「軍師」往来――竹中半兵衛

 ある字画判断の本を読んでみたら、私は「軍師タイプ」の人間なのだそうだ。
 「軍師」という言葉にはなにがしかのロマンがある。私もこの言葉にロマンを覚えていた者のひとりなので、そういう判断が出て、多少嬉しかった。
 ただ、それでは「軍師」とは一体何か、ということになると、案外はっきりとしたことはわからない。
 「広辞苑」を引くと、次のような説明が出ている。

 ぐん−し【軍師】@主将に属して、軍機をつかさどり謀略をめぐらす人。軍士。A(比喩的に)巧みに策略・手段をめぐらす人。

 この説明は一応妥当とはいえ、なんとなく物足りない気がする。
 Aの方は比喩的な説明であるから、さしあたって脇に置いておこう。@の説明が問題である。
 例えば、「参謀」という言葉と較べてみればどうだろう。この説明はほとんど「参謀」にもそのまま当てはまるのではないだろうか。参謀は必ずしも軍事に関わるばかりではないにせよ、機密に参与して謀略をめぐらす人間であることに変わりはない。
 だが、参謀と軍師は決してイコールではないし、われわれのイメージの中でもはっきりと違うものである。
 実例を挙げた方がわかりやすいだろう。石田三成豊臣秀吉の名参謀と言ってよい。しかし彼を「名軍師」と呼ぶのは躊躇せざるを得ない。秀吉の軍師といえば、誰でも思いつくのは竹中半兵衛黒田官兵衛であろう。では逆に半兵衛や官兵衛を「参謀」と呼べるかというと、これまた首を傾げたくなる人が多いのではないだろうか。
 参謀という言葉には、どこか、組織内に組み込まれた官僚的知謀家の匂いがある。それに対し、軍師というのは組織から超然として、ただ主君のために知謀を貸している知的技術者という印象がある。ある意味では主君と対等、極端な場合主君の方が辞を低くせざるを得ないような風格が感じられるのである。
 こうした、組織に組み込まれない存在であるあたりが、軍師という言葉に対するそこはかとないロマンに結びついているのではないかと思う。
 主君を上回る知謀を持って、戦術・戦略から政略に至るまで助言を与え、しかし自分自身は決して組織内での栄達など求めず、自分の知謀によって世の中を動かしてゆくこと自体に満足を覚える、いわば職人気質のような知謀の士――
 顧みれば、私も確かに、自分でなんらかの団体のトップに立とうとするよりは、トップにあれこれ入れ知恵してプランを実現して貰うようなところに満足を覚える性癖があるようで、字画判断はかなりいいところを衝いていると思った次第である。

 もっとも、戦国時代のいわゆる軍師というのは、そういうものではなかったようだ。
 出陣の吉日を占ったり、軍装を決めたり、宿営の場所を選んだり、陣中の儀式を取りしきったりする人間を「軍師」と呼んでいたらしい。要するに、軍事に関する事務長のようなもので、これはどうも今日の軍師のイメージとはかなり食い違う。上記の「広辞苑」の定義ともだいぶ違っているし、これははっきり組織内に規定された職に過ぎない。
 歴史的な用語としてはそれが正しい使い方かもしれないが、今はとりあえず、現代の一般的な通念のもとでの話を進める。
 そうすると、やはりその典型としては、竹中半兵衛重治(1544-1579)あたりを考えたくなる。

 半兵衛は美濃の生まれ。彼が生まれた時、美濃は斎藤道三が支配していた。が、12歳の時にその道三が嫡子の義龍に討たれてしまう。義龍は道三の旧主でクーデターにより美濃を追放された土岐頼芸の実子だったとも言われ、道三を討ったのはそのためかもしれない。いずれにしろ、マムシと呼ばれて近隣に怖れられた辣腕家道三としては、何やらあっけない最期であった。
 道三の娘婿であった尾張の織田信長は、美濃の支配権を道三から継承したと称し、たびたび美濃に侵攻しようとしたが、義龍はよくこれを撃退した。はっきり言って、義龍が生きているうちは、信長は手も足も出なかったと言ってよい。義龍が美濃一国を保つのに汲々として、領土を拡げようという野心がなかったからいいようなものの、そうでなかったら信長など早々に潰されていたかもしれない。道三が信長に会った時、その器量に押されて、
 ――自分の子孫は信長の馬前にひれ伏すことになるだろう……
 と予言したなどという話がまことしやかに伝えられているが、義龍はそんな頼りない男ではなかった。義龍が長生きしていれば、信長の方が義龍の馬前にひれ伏していたかもしれないのである。
 が、義龍は美濃の国主の座にあることわずか5年、1561年に35歳の若さで病死してしまった。
 あとを継いだのは嫡子の龍興(たつおき)だが、まだ14歳の少年である。この龍興は、どうしようもない暗愚な殿様であったという説と、なかなかの勇猛な武将であったという説が相半ばして、いまだ評価が定まっていない。結果的に家臣たちに離反されて美濃一国を失ったのだから、名君とは言えないだろう。あるいは暗愚とは言えないにしても、勇猛なばかりで気配りの足りない人間だったのかもしれない。まあ年齢を考えれば致し方なかったとも言える。

