秦が中国全土を統一したのち、全国的政権が途絶えて群雄割拠の乱世となったことはたびたびあったが、それがかなりの期間続いたということになると、後漢末から三国時代、東晋南北朝時代、それに唐の滅亡(907)のあと宋が建国(960)されるまでの五代十国の時代がある。さらに辛亥革命(1911)から中華人民共和国の成立(1949)までの約40年間もこれに加えてよいかもしれないが、こうしてみると中国人の統一への希求力というのはなまなかなものではないように思える。
実際には、分裂していた時代こそ、さまざまな制度や思想がテストされ、開拓も進み、各地の特色も鮮明になって、人々にとっては暮らしやすかったとも言えるのである。長い分裂時代のあとの統一王朝は、中華人民共和国を含めて、例外なくその果実を受け取って栄えているのだ。
現在の中国なども、いっそ7つくらいに分けてしまった方が、小回りも利くし、発展しやすいだろうと思われるのだが、中国人は少なくとも表向きは絶対にそれを認めない。分裂によるいかなるメリットよりも、統一の方が大事だと思っている。台湾の問題なども、それがわかっていないと理解できない。
五代十国というのは五胡十六国と字面が似ていて、私など高校生の頃には混乱してしまっていた。どっちがどっちだかわからなくなってしまうのである。
五胡十六国というのは、5つの異民族が16の国を建てたという意味だが、五代十国の方は、中原で5つの政権が交代している間に、それ以外の地域で10の国が興亡したという意味であり、語法が異なっている。
中原の5つの政権とは、後梁、後唐、後晋、後漢、後周。全部「後」の字がついているのは、全部二番煎じの国号だったからである。ちなみにこの「後」はコウと読むのが普通だ。4番目の後漢はコウカンであり、光武帝の建てた後漢はゴカンだが、紛らわしいので光武帝の方は東漢と呼ぶこともある。むろんどちらにしろ、自分たちは後漢などとは称さず、「大漢帝国」を名乗っていた。ほかのも「大梁」「大唐」……であるが、短命で二番煎じの国号では、後世の史家からは「後」をつけられるのはやむを得ない。
後周から政権を譲り受けた趙匡胤(ちょうきょういん)は宋という王朝を開いたが、この宋という国号も、春秋時代にもあったし、南北朝時代にも存在した三番煎じだったけれど、後宋とは呼ばれない。長続きしたからである。
ちなみにこの頃までの国号は、始祖が最初に受けた王号もしくは爵位にある地名をつけるのが普通だった。劉邦は最初に漢中王に封じられたので自らの国を漢と名付け、曹操も魏公から魏王になったので魏を国号とした。地名と関係のない雅字を用いるようになったのは金からである。
五代とものものしく称しても、全部ひっくるめて53年に過ぎない。つまりひとつの政権の平均寿命は10年ちょっとだった。それで政権交代のたびに殺戮と流血が繰り返されたのだから、どうしようもない時代ではあった。
五代すべてを経験した人間も、数多くいただろう。その中でも、ほとんどすべての王朝で高位に就きながら、巧みに乱世を泳ぎ切った男がいる。その名は馮道(ふうどう)、「五代の宰相」の異名を持ち、この時代の主人公をひとり選べと言われれば文句なくノミネートされるであろう。
五代それぞれの王朝のラストエンペラーを語る前に、この馮道の経歴を見てみることにしたい。むしろその方が、五代という時代を俯瞰するには好都合なのだ。
彼は唐末の882年に現在の北京の近くで生まれ、地方軍閥劉守光(りゅうしゅこう)の幕僚となった。劉守光は後梁を開いた朱全忠(しゅぜんちゅう)やその宿敵の李克用(りこくよう)にはさまれた二流軍閥だったが、誇大妄想的な人物だったらしく、みずから大燕皇帝を名乗った。この「燕国」は誰にも認められていない。
