LAST EMPERORS

第15回 順帝(元)の巻

 中国史における王朝は1271年、フビライ汗によって創始された。
 混同する人が少なからず居るのだが、元はチンギス汗によって開かれたのではない。チンギス汗が築き上げたモンゴル大帝国が、彼の孫の代になると、あまりに領域が広すぎて統治が不便になった。そこで、5つの帝国に分割されたのである。
 ひとつはチンギス汗の長男のジュチの家系が受け継ぐことになったキプチャク汗国で、これは現在のロシアの西南部分に相当する。帝政ロシアの皇帝(ツァーリ)とは、このキプチャク汗国を継承したという位置付けになる。
 もうひとつはチンギス汗の次男チャガタイの子孫が受け継いだチャガタイ汗国、これは中央アジアを版図とし、現在の国名で言えばキルギスタントルクメニスタンウズベキスタンなどが相当する。またカザフスタンのあたりには、オゴデイ汗国があった。オゴデイはチンギス汗の三男で、第2代の大汗(皇帝)となったのだが、その子孫は帝位を受け継がず、中央アジアに追いやられたわけである。第3代大汗グユクはオゴデイの息子だが、第4代モンゲ以後はすべて、チンギス汗の末子トゥルイの子孫ということになる。フビライはモンゲの弟である。
 そのまた弟のフラグが、西アジア地域を領し、これがイル汗国となった。
 そして、東アジアを支配したのがフビライの元だったわけである。
 この他に、チベットウイグルの自治領のようなものもあるが、ともかく元というのは、分裂したモンゴル大帝国のひとつであるに過ぎない。一応他の汗国に対し、宗主国ということにはなっていたが、イル汗国を除いては、ほとんど交流さえもない状態であった。
 フビライは元王朝を開いてから、チンギス汗以来の4人の大汗に、太祖(チンギス汗)、太宗(オゴデイ汗)、定宗(グユク)、憲宗(モンゲ)と中国式の追号をおこなったので、なんとなくチンギス汗が王朝の創始者のように思われてしまうのだが、チンギス汗というのは本来中国とはなんの関係もない人物だ。彼の生前、王朝との戦いはあったが、中国人が正統王朝と考えている南宋とは全然接触がなかった。接触が生じるのはオゴデイ汗の時代からである。

