LAST EMPERORS

第7回 愍帝(西晋)・恭帝(東晋)の巻

 武帝司馬炎(しばえん)が元帝から帝位を譲り受けたのは265年。15年後の280年には呉も降り、晋は中国を統一した。

 ──所詮天下の大勢は、合って久しいと必ず分かれ、分かれて久しいと必ず合うものだ。

 「三国志演義」の冒頭と末尾に、この同じ言葉が置かれている。三国志物語のメインテーマと言ってよい。
 だが、「必ず合」ったはずの天下は、あまり長持ちしなかった。「合って久し」くもない36年後の316年、匈奴(きょうど)政権である劉漢劉曜(りゅうよう)によって晋の皇帝(愍帝)が捕らわれ、あっけなく亡びてしまう。ただし皇族のひとりが江南、すなわちもとの呉の領域に逃れ、そこで皇帝を称したので、一応晋王朝の名は続いたのである。それ以前を西晋、それ以後を東晋と呼び分けている。
 地方政権と堕した東晋も、政権としては常にふらふらしていたものの、案外長持ちして、将軍の劉裕(りゅうゆう)に乗っ取られる420年まで、100年あまり続いた。これで見ると、晋の国力というのは、もともとせいぜいかつての呉の領域を統治できる程度のものでしかなかったのだと考えられる。天下を治めるほどのタマではなかったということだ。

 創始者の武帝自身、さほどの才覚の持ち主ではない。魏を乗っ取るに至るためのお膳立ては、父の司馬昭(しばしょう)がすっかり調えており、武帝はプログラムに従って行動したまでのことであった。呉を亡ぼしたのも、彼の能力というよりは敵失に頼った部分が大きい。現に、呉を攻めるにあたって、前線にいた将軍杜預(どよ)の表に、
「いま呉では暗君(孫皓(そんこう)のこと)が上にいて、人民が疲弊し、怨嗟の声が高まっています。この機を逃さずに攻めるべきです。もし暗君が退位して明君が立ったら、もはや手がつけられないでしょう」
ということが書かれていた。呉が明君の指導のもとに立ち直ったら、それを倒すだけの力は晋にはないということを告白している。
 孫皓が降ると共に、その後宮にいた多数の美女たちも洛陽に連れてこられた。武帝は彼女らの色香に踏み迷い、その後淫蕩三昧の日々を送るようになった。一大敵国を降参させて、緊張の糸がゆるんでしまったためもあるだろうが、もともとその程度の男だったのである。
 邪馬台国卑弥呼(ひみこ)のあとを継いだ壱与(いよ)が、武帝の即位の翌年に祝賀の使者を送ったらしいが、その後倭からの使者が訪れたという記録は残っていない。記録にないだけかもしれないが、武帝が頼りにならぬと見て使者の派遣をやめてしまったとも考えられる。

 そもそも司馬氏が天下をとるにあたっては、武力で圧倒したというよりは、むしろ隠微な宮廷工作でのし上がった印象が強い。宣帝と追号された司馬仲達景帝と追号された司馬師はまだ軍人としての履歴も燦然たるものがあるが、司馬昭(文帝と追号された)になると怪しくなる。諸葛誕の叛乱の時も、蜀を亡ぼす時にも、別に自ら前線に赴いたわけではない。陰謀と謀略で徒党を増やし、甘言をもって多くの味方を引き入れたのである。
 そういう経緯があってみれば、晋の皇帝は廷臣たちに対してあまり強くは出られなかったのも無理はない。ほとんどの臣下はもと同僚なのである。武帝その人に卓越したカリスマ性でもあったならば、彼らを心服させることもできたろうが、彼にはそういった資質はなかった。勢い、重臣たちの態度はでかくなる。これら態度のでかい重臣たちの一族が、のちに南朝貴族として端倪すべからざる存在になってゆくのである。

 武帝はこれに対し、一族に大きな力を持たせるという方法で対抗しようとした。
 魏の曹氏が、お家騒動をおそれるあまり、皇族を徹底的に抑圧し、そのため司馬氏の専横に対して誰ひとり起ち上がれなかったという教訓に学んだとも言える。
 歴史に学ぶのは結構だが、過ぎたるは及ばざるがごとしという格言に思い至らなかったのは残念であった。
 皇族にやたらと大きな権限と武力を持たせたため、皇族どもが権勢を奪い合って、凄惨な殺し合いを始めてしまうのである。いわゆる八王の乱である。