劉守光は領土拡大のための出兵をしようとしたが、馮道はそれに反対して投獄された。身分が低かったから投獄で済んだらしく、その前に皇帝僭称に反対した重臣の孫鶴(そんかく)は首を切られてしまっている。
馮道が獄中にいるうちに、劉守光は李克用の跡を継いだ李存勗(りそんきょく)に攻め滅ぼされる。獄中にいたがために助かったと言えなくもない。彼は李存勗の側近であった宦官の張承業(ちょうしょうぎょう)に認められ、書記の地位に就いた。
李存勗はやがて(923年)自ら帝位に就く。すなわち後唐の荘宗である。馮道はその朝廷で翰林学士となった。詔勅を起草する役目である。荘宗は即位してすぐに、後梁を亡ぼした。馮道はこの征戦に従軍しているが、略奪など一切しなかったという。
42歳の時、父が亡くなり、彼は官職を辞して喪に服した。その間に荘宗は急速な唐かぶれで評判を落とし、自分で抜擢した将軍に殺されてしまった。李克用の義子であった李嗣源(りしげん)が代わって帝位に就き、明宗となった。明宗は五代の中でも名君とされた皇帝だが、喪の明けた馮道を重用し、宰相とした。
明宗は在位8年で没し、そのあと少々ごたごたしたが、三男の李従厚(りじゅうこう)が即位して閔帝となった。この男は人望がなく、宗廟名が与えられていないのでわかる通り、終わりを全うできなかった。明宗の義子であった李従珂(りじゅうか)に攻められて亡命し、最後は殺されたのである。この時、首都洛陽に残された宰相の馮道は、李従珂に対して勧進をおこなった。勧進というのは、相手の徳をたたえ、帝位に就くよう懇願することである。閔帝の臣下でありながら、叛乱軍の李従珂に対して勧進をおこなった馮道の行為は、歴史上すこぶる評判が悪いが、皇帝自身が逃げ出してしまった以上、首都を戦乱から救うためにはそうするしかなかったのだ。
李従珂は即位し、末帝となった。この追号でわかる通り、彼も終わりを全うせず、しかも後唐に終止符を打つことになった。
明宗の女婿であった石敬瑭(せきけいとう)は、皇帝となった李従珂に煙たがられ、その力を削られそうになったので、北方の契丹(きったん)族の手を借り、李従珂を攻め滅ぼしてしまった。石敬瑭は後晋王朝を開いたが、急場のこととて百官を調える閑がなく、後唐の廷臣をそのまま在職させたのであった。従って、馮道もまた現職に留まった。
後晋の高祖となった石敬瑭は、契丹に力を借りたため、燕雲(北京附近)13州の割譲、そして年々財物を贈らざるを得ない状況になっていた。契丹はこの頃、英傑耶律阿保機(やりつあほき)によって統一され、遼という国号を称していた。この遼はこの後長いこと中国に祟ることになる。
たまたま遼の太祖耶律阿保機が没し、太宗耶律徳光(やりつとくこう)が即位した。太宗の母が皇太后に冊立されたので、その祝賀使として馮道が遼に赴いた。太宗は彼の才能を見て幕下に留めようとしたが、彼はなんとか拝辞し、帰国した。この時遼に顔を売っておいたことが、あとになって役立つことになる。
大任を果たして帰った馮道は高祖に絶大な信頼を受けたが、その跡を継いだ出帝の側近は対契丹強硬派が多く、無益な意地を張って契丹との交渉を決裂させてしまった。馮道はこの時あえて局外に立っていたが、主戦論者に忌避され、地方へ左遷されてしまう。
が、後晋の実力では、遼にかなうべくもなく、たちまち攻め込まれて亡ぼされてしまった。
馮道は左遷されていたがために、この戦乱に巻き込まれずに済んだ。遼の太宗が首都開封を制圧すると、彼は出かけてゆき、無用な殺戮や略奪を控えるよう懇願したのである。