 フビライ自身は世祖と追号された。「宗」ではなく「祖」であるのは、元王朝の実際の創始者だからである。
 この皇帝は、元寇を通じて日本とも因縁の深い人物だ。
 もともと、日本など大して重視していなかったはずで、軽い気持ちで朝貢を求める国書を送ったに過ぎない。まさか楯突かれるとは思ってもいなかっただろう。
 しかし、時の鎌倉幕府は、敢然として使者を斬ってしまった。
 こうなると、中華帝国の主としては、懲罰の兵を送らざるを得ない。
 ただ、モンゴル軍は、草原の戦いには馴れていたが、海を越えての派兵はやったことがなかった。そこで、すでに降伏して支配下にあった高麗に命じて、船の建造や兵の召集をさせた。
 が、高麗もまだ完全に服してはおらず、三別抄などの武装集団が抵抗を続けている。船大工たちのサボタージュもあって、船はえらく手抜きになっていた。1274年の文永の役では、その手抜き工事が災いして、ちょっとした風雨で次々と船が航行不能となり、遠征軍はほうほうの体で引き返した。
 この時海の藻屑となったのは、大半が高麗兵だったというからお気の毒な話である。モンゴルの将兵はほとんどダメージを受けなかった。フビライとしては、負けたという気は全然しなかっただろう。
 その後しばらく、南宋の掃討戦で日本などを顧みる余裕はなかったが、南宋も片づいた1281年、フビライは再度の日本遠征を試みる。弘安の役である。この時は高麗の忠烈王も腹をくくって、全面的な協力を惜しまなかった。また南宋の残留兵力をここで処分しようと思ったのか、旧南宋人を中心とした江南軍を同時に出発させた。その総数実に14万。日本では、10万というオーダーの軍勢は、豊臣秀吉以前には存在していない。源平の戦でも多くて2万というところだったし、応仁の乱で東西両軍が10万ずつの兵を集めたというのも全くの誇張である。
 常識で考えて、到底かなうわけはない相手だったのだが、日本武士は頑張った。神風が助けになったのは確かだが、それだけではない。北九州で夏の間2ヶ月も水際の攻防を続けていれば、一度や二度は台風に遭遇するのはあたりまえであって、むしろ神風が吹くまで侵入を許さなかった日本武士を褒めるべきであろう。ただし、対馬壱岐はさんざんに荒らされた。
 なお江南軍は出発が遅れた揚句、到着するや否や台風に巻き込まれて壊滅してしまった。これまたお気の毒。
 しかし、フビライは懲りずに第3回の日本出兵を考えていたようだ。なぜと言って、弘安の役の時も、犠牲になったのは主に南宋の遺民どもであって、モンゴル人にはさしたるダメージはなかったのだ。
 ──まったく蛮子(マンズ──旧南宋人を元ではこう呼んだ)という奴は使えないな。
 とは思っただろうが、自分が日本に負けたとは少しも思っていなかったのではないか。
 たださすがに、周囲の廷臣たちは犠牲の大きさにびっくりし、フビライを押しとどめた。広東や福建方面で叛乱が起こったせいもある。
 ──あの島国には、それほどの犠牲を払ってまで兵を送る価値などございませぬ。黄金の国などというのは真っ赤な偽りでございます。
 となだめて、なんとかフビライを断念させたのである。フビライ自身は日本征服を諦めたわけではなかったらしいが、そのうち(1294)死んでしまったので立ち消えとなった。
 ヴェネツィア人マルコ・ポーロはこの時フビライの朝廷に仕えており、日本のことも記録している。黄金の国ジパングなどと書いたので、のちに一攫千金を夢見たコロンブスが船出することになるわけだが、この時代(より少し前だが)の日本は確かにすさまじいばかりの黄金産出国だった。それは中尊寺金色堂のまばゆさによって推し量ることができる。奥州ではほとんど無尽蔵と思われんばかりの産金量があったのだ。そして、日本からの留学生はたいてい、中国での滞在費用として砂金を持参していた。中国人が日本を黄金の国だと思ったのは無理もなかったのである。

 ところで、このマルコ・ポーロ、ペルシャ語やモンゴル語などは流暢に話したようだが、漢語を知っていた形跡はない。15年間にわたってフビライの朝廷に仕えながら、国民の大多数がしゃべる漢語を少しも憶えなかったというのは驚くべき話で、逆に言えばそれで充分用が足りる社会だったのである。
 よく知られているが、元王朝では徹底したカースト制が敷かれていた。頂点に位置するのはもちろんモンゴル人で、100万人に満たない。さまざまな特権が与えられていたのはもちろんのことである。次に色目人で、これは「いろいろな種類の人」ということ。ウイグル人、チベット人、ペルシャ人、トルコ人など実際さまざまな人種が混在していた。3番目が漢人だが、これは漢民族という意味ではない。もと金の領域に住んでいた人々を指す。チンギス汗、オゴデイ汗に仕えた名軍師耶律楚材(やりつそざい)は、耶律という姓で明らかな通り、金に亡ぼされた王朝の皇族の出であり、従って契丹族ということになるのだが、それでも漢人として分類されている。
 そして最下位だったのが旧南宋人で、南人と呼ばれた。南人というのは表向きの言葉で、実際は上記のように蛮子(マンズ)と呼ばれたようで、マルコ・ポーロも「マンジ」と記している。
 この序列は、モンゴル軍が征服した順序によっている。先に征服された土地の人々は、あとで支配下に入った人々の上に立つことになるわけだ。日本が征服されていたら、南人よりさらに下位に置かれたに違いない。第一回の元寇の時に征服されていれば南人よりは上位だったろうが。
 マルコ・ポーロは色目人として扱われたわけで、モンゴル人・色目人とのみつき合う分には、漢語など全然しゃべれなくても問題はなかったということなのであろう。
 ただし、実際に漢民族の統治に当たる現場となるとそうもゆかない。「漢人」(旧金人)を吏僚に取り立てて事務をこなすしか方法がなく、次第にそれでも人手不足になって南人をも取り立てざるを得なくなってゆく。一旦権力の末端に食い込めば、長年の官僚体験をもつ漢民族は、じわじわと上部を腐敗させてゆくことができるのである。

