ごくごく簡単にではあるが、「ラストエンペラー」をキーワードに中国史を瞥見してきた。実際には影の薄い最終皇帝も多かった。訳も分からぬ子供が最終皇帝だったというケースも少なくない。
ざっと振り返ってみれば、王朝の亡び方にはいくつかのパターンがあることが感じられる。言い換えれば、いくつかのパターンで括ってしまえるほどに、中国史というのは千篇一律な栄枯盛衰を繰り返してきたものである。
まずは、
「絶大な力を持った大皇帝が好き勝手した揚句、その死後たちまち崩壊してしまった」
というタイプ。言うまでもなく最初の中華帝国である秦、それから隋が代表例である。その他にも、五胡十六国の前秦や南朝の梁などもこのタイプに含まれるかもしれない。「好き勝手」したと言っても、必ずしもその皇帝が暴君だというわけでもないのだ。梁の武帝は名君と言われたのに、晩年の宗教道楽で身を亡ぼしたのだから。
さらに言えば、徽宗皇帝の風流道楽で破綻した北宋もこれに含めても構わないかもしれない。ただし北宋は別の要因も考えられる。
大皇帝が好き勝手したにもかかわらず、その後も結構長持ちしたのは前漢(武帝)と清(康煕帝・乾隆帝)だが、これはその前の蓄積が大きかったからであろう。この二王朝は、次の
「初期の皇帝が禁欲的に蓄積に励んだおかげで、中期頃に黄金期を迎えるが、官僚組織の動脈硬化をきたして衰弱し、実力者に簒奪される」
というタイプと言えるだろう。唐もこれに属すると言ってよいだろう。
「政治的には常に危なっかしくふらついていたにもかかわらず、臣下や外敵のバランスの上に乗っかって命脈を保った」
というタイプもある。当然ながら、このタイプのものは、バランスを失えばすぐさま崩壊する。後漢、東西の晋、南宋、フビライ期を除く元などが実例だろうか。
明だけはちょっと珍しいタイプで類例を見ない。この王朝は、きわめて個性的な初期のふたりの皇帝──洪武帝と永楽帝が、それぞれに正反対と言ってもよいような施策で望んだため、官僚組織のこだわる「前例」がえらく幅広いものとなり、そのためかなり柔軟な政治が可能になって長持ちしたように思われる。中期以降はほとんど政務を見ない皇帝が相次いだりして、それでもなんとか治まってしまったという不思議な王朝だった。魏忠賢(ぎちゅうけん)のごとき悪党が現れなければ、もっと長持ちしたかもしれない。
はじめから無理があった王朝も少なからずあるが、これらは短命に亡びているのでいちいち記さない。
いずれにしろ、王朝にとどめを刺すのは一に権臣、二に農民蜂起、三に異民族というところで、あまり変わり映えがしない。なお中国共産党の見解としては、王朝は常に農民の起義によって亡ぼされたということになっているようだが、その実農民が天下をとったことは一度もない。食い詰めた農民たちは王朝を覆そうなどという大それた野望を持ったりはしないものだ。彼らの欲するのは、ともかく「食」でしかない。食わせてくれさえすれば、誰が頭になっても(異民族でさえも)構わないという気分がある。食の確保、そしてその公正な分配ができる者が、次第に勢力を得て前王朝を覆すことになるが、彼はたとえ農村から出てきたにせよ、決して農民とは言えないのである。
毛沢東のすぐれたところは、こうした王朝興亡史を実によく勉強していた点にある。
そもそも、20世紀前半の中国に、マルクスが規定したような社会主義革命が起きる条件はこれっぽっちもなかった。マルクスの言う「自覚した都市労働者」などほとんどいなかったのである。中国共産党の指導に訪れたドイツの革命家は、
──中国で言う労働者とは誰のことかと思ったら、みんなクーリーやルンペンのことだった。
とあきれているほどだ。
毛沢東は早い時期にこのことに気づき、あくまで都市革命にこだわる共産党上層部と袂を分かって、古くからの農民起義の道を選んだのである。ともかくも天下をとる、社会主義体制を敷くのはそれからでよいという考え方だったのではないか。
当時の中国には、社会主義革命が起こる条件はなかったが、昔ながらの易姓革命の起こる条件ならふんだんに備わっていたのである。食い詰めた農民たち、軍閥の割拠、法律停止の弱肉強食状態。その点に気づき、発想の転換をおこなったのが毛沢東の天才的なところであった。
しかし、同じ道を辿れば同じところに到達するしかない。
毛沢東は「皇帝」にならざるを得なかった。
それが「国家主席」という名前で呼ばれようと、本質は変わらない。
トップに立ってからの毛沢東の振る舞いは、かの洪武帝の行動と酷似している。
洪武帝が胡惟庸(こいよう)・李善長(りぜんちょう)・藍玉(らんぎょく)ら、天下をとるための協力者であった最大級の功臣を次々と粛正したように、毛沢東も劉少奇(りゅうしょうき)らのライバルを徹底的に消し去った。また、洪武帝のおこなった文字の獄は、まさに文化大革命そのものである。