「こうなりましては、民衆は仏が再び現れようとも救われませぬ。ただ陛下のみが、救うことができるのでございます」
太宗は、気に入っていた馮道の諫言を容れ、略奪をやめさせたという。
たかが異民族政権の首長を、仏以上と持ち上げたというので、彼のこの言葉も批判者が多い。が、実力者相手にはこのくらいのことは誰でも言うだろう。いつの世にも、人の言葉尻を捉えて云々する連中は後を絶たないものである。
馮道は太宗に厚遇され、太傅の職に任ぜられた。太宗はその後開封を切り上げて北へ帰ることにしたが、その途中で没した。そのあとも多少の後継者争いがあったのち、甥が即位して世宗となった。
馮道はその間、桓州に留められていたが、この土地の太守が暴虐な男で、一揆が発生したので、そのごたごたに紛れて、開封に帰ったのである。
開封は後晋の高祖の重臣であった劉知遠(りゅうちえん)が押さえていた。劉知遠は後漢王朝を開いてその高祖となっていた。馮道はその幕下に入ったが、すでに67歳という齢ではあり、閑職に廻されたらしい。
高祖劉知遠は即位後わずか1年で没し、皇太子が即位して隠帝となったが、有力家臣の存在を怖れて除こうとしたため、部将の郭威(かくい)に攻められた。しかし郭威が開封に近づく前に、隠帝は側近に殺されてしまっていた。
郭威は開封に入城して実権を握り、高祖の甥を擁立すべく、守大師の職にあった馮道を迎えにゆかせたが、彼が戻る前に、逆に部下たちに擁立されて自分が帝位に就いてしまった。後周の太祖である。
馮道は太祖にも厚遇されたが、3年後の954年、太祖よりわずかに先んじて、73歳の生涯を終えた。
馮道は「五朝八姓十一君」に仕えたとされる。五代のうち後梁だけには仕えなかったが、あとの四代に加えて遼に仕えたので確かに五朝。仕えた主は、劉守光、後唐荘宗、明宗、閔帝、末帝、後晋高祖、出帝、遼太宗、後漢高祖、隠帝、後周太祖となるのでこれも確かに十一君。八姓というのはわかりずらい。後唐の荘宗と明宗、閔帝と末帝には現実には血縁がなかったので別姓としたのだろう。
こういう彼の生き様は、儒教道徳の確立した後世からは、不忠者、変節漢として実に評判が悪いが、彼はむしろ、「民を重きとなし、君を軽きとなす」という孟子の思想に忠実だったと言えなくもない。平均10年で亡びてしまう王朝に忠誠を尽くせという方が無理なのである。常にトップに近いところにいて、民衆を戦火から守るという方がよほど大事なことであろう。
さて、ざっと「五代の宰相」馮道の経歴を見てきたが、五代の盛衰についてもほぼこれで概観できたと言ってよい。あとは補足程度に、簡単に触れるに留める。
★後梁(907-923)★
唐を亡ぼして後梁の太祖となった朱全忠は、好色な男で、仮子(文字通り、仮に親子の縁を結んだ相手で、親衛隊のような存在となる。仮とはいえ親のためなら最後まで忠節を尽くすだろうと期待してのことである)の朱友文(しゅゆうぶん)の妻に懸想し、通じた。部下ウリヤの妻パテシバに懸想してウリヤを死地に送り込んだダビデ王よりは義理堅かったようで、太祖はこの愛人を喜ばせるために、朱友文を後継者にしようとした。
あわてたのが実子の朱友珪(しゅゆうけい)である。彼は太祖が本式に後継者を決めないうちにと思い、あろうことか親父を殺し、返す刀で朱友文夫妻も殺してしまった。
が、朱友珪もまた、実弟の朱友貞(しゅゆうてい)に攻め滅ぼされたのである。この朱友貞が後梁の末帝で、その名の通りラストエンペラーとなった。
