曲パルティータと、どの段階であってもたいてい教本として使われます。バロック音楽の代表として、古典派・ロマン派の楽曲と併用して練習を課されるのが普通です。頂上と言うべきゴールトベルク変奏曲まで辿り着くのは少数でしょうが。
 次にドメニコ・スカルラッティでしょうか。バロック枠として、バッハの合間のように用いられることが多いようです。もちろんそこからのめり込んでしまって、やたらスカルラッティばかり手掛けはじめる学習者も居ます。スカルラッティの何百曲もあるソナタは、基本的には彼が家庭教師をしていた王女さまの練習曲として書かれたものだけに、易しいものからかなり難しいものまで取り揃えられており、さらに長さにさほどの差が無くいずれもコンパクトにまとまっています。そういうところから、好む人も多いのだと思われます。
 が、バロック枠の必須教材というのはだいたいそのあたりまででしょう。バッハやスカルラッティと同年(1685年)に生まれ、学校の授業で「音楽の母」などとも習った(そのせいで、最初女性だと思った人も少なくないかも)ヘンデルのクラヴィーア曲にまで手を伸ばす学習者はわりと少ないのではないでしょうか。

 ひとつには、ヘンデルのクラヴィーア曲というのは、バッハやスカルラッティに較べ、初学者用の作品が少ないからかもしれません。「調子の良い鍛冶屋」(第5組曲の終曲のアリア)などは比較的なじみやすいものの、それなりのテンポで弾きこなすのはけっこう大変であり、私もつい指がもつれてしまったりします。同じホ長調であるバッハのフランス組曲第6番とか、スカルラッティの雄鶏のソナタ(L23)とかに較べても、かなり歯ごたえがありそうです。
 また、ヘンデルの作品全体を見たときに、やはり『メサイア』とか『王宮の花火』とか『水上の音楽』など、わりに大きな編成を持つオーケストラ用の作品が目立ち、クラヴィーア作品というのがそれほど主たるものとは思われていないというのも原因でしょう。ヘンデルもクラヴィーア用の組曲をたくさん書いているのですが、バッハの組曲のように綿密に考え抜かれた構成を持っているとは言えません。そういう意味では学習者向けの教材にはなりにくいような気もします。また、それらの曲を楽に弾けるレベルであれば、もっと他に弾くべき曲があるとも言えます。結局、いろいろ弾いた末にバロック好みになった一部の演奏者が弾くだけといった位置にとどまってしまっているようです。
 以前『メサイア』を合唱で歌ったときにも感じましたが、ヘンデルの音楽にはバッハのような緻密な計算が感じられず、たとえばフーガ風な展開になったとしてもいかにも薄い感じなのでした。ベーレンライター原典版の第3巻に、6つのクラヴィーア用フーガが載っていますが、確かにちゃんとフーガにはなっているものの、どうもバッハのフーガほどの迫力が無いようです。自分の生徒に課題として与えるのなら、やはり平均律のほうが教材として優れていると思わざるを得ませんでした。
 しかし、「弾ける人」が華やかに弾きこなせば、かなりの演奏効果はあると思います。リサイタルの1ステージとしてヘンデルを選ぶピアニストは少ないようですが、レパートリーとして考えてみても良いかもしれません。
 ヘンデルの組曲も、バッハのと同じくアルマンド・クーラント・サラバンド・ジーグという4種類の舞曲が基本になっていますが、どれかが欠けているものも多く、組み立てとしてはより自由な印象があります。中には第2組曲のように、舞曲が全然含まれておらず、アダージオ──アレグロ──アダージオ──アレグロと記されているだけのものもあります。これは序曲風な第1曲、カプリチオ風な第2曲、サラバンド風な第3曲、フーガになっている第4曲という構成ですので、むしろバロック・ソナタに近いでしょう。