 元王朝の支配層は、ほとんど最後まで中華文明に毒されることがなかった点、それまでの異民族政権とは鮮やかに異なっている。このあとで中国を支配した満洲族の王朝が、異民族政権でありながらある意味もっとも中国的な帝国になったのと考え合わせても、元の潔癖さは特筆に価する。
 これはむろん、モンゴル民族が、中国に進出する以前に、西方文明を体験していたからに他ならない。この時代、ヨーロッパはまだ後進地域といってよかったが、西アジアではきわめて高度なイスラム文明が花開いていた。その精緻さと華麗さにおいて中華文明に匹敵するばかりか、形而上的な深みにおいてはまさっていたと言えるかもしれない。こういうイスラム文明に先に触れていたモンゴル人は、中華文明に対しては、さしたる魅力を覚えなかったのである。
 元王朝の支配の終わりは、中国に馴染まなかったということよりも、むしろ馴染み始めたことによって早まったと言える。
 早い話が、中国では古来から現代に至るまで、役人に対する賄賂は欠かせない。役人の収賄は、汚職というよりは単に役得と考えられ、一種風俗的なものになっている。中国でいう清廉な役人というのは、賄賂の取り方が適正水準であった者であるに過ぎない。魚心あれば水心で、渡す方も受け取る方も、その適正水準というものを呼吸で知っているのである。
 ところが、モンゴル人はそれまで未開の地にいて、こういう「文明的」な方法に免疫がなかった。従って、一旦賄賂のうまみを知ると、自慰行為を覚えた猿のごとく、歯止めが利かなくなり、おのずと適正水準を超えてしまった。こうなると方々で叛乱が相次ぐことになる。