後梁はお家騒動をしている余裕はなかったのだ。宿敵の晋王李存勗が虎視眈々と狙っている最中なのである。末帝は10年の治世を李存勗とのつばぜり合いに終始したが、家臣や部将たちの間もうまく調整できず、ついに李存勗の軍に首都大梁を包囲され、八方ふさがりとなって自殺したのだった。
★後唐(923-936)★
前述の通り、荘宗李存勗は、在位3年にして、俳優から取り立てた将軍の手に掛かって弑殺される。
そもそも荘宗は唐にかぶれており、国号を唐としたのもそれにあやかりたいと思ったからであった。強大な力と長命を保った唐にかぶれるのはやむを得なかったが、唐の命脈を縮めたと言われる宦官勢力を、せっかく朱全忠が一掃していたのに、再び重用して息を吹き返させたりしたのだった。人々がうんざりしたのも無理はない。
荘宗没後明宗が善政を施したが、即位時すでに60歳だった明宗は8年しか統治できなかった。明宗が没すると、後唐の命数はあと4年しか残っていない。閔帝、末帝と続いて、石敬瑭に亡ぼされたのも前述の通り。末帝と石敬瑭はもともと明宗麾下の二大実力者だったので、相容れない存在であった。
★後晋(936-946)★
高祖石敬瑭は942年に没する時、幼少の皇太子を、有力部将の河東節度使劉知遠に補佐させるように遺勅を発した。が、遺勅を授かった天平節度使の景延広(けいえんこう)は、乱世に幼君では心許ないという理屈をつけてこれを握りつぶし、高祖の甥石重貴(せきちょうき)を擁立して出帝とした。
当然ながら景延広が実権を握り、遼に対して強硬策で臨んだが、怒った遼の太宗に攻められてあっけなく滅亡。これほどあっけなく後晋が亡びたのは、最大の兵力を持っていた劉知遠が、出帝即位のいきさつを根に持って、まったく救援の軍を出さなかったからという理由もあったが、多分彼が動いていても、遼の精強な軍を防ぐことは困難だったろう。
★後漢(947-950)★
後漢はわずか4年で亡びたが、補佐役を外されたことを根に持って兵を動かさなかった高祖劉知遠程度の器量では、それもやむを得なかったと思われる。彼は遼の太宗が退いたあとの開封に入って後漢を建てたが、翌年没し、18歳で即位した隠帝も3年後に弑殺されたのだった。
★後周(951-960)★
太祖郭威は、本来後漢を亡ぼすつもりはなかったと言われる。隠帝が混乱の中で殺されたと聞き、本音かポーズか知らないが、
「わしの罪である」
と涙を流したという。
隠帝の後継者として、高祖の甥の劉贇(りゅういん)を迎えようとして馮道を差し向けたが、その準備中に遼が攻め込んできたという報せがあり、撃退するために出陣したところ、澶州まで来た時に、兵士たちが本陣に寄せ来て、
「万歳!」
と叫び、郭威を皇帝に擁立してしまったのである。話ができすぎているような気もするが、後漢の高祖を同じような経過で擁立したのは郭威自身であったし、後周の後を継いだ宋の太祖趙匡胤もほぼ同じ擁立のされ方をしている。この当時、兵たちが出先で皇帝を擁立するというのが流行していたらしい。
一旦帝位に就くと、郭威は迎えようとした劉贇を殺してしまったが、まあこれは乱世の掟のようなものであろう。
太祖には子がなく、皇后の甥にあたる柴栄(さいえい)が後を継いで世宗となった。世宗は五代の中では最大の名君とされる。むしろ五代にけりをつけた男と言えよう。積極的に善政に取り組むと共に、これまでの王朝が短命に終わった理由を考察した。
その理由とは、地方軍閥が強すぎることにあった。後唐も後晋も、地方軍閥を弱めようとしたのが裏目に出て亡びている。後漢も結果的には同じことになった。