 ソナタと名付けられた曲もありますが、それらはむしろスカルラッティに近い単楽章の練習曲風なもので、多楽章制のいわゆるバロック・ソナタとは趣きが違っています。他にファンタジア、カプリチオ等々と称する作品もあって、ヘンデルの場合はどれも似たような雰囲気と形式を持っているのが不思議な気がします。
 そういえばソナチネという名前の曲もありますが、これも古典派以降のソナチネとは違って、「小器楽曲」という程度の意味合いであり、やはり単楽章です。
 組曲に話を戻すと、終曲にジーグを置かないものがかなり多く、その点ではバッハの組曲と異なっています。上に挙げた「調子の良い鍛冶屋」もそうですが、第7組曲の終曲として置かれたパッサカリアなどはなかなか感動的な作品です。また変ロ長調組曲の終曲に置かれた「アリアと変奏」の主題は、のちにブラームス「ヘンデルの主題による変奏曲」のテーマとして使っています。
 ト長調のシャコンヌが2曲あります。シャコンヌというのは上記のパッサカリアや、フォリアなどと共に、変奏曲の原型となった舞曲とされていますが、いずれも蜿蜒と繰り返される低音旋律の上にさまざまな形の上部旋律が組み合わされるという形を持っています。このうちフォリアは旋律そのものがほぼ決まっていますが、パッサカリアとシャコンヌは作曲家の創意による低音旋律が置かれるということになっています。やがてパッサカリアは低音の「旋律」を保持し、シャコンヌは低音の上に展開される「和音」を保持する、などのように分化しました。
 ところが、ヘンデルの2曲のシャコンヌを見ると、低音の動きがほぼ一緒です。しかもその動きは、ゴールトベルク変奏曲の最初の8小節とまったく同じになっているのでした(ソーファ#−ミーレーシードーレーソ)。
 どうも、本来シャコンヌというのは、フォリア同様、この低音旋律に決まっていたのではないかと私は思っています。ゴールトベルク変奏曲のほうが、この定旋律を敷衍した形で32小節にふくらませたのでしょう。ゴールトベルク変奏曲がシャコンヌの手法で作られているというのはよく指摘される点です。
 ヘンデルのシャコンヌの1曲は21の変奏を持っており、これはシャコンヌとしてはまあ標準的だと思いますが、もうひとつのほうは実に62もの変奏を持つ、非常に長い作品となっています。ただしバッハの無伴奏ヴァイオリン用のシャコンヌと較べてみると、変奏の配列にはさほど妙味が無く、終わりかたも地味です。
 生涯をドイツで過ごしたバッハと違い、ヘンデルはいろいろな国に出かけて演奏活動などをおこなっており、最終的には英国に渡ってそこに骨を埋めました。作品がいくぶん外面的で薄い感じがするのは、各国のお客にアピールする必要があったからかもしれません。また作曲スケジュール的にも、バッハのようにひとつの企画をじっくりと温めるという余裕は無かったように思われます。まあ、教会カンタータを毎週1曲ずつ200曲も書き飛ばしていったバッハもたいがいなものですが、長距離移動の多かったヘンデルはそれ以上に腰を据えて作曲することができなかったのかもしれません。大規模な管弦楽曲は、後半英国に居を構えてから書かれたものが多いようです。
 また、ヘンデルはバッハの書かなかったオペラをいくつも作っており、それらに時間をとられたということもあるでしょう。クラヴィーア曲というのが、彼にとってあまり本質的なスタイルではなかったのは事実ではないでしょうか。

 ラモーはバッハやヘンデルより少し先輩にあたるわけですが、クラヴィーア奏法についての教科書をはじめて編纂した人であり、クラヴィーア曲をメインとする作曲家であったと考えられます。同じフランス人であり、同世代であったクープランと並び称されることが多いのですが、クープランよりも地味かつ堅実な作風である印象があります。
 春秋社から、『バロックピアノ曲集』という本が出ていますが、私がラモーの作品に接したのはこの曲集からだったと思います。「タンブラン」などはそれ以前から小曲集のたぐいに載っていたのを見た記憶がありますが。