 また、モンゴル人にはインフラのメンテナンスという思想がなかった。草原の遊牧では、草の遷移と共に移動してゆくだけなのだから、言ってみればその場任せである。人力を用いて環境を整備するという発想はまったく存在しなかったのだ。
 例えば運河などは、絶え間ないメンテナンスが必要である。もともと自然にできた水路ではないのだから、放っておくとたちまち土砂が堆積して船が通れなくなってしまう。定期的に底ざらえをしなくてはならないのだが、元王朝はそんなことは全然しようとしなかった。そのため、あの大運河も、元朝末期にはほとんど使い物にならなくなっていたらしい。これは南方から富を吸い上げる道を自ら塞いでしまったようなものだ。方国珍張士誠陳友諒朱元璋といった元末の叛乱者たちが、いずれも南方で決起したのも、すでに華南地方では元朝の実効的支配が行き届いていなかったためと考えてよい。
 こういう構造的な欠陥を知ってか知らずか、上層部では慢性的なお家騒動が続いている。
 本来モンゴルの首長は、先代の指名によって決まるのではない。クリルタイという長老会議で推戴されるのであって、先代の意思は参考程度にされるに過ぎない。ましてや長子相続などという習慣は絶無であった。
 遊牧民としてはそれも当然で、リーダーの力量は部族全体の運命を左右するのである。凡庸なリーダーを戴くことは死活問題であった。もちろんその会議に当たっては根廻しや恫喝がものを言ったりもしたのだが、とにかく表向きは議決制度であり、どちらかというとローマ帝国の体制に近い。
 世祖と呼ばれたフビライ自身、末弟アリクブガに対向してお手盛りのクリルタイを招集して首長の座についたのである。その後、フビライは中華帝国の皇帝ということになり、相続も中華帝国流に、皇太子を立てて跡を継がせるということに決めたのだったが、長年の習慣が皇帝の一片の勅書で改められるものではない。
 実際、元の皇帝の系譜を見ると、すんなりと親から子へ帝位が伝わったのは、実にただ一回、第4代仁宗から第5代英宗の時だけだったということに驚かされる。
 まあ、フビライの場合は、後継者と目していた息子のチンキムが先に死んでしまったので、その子(つまり孫)のティムールを後釜に据えたわけだから、いわば皇太孫が帝位を継いだことになり、特に問題はなかったから、一応スムーズに伝えられたうちに数えよう。それにしても二回だけである。
 ティムールは第2代皇帝成宗であるが、第3代は成宗の甥の武宗が重臣たちの意向を押し切って即位した。武宗を擁立したのは弟のアユバリパトラだが、武宗が即位4年で没すると、自ら帝位について仁宗となった。このあとが唯一の正常な相続であった英宗となるが、これも反対派がいたようで、なかなかの善政を心がけたにもかかわらず、わずか3年で暗殺されてしまう。
 暗殺したのは、英宗に退けられた権臣テムデルの養子だったテクチで、テクチは成宗の甥エセンティムールを擁立して即位させた。が、エセンティムールとその子アスキーバは、帝位に就いたにもかかわらず、宗廟名が与えられていない。エセンティムールは泰定帝、アスキーバは天順帝と呼ばれるが、これは彼らの時期の元号である。つまり、その跡を継いだ明宗文宗により、彼らは帝籍から外されてしまったのだった。
 泰定帝と天順帝は順当な父子相続と見えるが、天順帝はほとんど即座に明宗に敗れているので、実質的に相続したとは言い難い。
 明宗と文宗はいずれも武宗の息子だが、彼らを擁立したのは重臣エンティムールで、その治世の期間もほとんどエンティムールの専横状態だったと言ってよい。明宗は即位1年で急死するが、明宗が必ずしも言いなりになりそうもないと見たエンティムールが暗殺した疑いが濃い。文宗はそれを知っていたのか、ひたすら謙虚に構えたがこれも3年で病死。エンティムールはさらに、明宗の子であった6歳のイリンジバルを擁立したが、この幼児はわずか43日で病死した。寧宗と追号される。
 フビライは長生きしたが、その後は成宗が42歳まで生きたのを除けば、みんな長くて30歳そこそこで死んでいる。暗殺された場合もあるにせよ、どうも草原の活力というものを失ってきたように思える。

 寧宗の後継者についても、エンティムールは考えていたに違いないが、さしもの権臣もここで寿命が尽きた。寧宗の兄、トゴンティムールが13歳で即位した。これが元のラストエンペラー、順帝である。
 弟であるにもかかわらず寧宗が先に帝位に就いたのは、順帝の母がモンゴル人でなかったからだと言われている。彼はなぜか即位するまでずっと高麗に送られていた。
 この奇妙な冷遇から、前章でもちょっと触れた、南宋恭宗の落胤説がささやかれるようになったのかもしれない。
 恭宗はフビライのもとに送られたのち、瀛国公に封じられたことは記録に残っているが、その後の消息が明らかでない。そこで、恭宗は高麗へ流れてゆき、そこの女と通じ、その女が妊娠中に明宗に召され、生まれたのが順帝だという筋書きが作られたのだろう。恭宗は1270年生まれであり、順帝は1320年生まれなのだから、年代的には充分に可能である。異民族王朝元に終止符を打ったのが、れっきとした漢族王朝宋の皇帝の落胤だったというオハナシは、漢民族にとっては胸のすくストーリーであったに違いない。もちろん、真相は闇の中であり、どちらかというと荒唐無稽に近い因縁話ではある。
 順帝の即位に引き続き、のちに英傑となるふたりの人物がこの世に生を受けているのが象徴的だ。ひとりは西域に覇を唱え、チンギス汗の再来と呼ばれたティムール(元2代皇帝の成宗と同名だが、モンゴル人のごくありふれた名前であった)、もうひとりが帝国を創始し、元を亡ぼした朱元璋である。もちろん、そんなことは順帝の知ったことではない。