 武帝は290年に没し、恵帝が立った。
 この皇帝は暗愚そのものであった。蜀の劉禅が暗愚だと言われるような意味とは違い、はっきりと精神薄弱だったようである。
 凶作で米が穫れず、庶民が飢えに苦しんでいるという話を聞いて、不思議そうに、
「米がないなら、どうして肉の粥でも食わないのだろうか」
と首を傾げたという話がある。はるかな後年、フランス王妃マリー・アントワネットが、やはり飢えた庶民について、
「パンがないなら、ブリオッシュを食べればよいのに」
とのたもうた話と東西軌を一にする。

 恵帝の皇后は、司馬昭に協力して禅譲のお膳立てを作った賈充(かじゅう)の娘であるが、色黒のチビでブスで淫乱でヤキモチ焼きで、権勢欲ばかり強いとんでもない女だと、史書にはさんざんの書かれようである。結果的に彼女が晋王朝をひっかきまわしたおかげで国力が衰弱し、匈奴などにつけ込まれることになったのだから、歴史の評判が悪いのはやむを得ない。
 権勢欲が強かったというのは本当らしいが、あまりに暗愚な夫を見かねたからかもしれない。

 ──わたしがなんとかしなくては。

 と使命感に燃えていたとも考えられる。
 ともあれこの賈皇后は、(よう)皇太后との大奥の争いに打ち勝ち、自分の腹の子でなかった皇太子司馬?(しばいつ)を抹殺し、権力を一手に掌握して、自分の一族を要職につけた。
 やったことは漢の高祖の皇后だった呂氏に似ているが、呂氏がそれなりに国家百年の計を考えて行動していたらしいのに較べると、賈皇后には別に理念と言うほどのものはなかったようである。
 地方の王に封じられていた皇族たちが叛乱を起こしたというのは、やはり漢初の呉楚七国の乱と似ている。が、呉楚七国の乱を鎮圧した周亜夫(しゅうあふ)のような名将はいなかった。それに武帝は呉を亡ぼしたのち、軍備を大幅に縮小し、あの広大な中国大陸を治めるのに、常備軍は1万数千人しかいなかったという。もし名将がいたとしても、これでは立ち向かいようがない。

 300年に勃発した八王の乱は、次々と主役を変えつつ6年間続いた。詳細を述べるのは面倒だし意味もないので省略するが、簡単に言えば、何人かの皇族が連合して首都に乗り込むが、すぐに主導権争いで分裂し、殺し合っているところへ別の皇族連合が乗り込んでくるという繰り返しである。
 暗殺と陰謀だけで権勢をつかみ、特に強大な軍事力を抱えているわけでもなかった賈皇后一族はいちはやく誅滅された。
 武帝もそうだったが、司馬一族には、頂点をきわめるまでは颯爽としているが、トップに立った途端どうしようもなく堕落するという遺伝的因子があったようである。次々と首都洛陽に乗り込んでくる皇族たちも、一旦相国(太政大臣)などの地位について権限を掌握するや、たちまち酒や女に溺れてメロメロになってしまうのだった。

 これには、時代背景も影響していたかもしれない。後漢末以来の戦乱や権力闘争にくたびれ果てていた人々は、政治や軍事を疎んずるようになっていたのである。もっとわかりやすく言えば、政治や軍事に目の色を変えるのはダサいという風潮となっていた。特に首都ではそうである。何やら現代のどこかの国に似ていなくもないようだが、地方から意欲に燃えて上京してきた連中も、首都のこの頽廃した雰囲気に接して流されてしまったのかもしれない。
 この時代の士大夫の理想といえば、一切の俗事から離れて、山間の竹林あたりに寓居を構え、酒やヤク五石散という一種の麻薬が流行した)に身を委ねつつ、人生や宇宙の神秘について気の合った仲間と語り合うというようなものであった。魏の後期の竹林の七賢あたりが模範となったのである。
 それはそれですがすがしい生き方かもしれないが、政治という俗事の中枢にいる連中までそれに憧れ、憧れるだけではなくて実践しようとしたのだから、どうしようもなかった。
 その実例が、次に述べる王衍(おうえん)のエピソードである。