 この本、「バロック」と大きなくくりで題されていますが、実のところフランス・バロックの、それも後期というか末期の作曲家に偏った選びかたになっています。リュリ、クープラン、ラモー、ダカンの4人の作品集という体裁なのでした。編纂者の井口基成氏は、もしかしたらドイツ・バロックやイタリア・バロックの曲集もそのうち出すつもりだったのかもしれませんが、結局果たせずに終わったようです。
 この本の中で「変奏を持つガヴォット」は高校生だったころにピアノの先生にレッスンして貰ったこともありますし、いまでも私の愛奏曲のひとつです。6つのドゥーブル(変奏)を持つイ短調のガヴォットで、最後のふたつの変奏などは、ハープシコードよりもピアノで弾いたほうがカッコ良いと思えるほどに激しい起伏を持つ音楽となっています。
 さて、その本で興味を持って、ベーレンライター原典版でラモーの作品集を買い求めたわけですが、これがなかなか一筋縄では行かないシロモノなのでした。
 それは、非常に細かい装飾音の指定がついており、しかも現在の標準的な書法とはだいぶ異なった書きかたになっているからです。
 装飾音には、長前打音短前打音トリルプラルトリラモルデントターンアルペジオなどいろいろあるわけですが、現在では奏法と書きかたが大体決まっています。長前打音は現在では装飾音としては書かず、普通の音符として書くのが一般的ですが、モーツァルトあたりまでは装飾音扱いで、斜線を伴わない小音符という形で書かれていました。短前打音はいまでは斜線をつけた小音符で書きますが、ハイドンの中期くらいまでは斜線をつけないことも多く、長いか短いかはその都度判断しなくてはなりませんでした。ハイドンのピアノソナタの原典版を見ると、校訂者により「奏法」の注意書きが附記されているところが大変多くなっています。
 プラルトリラとモルデントは、それぞれ上向きと下向きの刺繍音を経て元の音に戻るという装飾音で、対にして考えられることが多く、記号もまたよく似たものが用いられています。NVをくっつけたようなギザギザの記号が上向きのプラルトリラ、それに縦棒を加えたものが下向きのモルデントです。ところが、モルデントの書きかたはいろいろと試行錯誤があったようで、ハイドンあたりまで微妙な記号を使っていたりします。ラモーはこの装飾音を、音符の右隣に右カッコ「)」をつけることで書き表しており、まずそれが見慣れないので面食らいます。
 それでは左隣に左カッコ「(」があればプラルトリラを意味するかと言えばそうではなく、プラルトリラについては現在の書きかたと大体同じになっています。左カッコは、長前打音を意味するのでした。
 さらに、しばしば音符の両側にカッコがつけられているのを眼にします。これは、「音符のひとつ下の音から開始されるモルデント」なのでした。ドという音符があるとして、モルデントがついていれば素早く「ドシド」と弾くことになるのですが、両カッコの場合は「シドシド」となり、なおかつ最初のシに少し重みをかけて弾かなければなりません。
 井口先生が現在の標準的な装飾音記譜法に直してくれているのを見ると、確かにそのとおりなのですけれども、この原典版の書法を見ながら弾いてゆくのはなかなかに厄介で、指になじんだ「ガヴォット」以外では相当に苦労します。
 また現在では縦の波線で表されるアルペジオが、ラモーの書法では音符の棒につけられた斜線で示されています。モルデントよりはわかりやすいのですけれども、どのくらいのタイミングでアルペジオを弾けば良いのか、判断に困ることがままあります。現在の波線のアルペジオは、わりと素早く、ハープをかき鳴らすように弾くことが普通ですが、ラモーの曲ではそれだと変なリズム感になってしまうことがあります。半拍から1拍くらいをかけてゆっくりめに弾くのが良さそうなのですが、瞬時に判断するのは難しい場合もあるのでした。ただ、波線のアルペジオは下から上に弾くのが標準で、どうしても上から引かせたい場合は波線に矢印をつけたり、「上から」と註記したりしなければなりませんが、ラモー方式だと和音の上と下どちらかに斜線をつけることで書き分けられるので、その点は便利でもあります。残念ながら、音符の棒に斜線をつけるという表記は、現在では同音連打トレモロという奏法を表す、別の意味になってしまっているので、ラモー方式を復活させるのは無理でしょう。