 順帝は13歳という年齢で即位したこともあり、国政をほとんど重臣たちに任せていた。それはよいとしても、それまで遠方へ押しやられて冷遇されていたことの反動か、ひたすら享楽に溺れるようになった。
 享楽と言っても、13歳の少年では、最初はうまいものを食べるとかきれいな着物を身につけるとかいう程度だっただろうが、数年も経てば女を知る。女に溺れ始めると際限がなくなる。
 とはいえ、この程度の放蕩なら皇帝としてはそれほど非難されるほどのことはない。バカな皇帝が国庫を傾けるのは、たいてい大建築を好んだり、要らぬ軍事行動を起こしたりするためだが、順帝はそのどちらもしていない。むしろ国政に余計な口出しをせず、重臣たちに任せていたのは賢明だったとも言えるだろう。
 だが、結果として彼の治世には、大建築と軍事行動がまつわりついた。順帝の意思とは無関係で、その点彼は不幸な皇帝だったと言える。
 順帝の即位11年目、黄河が未曾有の大氾濫を起こす。ために河の流路が大きく変わってしまったほどである。いくらインフラのメンテナンスに疎いモンゴル政府とはいえ、このような大惨事が起きては治水工事をやるしかない。しかしそれとても漢族官僚の進言によったというのだから、どうもモンゴル人は骨の髄からそういう発想を欠いていたようである。
 黄河は7年かけてようやく修復されたが、その後もほとんど連年のようにあちこちで災害が発生する。100年近くの間、治水や開墾を怠ってきたツケが、この時期になって噴出し始めたのだ。
 黄河の治水などはもちろん大事業で、巨額の財政支出を要したことはもちろん、その工事には当然ながら民衆がかり出されることになる。始皇帝の長城建設、煬帝の運河開鑿の時と同様の無理がかさむことになる。始皇帝や煬帝は自分の意志でそういう大事業をやったので、その結果叛乱が起きてしまったのはいわば自業自得のようなところがあるが、順帝の場合はそうではない。彼個人にとっては気の毒としか言いようがないが、彼に先立つ皇帝や重臣たちが手をこまぬいていた因果が巡りきたったのである。

 無為の皇帝を補佐する重臣が有能であれば、このような事態であってもなんとか乗り切って行けたことだろうが、政事を託されていたバヤントクトハマといった重臣たちは揃って無能な上、不毛な権力闘争に明け暮れてばかりいた。もはや末期症状である。
 黄河修復に要した巨額の支出を補うために、彼らは貨幣を切り下げて乱発したが、これはすさまじいインフレを引き起こし、民衆の生活を破壊した。暮らしてゆけなくなった庶民は逃散し、叛乱軍に加わることになる。
 大規模な叛乱はまず海商の方国珍が口火を切った。もともとモンゴル人は海に弱く、大艦隊を率いて立ち向かう方国珍にはなすすべもなかった。朝廷はやむなく懐柔策に出た。あろうことか賊徒である方国珍に官位を与え、将軍に任じたのである。方国珍は味をしめ、その後も何度か騒ぎを起こし、その都度官位が上昇した。こんなのを見ては、叛乱しないのがばからしくなる。
 河南では、白蓮教という新興宗教を核とした韓山童らの乱が発生した。ただし、こちらは元朝のお膝元に近く、陸戦だったこともあって間もなく鎮圧される。韓山童の盟友だった劉福通は、韓山童の遺児の韓林児を擁して南方へ逃れ、抵抗運動を続けた。彼らの叛乱軍は頭に赤い布を巻いたので「紅巾賊」と呼ばれる。紅巾賊は反モンゴル感情の根強い旧南宋の領域に入って大いに勢力を伸ばした。郭子興張士誠らがこれに呼応して乱を起こした。ちなみに朱元璋は郭子興の部将だった男である。
 張士誠のごときは早々と王を称し、国号を周と決めて百官を揃え、元号を定めた。彼の地盤は南宋の首都であった臨安(杭州)や蘇州といった豊かな地域で、特に反モンゴルの気風が強かったので、張士誠の政権はひとびとの支持を集め、なかなかの威風を示したのである。右丞相のトクトが鎮圧に向かったが、かえってボロ負けしてしまった。ほとんど武力だけでもっていた元王朝が、戦争に負けるようになってはおしまいである。
 韓林児は宋の復興を叫んで、国号を宋としてやはり皇帝に即位した。
 その他あちこちで雨後の筍のように国やら王やらが自称されたが、面倒なのでいちいち記さない。