 八王の乱で、司馬一族が不毛な殺し合いを続けているうちに、北方の匈奴がめきめきと力をつけていた。特にこの時期、劉渕(りゅうえん)という英傑が出現して、バラバラになっていた匈奴を統一することに成功したのである。なお、かつて漢の高祖と匈奴の首長冒頓(ぼくとつ)とが義兄弟の盟を結んだことがあるため、匈奴は中国風の名を名乗る時は劉姓を用いた。
 劉渕はやがて自ら皇帝を称した。国号は劉姓ということで漢とした。劉漢と呼ばれる。
 彼の死後、皇太子の劉和(りゅうか)が立とうとしたが、即位前に弟の劉聡(りゅうそう)に倒された。劉聡が二世皇帝となる。
 劉聡は、匈奴の別部である(けつ)族の首長で、勇猛で知られる石勒(せきろく)を派遣して洛陽を攻撃した。この時洛陽防衛の責任者だったのが王衍である。
 ところが、王衍は首都防衛を捨てて逃げようとした。総司令官が逃げようとするのだから首都の人間は恐慌に陥り、われもわれもと王衍について行こうとしたため、脱出行は10万人の多きに達した。こんな大人数の集団はすぐに捕捉され、石勒軍にいいように蹂躙された。
 王衍は捕まって、石勒の前に引き出された。名門の出らしく王衍の態度は優雅そのものであったが、言うことは軟弱きわまりなかった。
 「今回の抗戦のことなど、私のあずかり知らぬことでございました。大体私は、若い頃から政治などにはとんと興味がござらぬで、今回も無理に押しつけられたことで……」
 石勒はあきれて、
「君は若い頃から朝廷に出仕して、その名は四海を覆い、その身は重任にあったではないか。政治に興味がないで済まされるわけがないだろう」
と言い、さらに痛烈に叫んだ。
「天下を破壊せしは、君にあらずして誰ぞや!」
 そして、王衍は殺されてしまった。

 いつの間にか人材登用は、後漢の「人格本位」でもなく曹操の「能力本位」でもなく、「家柄本位」になってしまっていたのである。曹操は人材をその能力に応じて九段階に分けて登用する「九品中正法」という制度を編み出したが、半世紀も経たないうちに有名無実化していた。というのは、「九品」を審査すべき「中正」の連中が、賄賂次第でどうにでも動いたからである。当然、賄賂が多い者ほど高位につけるわけで、つまりは富裕な者が権限を独占することになる。すでに晋初、

 ──上品に寒門なく、下品に勢家なし。

 と言われる状態となっていた。高位には貧乏な家の者はおらず、下っ端には富裕な家の者はいないということである。
 王衍の属した琅邪(ろうや)王氏は、この時代の名門中の名門で、王衍が国防相にあたる太尉となったのも家柄のおかげであった。が、この時代の流行、つまり政治や軍事をダサいと考えて忌避し、役にも立たない形而上の雑談にふけるという風潮の最先端を行く男でもあったので、この始末である。

 洛陽は、劉渕の養子であった劉曜(りゅうよう)を総司令官とする劉漢軍によって陥された。恵帝の死後帝位に就いていた末弟の懐帝(かいてい)は捕らえられた。
 懐帝は劉聡のもとに護送されたが、劉聡は彼に下僕の扮装をさせて酒宴で給仕させたという。懐帝もさほどの抵抗なくそういう屈辱に甘んじたようで、彼もまた世俗のことなどには大してこだわりがなかったのかもしれない。しかし、劉聡はそのうち懐帝を殺した。
 長安にいた皇太子の司馬鄴(しばぎょう)が即位したが、これも3年後に劉曜に捕らえられた。劉聡はこれまた懐帝と似たような扱いをしたのち殺した。かくて西晋は亡びた。
 西晋のラストエンペラーである司馬鄴こと愍帝(びんてい)については、ほとんどなんのエピソードも残っていない。首都が失われ、地方都市で即位したものの、そこから出ることもできず、ただ敵に包囲されて降参するだけの人生であった。
 このあと、勝者である劉漢の内部でもお家騒動や内部分裂が始まるが、今回はそれに触れている余裕はない。