そこで世宗は、直接に地方軍閥に手をつけることをせず、中央軍(殿前軍)の増強にこれ努めた。中央軍が絶対強と言えるまでに強くなれば、地方軍閥など怖るるに足りない。善政を心がけたのは、そうしないと予算の上でも人員の上でも、中央軍を増強することはままならないからである。
世宗の努力が実って、後周の中央軍は見違えるほどに強くなり、これまでやられっ放しだった遼の侵攻に一矢を報いるところまでになった。
さらに世宗は四川の後蜀を攻め、江南の南唐を攻め、ほぼ中国全土を制圧する直前まで勢力を拡げたが、もう少しというところで病死してしまった。わずか39歳であった。
息子の柴宗訓(さいそうくん)が即位し恭帝となったが、当年7歳に過ぎず、人々は動揺した。せっかくここまで勢力を拡げたのに惜しすぎる、という気持ちもあったことだろう。
そこで、これまでの仕来り通り、有力な武将を担いで帝位に就かせるということがおこなわれた。その武将こそ、世宗の片腕として各地を転戦し、名将ぶりを発揮していた趙匡胤である。
趙匡胤は兵たちの期待に応えて皇帝となったが、後周にはさほど有力な皇族もいなかったので、政権委譲はきわめてすんなりとおこなわれた。宋の太祖となった趙匡胤はこれを謝して恭帝を厚遇し、子々孫々に至るまで柴氏の面倒を見るようにとの祖法を伝えたのである。
前政権のラストエンペラーをここまで優遇したのは、ほぼ三国時代の魏の曹丕以来のことであろう。幼い恭帝はわけもわからないうちに即位と禅譲を相次いでおこない、あとは宋王朝の客分として何不自由ない生活を送り、無事に天寿を全うしたのであった。
以上で五代の瞥見を終わるが、「五代十国」と言い習わされている以上、十国の方にも触れなければなるまい。
朱全忠が唐を亡ぼした時、各地の地方軍閥がそれぞれに自立した。
四川では王建(おうけん)が前蜀を、湖北では高季興(こうきこう)が南平を、浙江では銭鏐(せんりゅう)が呉越を、湖南では馬殷(ばいん)が楚を建てた。また淮南の楊行密(ようぎょうみつ)はそれより早く902年に呉を建てているし、2年後の909年には福建で王審知(おうしんち)が閩(びん)として、広東で劉隠(りゅういん)が南漢として自立した。その首長は皇帝を名乗っていたり、つつましく王号で我慢していたりしたが、さほどの差はない。
このうち、呉は937年に南唐に取って代わられる。そもそも楊行密が自立したのも、部将の徐温(じょおん)らにそそのかされてのことであって、本人は最後まで唐の正朔を奉じていた。楊行密の死後、その弟たちが次々と王になったが、その後幼主の楊溥(ようふ)が跡を継いで、はじめて皇帝を称した。徐温はその禅譲を受けて自分が皇帝になろうとしたようだが、もう少しというところで先に死んでしまう。10年後、徐温の養子のひとりが睿帝楊溥の禅譲を受け、南唐の烈祖となった。この養子は帝位に就くと本姓に戻り、李昪(りべん)を名乗った。
李昪はなかなかのやり手で、南唐の勢威を大きく飛躍させ、十国中最強の国に仕立て上げた。これには李昪の手腕もあったとはいえ、きわめて肥沃であった江南を押さえたことが大きい。かつての隋や唐は、事実上江南の生産力に頼っていたようなものである。全土を支配した隋や唐の財政を充分に賄えるだけの富をもって、江南の狭い地域だけを治めるのだから、こんなにおいしい話はないのである。
李昪の後を継いだ李璟(りえい)も、北方の栄枯盛衰をよそに、大いに国威を伸ばし、閩や楚の内紛につけこんでこれらの国々を吸収した。
だが、軍政改革を成し遂げた後周の世宗が攻め込んでくると、繁栄に馴れた南唐軍は相手にならないほど弱かった。進退窮まった李璟はついに世宗に服従し、帝号を去って単に国主と称することとなった。