 ラモーはこれらの書法を、だいたい自分で考案したようで、それぞれの記号の奏法を、本の中で事細かに説明しています。

 ではそれまでは、同じ装飾音をどう書いていたのかと言うと、そもそも書いていなかったと思われます。もともと装飾音は、演奏者がその場で即興的につけてゆくのが基本だったのです。それをなんとか楽譜上に書き表そうと四苦八苦したのがラモーであり、それに続く18世紀ころまでの作曲家や音楽理論家たちでした。
 それにしても、ラモーのつけた装飾音の頻度からして、それまでの演奏で即興的につけられていた装飾音は、いまのわれわれが想像するよりもはるかに過多であったと思われます。なぜそんなことになっていたのでしょうか。
 当時の鍵盤楽器は、現在のピアノのように、弱音から強音まで自在に出すことはできませんでした。ハープシコードはそもそも強弱の調節ができず、かろうじてはじく弦の数を変えた2種類の鍵盤を用意することで「フォルテ」と「ピアノ」を出し分けるくらいでした。クラヴィコードは打鍵によって多少の変化をつけることは可能でしたが、そもそもの音がピアノよりははるかに小さく、従って強弱の幅もごく小さなものでした。
 また、音を長く延ばすこともできません。ハープシコードは機構としては撥弦楽器で、ギターやお琴に鍵盤がついたようなものだと考えればよく、音がすみやかに減衰するのは想像しやすいでしょう。クラヴィコードは打弦楽器というカテゴリーとしてはピアノと同じなのですが、共鳴箱の機構も弦の材質も貧弱で、ハープシコードよりもっと減衰が早い音しか鳴りません。ウッドベースの弦を木琴のマレットで叩いて出る音を想像すれば良いかもしれません。
 従って、音にアクセントをつけたり、延ばしたりするために、装飾音をつけるというアイディアが生まれたのではないかと私は想像しています。本来の音の上とか下とかの音を素早く鳴らすことで、実際の音量は変わらなくとも、音の「密度」が上がって疑似的なアクセントとして聴かせることができる、ということに誰かが気づいたのではないでしょうか。また上下の音と細かく交代させることで、「ずっと鳴り続けている音」のイメージを与えることができるわけです。
 バロック音楽で、こういう過剰なほどの装飾音を要求されるのはクラヴィーア曲と、あとは独唱曲くらいで、弦楽器や管楽器の曲にはそれほどは出てこないあたりを見ても、自力でほとんど音量を変えることのできなかったクラヴィーア独特の様式であったと思われるのです。少しあとのロココ様式になると、他の楽器でもやや過剰気味な装飾音が使われるようになりましたが、これはクラヴィーアで「やむを得ず」つけていた装飾音が案外面白いので、他の楽器にも応用しはじめたということではないかと考えます。
 なお音楽史上のロココ様式というのは、イタリアやドイツではあまり見られず、フランスだけの時代区分と言って良さそうです。クープランやラモーはバロックというよりもロココの作曲家と見なされることがあり、少なくとも両時代の境目くらいに位置していると考えられます。ラモーが装飾音の記譜法にあれこれと頭をしぼったのは、まさに、クラヴィーア以外の楽器にも華麗な装飾音が求められるようになりつつあるという現実が進行していたからなのかもしれません。

 古い時代の音楽を原典版で見たりすると、いろいろと考えが浮かんでくるようです。他のバロック作曲家の楽譜もいろいろ見たくなってきました。

(2020.12.17.)


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