 半兵衛は3歳下の龍興に仕えたわけだが、武芸よりも学問を好む少年であったようで、龍興の取り巻きの腕自慢の若者たちから見れば小面憎い存在であったのだろう、稲葉山城(現在の岐阜)に登城するたびに何やかやといやがらせをされていたらしい。半兵衛は生涯を肺病に苦しみ、美濃の旧主義龍と同じ35歳で亡くなるのだが、子供の頃から病弱だったものと思われる。その肉体的な劣弱さが逆に、槍働きを競うよりも、帷幕にあって千里の外に勝ちを決するような知謀を磨こうという動機になったのかもしれない。
 そのために、彼は古今の兵法書を読みあさったことだろう。
 証拠があるわけではないが、司馬遷「史記」をほとんど座右の書として熟読したであろうことは間違いない。そして、その中に自分の手本とする人物を見出したに違いない。
 漢の張良である。
 張良は漢の高祖となった劉邦に仕えた謀臣で、その知謀により宿敵項羽を倒し、劉邦に天下を取らせた男である。婦人と見まごうほどのやさ男であったと伝えられる。生来欲が薄く、漢帝国の成立後は、功績第一と言ってよいほどであるのに、大封を辞退して留県というちっぽけな領地だけ貰い、早々と隠棲して仙人になる修行に打ち込んだ。韓信(かんしん)、黥布(げいふ)、彭越(ほうえつ)といった功臣が次々粛清される中で、見事に天寿をまっとうしたのである。
 ――これだ。
 自分の肉体的なひ弱さに悩んでいた半兵衛は、膝を打ちたいような気持ちで思ったのではないだろうか。
 からだなど弱くてもよい。腕力などなくてもよい。知謀さえあれば、誰かに天下を取らせることさえできる。それは自ら天下を取るにも価する、いやそれ以上にやりがいのある仕事ではあるまいか。
 ――おれの進む道は、これしかない。
 時は戦国末期、各地の戦国大名たちがいよいよ天下取りの決勝戦へ向けて雄飛する時代だ。武士だけではなく、すべての人間の心が沸き立っていた。病弱な少年といえども、その沸騰の外にはいられない。半兵衛は知謀を持って、天下取りのレースに飛び込もうと考えたのである。

 半兵衛自身は張良を手本にして自らを作り上げてゆくとしても、問題は劉邦に相当する人物を見つけることである。
 劉邦の人物については、いまだにつかみどころがない。そんなに戦争がうまいわけでもなく、人格が立派だったわけでもないようだ。それでいて、なんとなく有能な人たちを吸いつけ、彼らが持てる力を目一杯発揮したくなる雰囲気を作っていたらしい。自分より能力のすぐれた者に対する素直な敬意というか、そういったものが横溢していたのではないだろうか。これは言うのは簡単だがなかなかできることではなく、ことに組織のトップには難しい注文である。有能の士に対して、なんらの嫉妬心もなく敬意を表することのできるトップは非常に数少ない。劉邦はその稀有な例であったようだ。
 当然ながら、そんなタイプの人物はおいそれと見つかるわけがない。
 直接の主君である斎藤龍興では話にならなかった。側近共々、はじめから半兵衛の脾弱さを馬鹿にしているので、知謀で仕えたいなどと言っても物笑いにされるのがオチである。
 半兵衛が自分の描きたい絵を描くためには、劉邦に匹敵するような、度量の大きい主君、というよりパートナーを見つけなければならなかった。だが、彼は美濃の豪族竹中家の跡取りであり、勝手に美濃を出奔するというわけにもゆかない。
 彼は、考え抜いた末、大胆きわまる手を打ったのだった。