 皇族のひとりである司馬睿(しばえい)はこれに先立つ307年、側近の王導(おうどう)の勧めに従い、八王の乱で混乱した首都を避けて、かつて呉の首都であった建業(=現在の南京)に移った。
 司馬睿は、武帝の従弟の子、つまり恵帝や懐帝の又従兄弟に当たるから、かなり遠縁と言ってよい。もっとも中国では日本で考えるほど遠い感覚ではないかもしれないが。
 ともあれ彼は、愍帝が劉聡に殺されたことを知ると、やはり王導の勧めに従って自ら即位した。これが元帝であり、これ以後を東晋と呼ぶ。
 建業への移住や即位のいきさつから考えても、元帝が王導に頭が上がらなかったことは容易に想像できる。王導もまた王衍と同じ琅邪王氏の一員だったが、王衍などよりは遙かに傑物であった。その従弟の王敦(おうとん)は勇猛な将軍だったし、東晋王朝ははじめから政治・軍事共に琅邪王氏に牛耳られていたと言ってよい。なお「書聖」と呼ばれる王羲之(おうぎし)も同じ琅邪王氏である。
 こういう存在は、当然ながら皇帝権力にとっては目の上のコブとなる。元帝に始まる東晋の皇帝たちは、なんとかして琅邪王氏の力をそごうとした。危機を感じた王敦などは反逆の兵を挙げたほどだが、これは陶侃(とうかん=詩人陶淵明の曾祖父)によって鎮圧された。
 3代目の成帝の頃、琅邪王氏はようやくその勢力を減ずるが、代わって外戚の廋亮(ゆりょう)、将軍の桓温(かんおん)とその子桓玄(かんげん)など、次々に新しい有力者がのさばっただけのことで、東晋の皇帝が、他の追随を許さないほどの絶対的権力を掌握することはついになかった。桓玄に至っては、わずかな期間ながら自ら皇帝を名乗ったほどであるが、かつて妥当したライバル劉牢之(りゅうろうし)の部将だった劉裕に討たれる。この劉裕が、のちに東晋にとどめを刺すことになる。

 そもそも東晋は一種の亡命王朝である。亡命先は先述の通り、かつての呉の地であって、36年前に他ならぬ晋によって亡ぼされたわけで、呉の遺臣の多くはまだ生きていた。彼らは東晋王朝に対し、もともとさほどの忠誠心など持っていない。
 呉自体が、前回書いたように、豪族の連合体のようなところがあった。豪族たちへの気配りを忘れて専制を振るった孫皓が見捨てられたのは当然だったのである。呉の皇帝は、専制君主であるよりは盟主と言うべき存在だった。従って、この地の人々も、皇帝というものをその程度にしか見ていない。
 そこに、亡命王朝がやってきても、あまり崇敬する気にならなかったのはあたりまえだろう。
 しかも、亡命王朝にくっついてきた連中がひどかった。琅邪王氏ばかりではなく、いたずらに家柄誇りをし、土着の人々を見下したのである。ある地生えの将軍は、大きな戦功を立てたわりに酬いられず、無念のあまり憤死したが、息子に宛てて、
 ──わしを殺したのは北から来た連中だ。奴らに復讐できなければわしの子ではないぞ。
 というすさまじい遺言を遺している。
 人事面での差別ばかりか、亡命者たちは、この地に本貫(戸籍)がないという理由で、しばらくは税金さえ払っていなかったというからとんでもない話である。住民税方式にして、この連中からも税を徴収するようにしたのは前述の臾亮で、すでに東晋建国30年近く経ってからのことであった。

 そんなこんなで、東晋の皇帝権力は甚だしく弱かった。ただし、その下に極端に強い一族がいたわけでもないので、そのバランスの上にうまく乗っていたと言うべきだろう。有力な家柄の者たちも、西晋時代に引き続き、おおむね政治や軍事を軽視する傾向があり、形而上的な清談を好んだから、皇室を覆そうという意欲もなかったのである。
 こうした意識のあり方をも含めて、魏・晋から宋・斉・梁・陳と続くいわゆる六国時代を、中国唯一の貴族制の時代だったと主張する論者もいる。
 東晋はそんなわけでなんとも頼りない、ふらふらした政権ではあったが、それがかえってよかったのかもしれない。あちこちがたぴしして、いつも体調が悪いと訴えている人が案外長生きするように、北に常に強大な勢力を誇る異民族政権が跋扈しているのにおびえながらも、100年以上もの長きにわたって命脈を保つことができたのである。