憂悶の中で李璟は世を去り、太子の李煜(りいく)が継いだが、もう南唐の滅亡は予定済みと言えた。李煜は残された時間を、ひたすらに趣味と文化活動に没頭して過ごした。彼の作らせた文房具は、今なお中国文化史の最高峰と言われている。ペンは剣より強いのだ、と思っていたのだろう。いや、そう思わなければどうしようもない状態だったのだろう。彼は詩人としても抜きんでている。この当時「詞」という、従来の漢詩ほど規則に縛られない自由律の詩形が流行していたが、南唐後主李煜は、その特異な生涯を活かして、卓越した詞を作り続けたのである。
後周から政権を受け継いだ宋は、975年に南唐を亡ぼし、李煜を開封へ連行した。太祖は李煜を厚遇したが、その弟の太宗はそれほど寛容でなく、李煜を毒殺してしまった。非常な苦痛を伴う毒薬を用いたと言われる。
四川の前蜀は、925年に後唐の荘宗に亡ぼされる。だが、荘宗がここに置いた節度使の孟知祥(もうちしょう)は9年後の934年に自立して後蜀を建てた。後蜀を討伐するほどの実力は、すでに内紛状態となった後唐にはなかった。四川もなかなか富裕な地で、かなり長い平和を保ったこともあり、南唐に次いで文化が隆盛した。後周に攻め込まれ、やがて965年、宋にその国を献じて滅亡した。
南平と南漢は貿易立国で、版図は小さいながら高い経済力を保っていたが、それぞれ963年、971年に宋に吸収された。宋の尻馬に乗って南唐を亡ぼした呉越も、いざ南唐が亡びると宋と国境を接することとなり、もはや国を長らえることはできず、978年に吸収された。
9国の興亡を見てきたが、残る一国は山西の北漢である。これは唐の滅亡のごたごたに乗じて自立した国ではなく、後漢の高祖劉知遠の実弟であった劉崇(りゅうすう)が建てたのである。彼の息子は前に名前の出た劉贇で、皇帝にすると言われて郭威から迎えられたにもかかわらず、その約束は反故にされ、あまつさえ後周の太祖に即位した郭威に殺されてしまったという報を受け、晋陽で自立し、兄と息子の仇である後周に一矢報いんと誓ったのであった。だから実際には後漢の残党と言ってよい。
単独で後周に当たるには力不足であったので、遼と盟を結び、太祖の死に乗じて攻め込んだが、世宗によって撃退された。その後も幾度となく後周や宋の北辺を脅かしたが、南唐その他の南方諸国が案外長持ちしていたのはそのためであった。呉越が宋に降って南方が平定されると、さすがに矢折れ刀尽きて、979年に滅び去った。この時、宋は文字通り天下統一を果たしたのである。
この時代を通して、それまでの貴族の家柄が完全に没落したと言える。宋では大々的に科挙が実施され、科挙に通った者でなければ決して出世できないシステムが確立したが、それは五代十国の時代に、エリート主導に抵抗するエスタブリッシュメントが消滅してしまったために、すこぶるスムーズに導入することができたのだった。
また、世宗の始めた中央軍の増強も着々と進み、各地の政権を亡ぼすたびにその兵力を中央軍に編入していったため、もはや地方軍閥の割拠する余地はなくなっていた。
さらに、南唐や後蜀の富の他、南漢や南平の貿易利潤も併せたので、宋の経済力は抜群のものになっていた。商業とか貿易とかいうものは冷徹なリアリズムを必要とする。そのリアリズムは、科学技術と呼んでよいほどのものを芽生えさせつつあった。
宋はそれらを引き継いだのである。冒頭に述べた通り、分裂時代の果実を、いかんなく受け取っていたのであった。
(1999.12.1.)
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