 1564年、20歳の半兵衛は、突如として稲葉山城を乗っ取り、主君龍興とその取り巻きどもを追放した。
 城中に小姓として入っていた弟と示し合わせ、病気見舞いの品と称して武器を運び込み、夜半に至って龍興の警護の者どもの不意を衝いて、僅かな手勢で襲いかかったのである。城内は大騒ぎになったが、気がつくと城のまわりは半兵衛の妻の父である安藤伊賀守の率いる軍勢に包囲されていた。この頃の城というのは何人もの武将が常駐しているわけではなく、戦いとなればまず陣触れを出して領内から軍勢を集めなければならない。突然の出来事で、龍興はなすすべもなく逃げ出さざるを得なかった。
 名も知られていない20歳の若者が、天下の堅城として知られた稲葉山城を、僅かな手勢だけで占領してしまったというニュースは、たちまち近隣に拡がった。
 特に、何度攻めても稲葉山城を陥せなかった織田信長の陣営ではショックだったに違いない。
 信長は早速、
 ――2郡を与えるので、稲葉山城を引き渡すように。
 と使者を送って申し伝えたが、半兵衛は笑って、
「それがしは龍興様の無道をお諫めしようとしたに過ぎない。殿が心を入れ替えてくださればいつでもお城はお返しいたす所存、織田殿に引き渡すいわれはない。どうしてもというなら兵を向けられよ」
と答えた。そして、その言葉通り、しばらくすると龍興に城を返還し、自らは謹慎の意と称して家督を退いて弟に譲り、伊吹山中に隠居したのである。
 この事件については、龍興の取り巻きどものいじめに堪えかねた半兵衛が、武士の面目を賭けて反撃したというように受け取られることが多いが、そんなに次元の低い話ではなかったのではないかと私は考えている。
 無名の若者が世に出るための、一大デモンストレーションだったに違いない。
 実際、竹中半兵衛重治の名はこれにより一躍有名になったし、その気になればいつでも城のひとつやふたつを陥せるだけの能力を持った男であることも人々に知れ渡った。しかも力攻めをしたのではなく、策を持ってそれをやったというところから、知謀の士である宣伝にもなっている。そして信長の誘いを蹴って龍興に城を返し、自分は隠居したということで、欲のない男であるという印象を与えるのにも成功した。
 さらに大事なことがある。この事件を契機に隠居することにより、彼は一応斎藤家からフリーハンドを得たことになる。自分が他の主君を選んだとしても、竹中家自体には累を及ぼさずに済むようになったのだ。
 それにしても、若年の娘婿のこの大胆不敵な企てに、迷うことなく荷担した安藤伊賀守の剛胆さには感心する。いくら城を返したとて、龍興があとでその気になれば、竹中家と安藤家を取り潰すことくらい容易だったはずだ。安藤は深くこの婿に私淑するようになっていたのかもしれない。それはしばらくのちの彼の行動にもよく顕れている。

 隠居した半兵衛は、さらに兵法の勉強を深めつつ、自分の劉邦を物色し続けていたのではないかと思う。自分の献策を受け容れる度量を持ち、かつ天下を取るだけの気概がある武将。
 信長のことも考えただろう。しかし信長のやり方を見ていると、信長自身が明確な意思を持った一個の実質であり、他人の献策を受け容れるような人間ではない。しかも非常に嫉妬深いようだ。
 ――信長では駄目だ。
 半兵衛はすぐにそう思っただろう。
 しかし、他に主君として適当な人物も思い浮かばない。近隣には、北近江の浅井、南近江の六角、越前の朝倉、若狭の武田などがいるが、いずれも徒らに家名を誇ったり格式張ったりして、半兵衛の献策によって動くような連中とは思われない。
 ――やはり劉邦のような人物は、日本には生まれないのだろうか。知謀を持って世を動かすなどということは、この国では無理なのだろうか。
 自分の方針に少々自信がなくなって来た頃、半兵衛はひとりの風采の上がらぬ男の訪問を受けた。

 男の名は木下藤吉郎秀吉。織田家の末席に連なるだけの部将に過ぎない。今で言えばようやく上場を果たした程度の新興会社のせいぜい課長か次長クラスと言ったところだろうか。
 秀吉はもちろん、信長の美濃攻略のために働いている。西美濃の有力者である安藤伊賀守を引き入れるために、娘婿の半兵衛に近づいたことは疑いない。
 が、藤吉郎はのっけからそんなことは言わず、
「ぜひ物を教えていただきたいのでござる」
とすり寄ってきた。
 それから数日間、秀吉と半兵衛はいろいろと語り合った。秀吉は8歳も年下の青年の言葉にいちいち大きくうなづきながら感心して聞いている。半兵衛は次第に、秀吉の聞き上手に引き込まれている自分を感じた。
 ――この男こそ、劉邦に似ているのではあるまいか。
 そんな風に感じるようになっていた。
 織田家の末将に過ぎないこの小男が天下を取るなどと予測できた人間は、この時期ただのひとりもいなかったはずである。
 ――張良が劉邦と出逢った時、劉邦は流賊の長に過ぎなかった。それから項梁の下の一部将になったのだが、誰がその時点で劉邦が天下を取ると予測できたろう。先のことはどうなるかわからないが、この男ならおれの夢を託せるのではないか。
 半兵衛はそんなことを思ったに違いない。
 何日もの会談の最後になって、木下秀吉は初めて、織田家に仕えては貰えまいかと打診した。
 「よろしいでしょう」
半兵衛は静かに答えた。
「しかし、条件がござる。私は信長様に仕える気はありません。木下殿、あなたに力をお貸ししたいと存じます」
 妙なことを言う、と秀吉は思ったろうが、とにかく半兵衛が承諾してくれたことに、彼は喜んだ。