 ただ保っているばかりではなく、383年には、百万の大軍を呼号する前秦苻堅(ふけん)の南征軍を、淝水(ひすい)で撃退したりもしている。この時東晋が動員できたのはわずか8万であった。
 もっとも、中国で兵の数を「号する」と書かれている場合は実数は大体半分と見なしてよい。それでも50万という、日本では想像もつかない大軍であるが、実はこの中には荷物担ぎの人足やら、「従軍慰安婦」やら、いろんな非戦闘員が含まれている。遠征軍の場合は非戦闘員が半分以上、時には8割以上にもなることがあるし、苻堅のかき集めた軍団は、民族も命令系統もバラバラな烏合の衆に近かった。実働戦闘部隊は10万くらいだったのではないか。
 これに対し、東晋軍の8万は「精兵」つまり実質戦闘員の数であり、自国で戦うから輜重も楽である。実質10万の遠征軍を8万の防衛軍が迎え撃つのは充分に可能であり、特に遠征軍の方が先に渡河しようとしたのなら撃退もそれほど難しくない。しかも苻堅軍の先鋒にいた将軍は東晋からの降将であり、寝返りの機会を窺っていたというのだから、東晋軍の奇蹟的な勝利というわけでもない。
 とはいえ、ふらふらして頼りない東晋がよくがんばったということは言える。東晋はこの頃、簒奪の野望を抱いていたと言われる桓温が死に、その子の桓玄はまだ頭角を顕わさない時期で、穏健な謝安(しゃあん)が政権に就いていた。言ってみれば東晋がいちばん安定していた時代だったのである。苻堅もよりによって間抜けな時期に遠征軍を発したものである。
 この謝安という男も、この時期の貴族らしさを十二分に持っていた。淝水の勝利が伝えられた時、彼は来客と碁を打っていたが、報告書を受け取って一瞥したきり、素知らぬ顔で対局を続けたという。客の方が気にして、
「何事か起こったのではありませんか」
と訊ねると、謝安は平然と、
「いやなに、こわっぱどもが夷狄を追い払ったそうでしてな」
と答えるのみであった。が、客が帰ると、彼は部屋にこもって、小躍りしたのだった。人前で政治や軍事のことを大げさに語るのはダサい、というこの時代の貴族気質をよく顕わしている挿話だと思う。

 さて、ラストエンペラーとなった恭帝について触れなくてはならない。
 彼の名は司馬徳文(しばとくぶん)。その生涯はけなげにも悲劇的である。
 名宰相であった謝安の死後、時の皇帝であった孝武帝は弟の司馬道子(しばどうし)の補佐を受けて親政を始めるが、この兄弟は揃って暗愚であった。孝武帝はほどなく政務に飽き、司馬道子に任せきりにして酒色にふけるが、任せられた司馬道子の方はひたすらに私利私欲に走り、財産を貯め込むことに狂奔した。当然ながら、国内のたがはゆるみ、不満が蓄積される。
 孝武帝は、酒の席で愛妾に向かって、
「おまえもそろそろ齢だなあ。若いのに換えなきゃならんかな」
と放言したところ、腹を立てた愛妾に布団蒸しにされて殺されてしまった。歴代皇帝の中でも、これだけ間抜けな死に方をした男も珍しい。
 あとを継いだのが17歳の安帝だが、彼は重度の精神薄弱で、食事さえ自分ではできなかったという。司馬道子は安帝を廃して自分が即位しようと考えたようだが、安帝の側には常に3つ年下の実弟が付き従い、献身的に安帝の世話をしていたので、司馬道子のつけ込む隙がなかった。
 3つ年下、安帝の即位時14歳のこのけなげな少年こそ、のちに恭帝となった徳文だったのである。
 もっとも14歳の少年に邪魔されて簒奪を果たせなかった司馬道子も、間抜けと言えば間抜けだ。