ソ連のスターリンが、まさに帝政ロシア時代のツァーさながらの独裁権力を振るったが、毛沢東における権力のあり方も、また古来の皇帝権力と共通する。
同じ国民を統治するためには、同じ権力の使い方をするしかないのである。権力のあり方が変わるとすれば、国民の体質がまず変わらなくてはならない。統治者と被統治者というものは、決して加害者と被害者の関係ではない。むしろ共犯者の関係と言わなくてはならない。言い換えれば、人は自分の身の丈に合った統治者しか持つことができないのだ。あらゆる権力を「敵」と見なす進歩的文化人が現代日本には少なくないが、まずは、自らも権力の共犯者だ、という意識を持つところから考えてみた方がよいように私は思う。
ただ、皇帝権力の世襲制を排除した点については、毛沢東の偉大な功績であったと言うべきだろう。
統治者の決定に、国民がまったく与ることができないという点、まだまだ民主国家にはほど遠い中国ではあるが、何しろ長い歴史を持つ皇帝制度だけに、変化するのも時間がかかると見た方がよい。まずは世襲制を廃し、わずかながら皇帝権力のあり方が変質した。次は「皇帝」を人々が選ぶ──あたかもローマ帝国のディクタトール制度のような体制を確立する番かと思うが、さていつのことになるやら。
共産党に敗れ、台湾へ逃げ込んだ蒋介石(しょうかいせき)政権も似たようなものだった。台湾における蒋介石はやはり「皇帝」として君臨していたと言ってよい。彼の率いた国民党の方が、共産党よりも中国の古い体質をひきずっていただけに、世襲制の廃止にももう一世代余計に要した。蒋介石の息子の蒋経国(しょうけいこく)は、「帝位」を狙う異母弟蒋緯国(しょういこく)との反目のせいもあってか、
──私の死後は、私の一族には政権を渡さない。
と明言し、臨終にあたって総統の座を李登輝(りとうき)に譲り渡した。この時点では李登輝はまだ「禅譲された皇帝」であったが、そのあと総選挙を実施し、中国的な権力構造に訣別することに成功した。
台湾では、そもそも中国的な権力構造そのものの歴史が浅い。清代まではほとんど有効統治がなされていなかったし、そのあと半世紀に及ぶ日本統治時代があったので、政治的なメンタリティの根はむしろ日本に近いと言ってよい。それだから比較的容易にその構造を捨て去ることが可能だったわけだが、大陸の方はなかなかそうもゆかないだろう。
「初代皇帝」毛沢東の死後、「キングメーカー」搶ャ平による実質支配が続き、その死によって「帝位」に就いたのが現在の江沢民である。江沢民には「太祖」毛沢東、「太宗」搶ャ平のごときカリスマ性がないために、これからどうやって権力を保持してゆくのかが注目される。
古来、国内的に矛盾が多くなってきた場合、中華皇帝はどうしたか。
名君であれば、矛盾を解消すべく、さまざまな施策をおこなった。
だが、凡庸な皇帝は、「外征」で国内人気を糊塗することが多かったのだ。
江沢民が何かにつけて日本に難癖をつけるのは、形を変えた「外征」ではあるまいか。
歴史を顧みるに、時宜を得た名君の外征は成功することもあるが、糊塗策としての暗君の外征は、ほぼ間違いなく国を亡ぼすもとになっている。さて、江沢民はどちらであろうか。
彼が「共産党王朝」のラストエンペラーとなるかどうか、われわれはじっくり監視しているべきであろう。
暗愚な皇帝は、国を亡ぼすばかりか、周辺国にとっても大変迷惑な存在だからである。
時のまにまに・LAST EMPERORS──完──
参考文献(順不同)
全編、もしくは複数の章を通じての参考書のみといたします。
各章ごとには他の文献もいろいろと参照させていただきました。
特に、三国時代と清・満州国についてはかなり多数の本に準拠しています。
しかし、こうしてみるとずいぶんと講談社にお世話になったようですね。 |
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陳舜臣 |
中国の歴史(講談社文庫) |
陳舜臣 |
小説・十八史略(講談社文庫) |
後藤基巳・駒田信二他 |
新十八史略(河出書房新社) |
王敏・岡崎由美監修 |
中国歴代皇帝人物事典(河出書房新社) |
安能務 |
中華帝国志(講談社文庫) |
高島俊男 |
中国の大盗賊(講談社現代新書) |
井波律子 |
酒池肉林(講談社現代新書) |
井波律子 |
裏切り者の中国史(講談社叢書メチエ) |
(2000.5.30.)
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