 半兵衛はそのあと秀吉の幕内でしばらく過ごし、その間に舅の安藤伊賀守と、その盟友である氏家卜全稲葉一鉄、いわゆる西美濃三人衆と呼ばれる豪族たちを織田方に寝返らせることに成功した。おそらく信長にお目見えしたのはそのあとのことだろう。信長は功績のない者を認める男ではなかったからである。木下秀吉の与力になりたいという、いわば勝手な要望を快く許したのも、西美濃を味方につけたという多大な功績を認めたからであろう。
 ここで注意したいのは、半兵衛は秀吉の家臣になったわけではないという点である。身分としては織田家の直臣であり、その意味では秀吉と同格なのだ。ただし織田家では早い時期から、指揮系統と主従関係を分けたシステムをとっており、能力のある家臣に他の家臣をつけて「与力」とすることが行われていた。
 秀吉から禄を貰うわけではないという状況に、半兵衛は満足したに違いない。それでこそ純粋な眼で秀吉のために働けるからである。

 半兵衛が秀吉の幕僚となったのは24歳の時で、以後約10年間、彼は一切他の武将には目もくれずに、秀吉のために知謀を尽くした。はっきりと半兵衛の業績とわかっていることは実はそれほど多くないのだが、軍師というもの、最初に書いたように職人気質なのであって、自分の名を拡めようという欲はさほど強くない。それに軍師が目立ってしまっては主君の影が薄くなる。この時期の秀吉の業績とされていることのうち、半兵衛の助言によるものは決して少なくなかっただろう。
 だが、残念なことに半兵衛の健康は、秀吉が天下を取るのを見るところまでは持たなかった。毛利家との熾烈な戦いの中で、竹中半兵衛は持病の肺病をこじらせて世を去ってしまう。その早すぎる晩年、しきりに高野山あたりに隠遁したいと言っていたらしいが、張良の伝に倣おうとしたに違いない。
 半兵衛の死と前後して、秀吉のもとにはもうひとりの知謀の士が現れる。黒田官兵衛孝高である。半兵衛がこの後輩をどう見ていたかはわからない。謀臣同士仲がよかったとも言われるが、逆に謀臣同士だからこそ仲がよくなかったということも考えられる。ただ、荒木村重の謀反の時に、説得に行って監禁されてしまった官兵衛が、村重に与したと信長に疑われ、秀吉が人質にとってあった官兵衛の長男(のちの黒田長政)を殺せと信長が命じた際に、半兵衛がその非を熱心に訴えて子供を救ったというのは本当らしい。
 官兵衛はおなじ知謀の士でも、半兵衛に較べるとかなり世俗的な野心がぎらぎらとしている印象がある。機会があれば自分自身で天下を取ってやろうという意気込みもあり、実際関ヶ原の前後の官兵衛の行動はすさまじい。

 官兵衛は豊臣政権の確立に伴い、次第に居場所を奪われ、九州に遠ざけられてしまう。秀吉が官兵衛の知謀を怖れたからだと言われているが、それは怪しい。秀吉は、官兵衛などよりはるかに食えない徳川家康でも一向に遠ざけていないのである。
 ただそういう「軍師」という存在が、政権組織がしっかりしてくると共に、不必要になったということは言えるだろう。確立された政権組織の中で活躍するのは、やはり石田三成のような官僚タイプなのであって、トップが個人的に諮問する軍師のようなものは、組織に取り入れることが困難になるのである。その意味で「軍師」は、乱世の流動的な状態でのみ輝くことのできる徒花と言えるかもしれない。
 近代的軍隊には、もはや軍師などと呼べるような存在は全くあり得ない。日露戦争の児玉源太郎秋山真之にしろ、満州事変の石原莞爾にしろ、結局は一軍事官僚に過ぎず、戦局すべてを視野に入れて主将を導いてゆく軍師の名には程遠い。
 現代では、広辞苑のA、比喩的な意味での軍師しか残ってはいないのである。外国のことはわからないが。

(1998.6.29.)


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