 お次は華南に林立したこれら「国」同士の争闘となる。
 これらの「国」は、立地は違えど、共通して呼号していたのは「漢族政権の復興」に他ならない。そうしてみれば、まずは連合して北上し、モンゴル政権を打倒するのが先ではないかと思われるのだが、10年以上にわたって、元王朝そっちのけで自分たちの勢力争いに終始していた。
 元朝としては、彼らの勢力争いに乗じて各個撃破を図ればどうということもなかったはずである。
 だが、それができる有能な政治家は誰ひとりいなかった。ハマのごときは、賊軍どもから賄賂を受け取って、討伐を見合わせていたらしい。
 そうでなくとも、そのうち賊軍は潰し合って共倒れになるだろうと皮算用していたのは確かだろう。かくて、南方の豪傑たちは、誰はばかることなく争いを繰り返した。最終的に勝ち残ってきたのが、まず早々と国を建てた張士誠──郭子興の死後内部闘争に打ち勝って実権を握った朱元璋──西路紅巾軍で下剋上して頭角を顕した陳友諒──の3人であった。
 元朝側は誤算していた。賊軍共は確かに潰し合ったが、それによって共倒れにはならず、勝った方が肥え太るという結果になったのである。顧みれば、それは遊牧民の論理そのものでもあり、チンギス汗だって金朝の同じような皮算用を裏切って肥大化したのであった。
 朱元璋はまず西へ向かって陳友諒を撃破し、その軍勢を吸収して今度は東へ攻め寄せて張士誠を亡ぼした。張士誠は生け捕られて、絶食自殺したとも、撲殺されたとも言われる。朱元璋の性格から考えると後者の方がありそうな話だ。何しろ朱元璋が明王朝を建ててからのことだが、張士誠に協力したというかどで、蘇州と杭州の税金だけむやみと高くして迫害したというほどである。
 北伐は、朱元璋にとっては覇業の総仕上げに過ぎなかったと言ってよい。彼の軍が迫ってきた時、元の朝廷は一戦も交えずに大都(北京)を逃げ出した。逃げ出したと言っても、算を乱して遁走したのではなく、実に整然と退去したのである。34年間帝位にあって、順帝の功績と言うべきものは、この実に潔い撤退命令を下したことに尽きると言えよう。朱元璋はその鮮やかな退去ぶりに感銘を受けたようで、順帝というおくりながそれを物語っている。もとより従順、恭順などの「順」である。

 モンゴル人たちはほとんど一兵も損なうことなくモンゴル高原へ去った。言うまでもなくモンゴル高原は彼らの本拠地であり、中国領域はむしろその植民地だったと言えなくもない。彼らにとって見れば、植民地の治安を保つのが困難になったため、放棄したというだけの話だったろう。自分たちが「亡ぼされた」などとは少しも考えていなかったはずである。
 事実、その後もモンゴル人は元の国号を称し続け、何度か中原回復を図っている。これを新しい明王朝の側から見れば、北からの脅威に他ならない。明は少なくともその中盤まで、この「元」──史書には北元と記される──の蠢動に悩まされた。後半の憂いとなったあの「倭寇」と並べ、「北虜南倭」が明の宿痾となったのである。
 のちにモンゴル人は、かつて自分たちが亡ぼした「金」の末裔である女真人(=満洲人)が「清」を建てる時に全面協力し、蒙古八旗と呼ばれる精鋭部隊となった。また清の滅亡後、ご本尊の満洲人たちがほとんど溶けてなくなってしまったのに対し、モンゴル人たちはモンゴル人民共和国という自分たちの国を建てることに成功した。なんともしぶとく、誇り高い人々と言わねばならない。と同時に、今に至るまで中国がモンゴルを怖れること甚だしく、特にモンゴル人民共和国にあたる外蒙古と中国領内にある内蒙古が連絡することを病的に嫌っているのも、遠い歴史の記憶がうずいていると考えなければならない。

 (2000.5.18.)


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