 安帝と恭帝の叔父にあたる司馬道子は間抜けだったが、その子の司馬元顕(しばげんけん)は切れ者だった。
 安帝即位の翌年(398)、司馬道子の排斥を謀って、王恭(おうきょう)と殷仲堪(いんちゅうたん)が兵を挙げたが、この時王恭の部将であった劉牢之を巧みに引き抜き、叛乱を未然に防いだのは、弱冠17歳の司馬元顕だったのである。父の司馬道子はこの時おろおろするばかりで、どうすることもできなかった。
 元顕は父を重職から引き下ろすと、自分がその職に就き、父以上に暴利をむさぼった。そのため彼の領地から、今度は新興宗教を中心にした孫恩の乱が勃発する。劉牢之の下にあってこの乱を鎮圧したのが劉裕であり、この時代には珍しい、一兵卒から叩き上げの将軍だったのである。
 孫恩の乱の時、西部方面軍を率いていた桓玄は、自分を用いるようにと朝廷に申し出たが、桓玄の野心をおそれた朝廷によって拒否された。何しろ彼は、簒奪をもくろんでいた桓温の子なのである。
 桓玄はこれを恨み、402年、建業(建康と改名されていた)に向かって兵を発した。朝廷は、というより司馬元顕は、ただちに劉牢之に防衛を命じたが、劉牢之は言を左右にして応じない。彼はすでに晋王朝が長くないことを察し、ここは桓玄に恩を売っておき、その隙を見て桓玄を殺して自ら皇帝になろうとしていたらしい。
 劉牢之が動かなかったので、桓玄は403年、あっさりと建康に入城し、司馬道子・元顕父子を殺し、安帝を退位させて自分が即位した。そしてライバルの劉牢之については地方へ飛ばしたのである。
 劉牢之は怒り、兵を挙げようとしたが、

 ──王恭を裏切り、晋皇室を裏切り、いままた桓玄を裏切ろうという大将のもとでなど働けるか!

 と、劉裕をはじめとする部下の将兵ほとんどに見放されて、落魄して自殺した。

 劉裕は桓玄に帰順し、重用されたが、彼は最初から桓玄を誅殺するつもりであった。瞬く間に手を廻し、翌404年には桓玄を攻め滅ぼしてしまう。幽閉されていた安帝を復位させ、自らは大将軍となって権力を掌握した。
 重度の精神薄弱であった安帝は、このあと14年間在位するが、劉裕は何を思ったか突然安帝を暗殺し、弟の徳文を帝位に就けた。精神薄弱の兄に献身的に尽くしたけなげな少年も35歳になっていた。食事の世話から、シモの世話までして兄に尽くしたのは感動的だが、この齢になるまで、なんら政治的な行動を起こそうともしていないところを見ると、人が好いだけが取り柄の男だったようである。
 帝位に就いたのも、劉裕の言うなりであった。劉裕が、14年目になってこのような不可解な行動を起こしたのは、予言書に書かれていたことを気にしたからだと言われている。

 即位して恭帝となった徳文は、すでに宋公となっていた劉裕を、翌年宋王に進め、さらに翌420年、これまた劉裕の要求するまま、帝位を譲り渡す。公──王──皇帝のルートは、曹操以来繰り返されたこの時代の必須パターンである。
 恭帝は禅譲の席で、左右の朝臣に向かい、にっこりと笑って、
「桓玄が謀反したおり、晋の皇室はすでに亡びていたのだ。それを20年も長らえさせてくれたのは、ひとえに劉裕殿のおかげである。本日の儀、まことに満足に思う」
と言ったという。
 だが、劉裕は曹丕や司馬炎よりも冷酷だった。追号通り恭順そのもので、子孫が残らないように男子が生まれるとひそかに圧殺するほどに気を遣っていた恭帝を、無惨にも殺害してしまう。それも、毒を呑むことを恭帝が拒否すると、父の孝武帝と同じ、布団蒸しで殺したのであった。
 もはや、前王朝の皇帝を、王や諸侯として生かしておけるような時代ではなくなっていたのである。
 劉裕の興した宋のあと、王朝は次々と交代するが、劉裕の振る舞いが先例となったのか、その王朝交代はほとんどすべてが、大量虐殺を伴う陰惨なものとなってしまった。南朝の各王朝は建業つまり南京に都を置いたのだったが、その後中国史において限りなく繰り返される「南京大虐殺」はこの時代に始まったのである。

 (1999.6.14.)


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