忠臣蔵の幻想

 「忠臣蔵」ほど日本人に好まれている話はないだろう。歌舞伎の最大ヒットナンバーの座を250年にわたって保ち続けているばかりか、映画も数多く作られ、今もって12月になれば必ずどこかのテレビ局が「年末時代劇大作」として忠臣蔵を扱う。NHKの大河ドラマでも、「赤穂浪士」「元禄太平記」「峠の群像」と来て、今年(1999)は4本目の忠臣蔵もの「元禄繚乱」が放映される。最近はオペラにまでなった。
 もととなっている事件そのものは、基本的には単純である。
 幕府から勅使饗応役を仰せつかった播州赤穂の領主、浅野内匠頭長矩が、饗応指南役の吉良上野介義央に対し、何を考えたか江戸城内松の廊下で抜刀し斬りつけて軽傷を負わせた。浅野は即座に取り押さえられ、即日切腹となった。一方、被害者の吉良にはおとがめがなかったので、これを不満とした浅野家中の遺臣たちが集まって、徒党を組んで吉良を討ち果たした。これだけの話である。
 この話が、どうしてこれほどの人気を博してきたのか。
 この事件は、繰り返し検証され吟味され続けてきたにもかかわらず、いまだに謎とされている点がいくつかある。その中でも大きなものとしては、そもそもの発端、浅野内匠頭がなぜ、勅使接待の当日という大事な日に、しかも殿中で吉良に斬りつけたりしたかという問題があるが、そんな謎より、この事件がどうしてそんなに日本人を感動させたのかという点の方がよほど面白いような気がする。

 江戸時代は、現代の感覚とは違うものの、一応法治体制であった。
 罪は法によって裁かれ、罰も法によって執行されたのである。名奉行と呼ばれた大岡越前守遠山の金さんも、別に法を曲げて人情裁きをしたわけではない。法をなるべく人民の利益になるように運用したから人気を博したのである。
 その法が、人民によって選出された議会という立法府で作られたものではないのは事実で、だからこの時代の体制をあまり持ち上げるのは危険であるが、しかし裁判の結果などが独裁者の恣意によって左右されるものでなかったことは押さえておかなくてはならない。
 古来、浅野内匠頭の刃傷沙汰に対する裁きが不公平だったという意見がある。
 赤穂浪士たちの「義挙」は、この幕府の不公平に対して異を唱えたのだとする。吉良はいわば当て馬に過ぎなかったとするのだ。
 昭和のある時期、この説は大いにもてはやされた。彼らは反権力、反体制の闘士だったというわけだ。
 もっとも、なぜ幕府がそんな不公平な処分をしたのかという点については、あまり説得力のある説明がなされていない。
 言うに事欠いて、当時幕府で権力を握っていた柳沢吉保が、吉良から賄賂を貰っていたためだなどと言い出す者もいた。が、実際には柳沢の権勢などは脆弱なもので、賄賂を貰って裁判を左右したなどということがばれれば、たちまち失脚させられる程度のものでしかなかった。江戸幕府というところは、ひとりの人間に決して絶対権力が集中することのない仕組みになっていて、いかな権勢家といえども、そんなに好き勝手なことができたわけではない。絶対的独裁者といえばかろうじて幕末の井伊直弼くらいだが、彼は暗殺された。日本で独裁をおこなった者の末路は大体そんなものであって、これほど独裁ということを嫌う民族も珍しいほどである。
 法に照らせば、殿中で刀を抜いたこと自体重罪であって、しかもそれで他人に傷を負わせたとなれば、当時の感覚では切腹もやむを得ないだろう。
 さらに言えば、この当時の将軍である徳川綱吉は、いわば絶対的平和主義者であった。彼は儒学に傾倒し、理想的な君主の道とは何かということを追究し続けた男である。言うまでもなく、儒学においては天下に真の泰平をもたらした君主こそ偉大であるとし、こういう君主は「封禅」という儀式を執り行うことができることになっている。綱吉は、天下に真の泰平をもたらしたかった。
 それで、その頃横行していた「傾奇者」なる無頼の輩を厳しく取り締まったが、あまり効果がない。
 ──まず、世の中から殺伐の気風をなくすことだ。それでこそ千年の泰平が得られる。
 綱吉はそう考え、殺傷事件については刑をきわめて厳しくすると共に、人間相手だけではなく、鳥獣に対する殺傷も禁じようとした。これも儒学では、偉大な君主の恩徳は鳥獣にも及ぶということになっていて、それを文字通り実践しようとしたらしい。こうして生まれたのがあの「生類憐れみの令」である。これは天下の悪法として名高いが、綱吉に悪意があったわけではない。ただ、殺伐の気風をなくすためであれば、それに伴う庶民の多少の痛みは致し方ないとは思っていただろう。
 綱吉がそれほど苦心して殺伐の気風をなくそうとしているのに、そのお膝元の江戸城内で浅野内匠頭が刃傷沙汰を起こした。綱吉にしてみれば、自分の努力が公然と否定されたように思われたに違いない。
 しかも、勅使接待の当日である。内匠頭の行為は、綱吉個人のみならず、幕府全体に泥を塗るようなものであった。綱吉の気分としては、手ずから内匠頭を切り捨ててもまだ足りないくらいではなかったか。
 それを考えると、切腹という、一応武士の面目を保った形での処罰は、かなり温情的であったとすら言えるかもしれないのである。決して綱吉や柳沢の恣意によったわけではない。
 ただ、処罰をあれほど急ぎ過ぎず、きちんと内匠頭の供述をとって文書にしておくということをやっていれば、後世さまざまな憶測が乱れ飛ぶこともなかったであろう。

 一方、吉良上野介におとがめがなかったというのも、法的には問題がない。
 吉良は殿中での抜刀が重罪であることをよく知っていたから、斬りつけられつつも自分は刀を抜かなかった。終始、法に則って行動したのだから、罰せられるいわれはないのである。
 浅野家中の者たちは、「喧嘩両成敗」の原則を主張し、争いがあったのだから相手方にも処罰があって然るべきだと考えたのだが、表にあらわれた現象を見る限り、これは争いではなく、内匠頭が一方的に暴力を振るったのであるから、両成敗の原則は成り立たない。
 幕府としては、全く合法的に裁きを下しただけのことであって、まさかこれがあれほどの問題になるとは思ってもいなかっただろう。今年の大河ドラマでは、この事件の裏に柳沢吉保の陰謀が隠されていたという解釈で描いて行くらしいが、そんなものがあったとはとても思えない。幕府にとってみれば、沢山ある事件のうちのひとつに過ぎなかったのである。

 ことが内匠頭個人の切腹で済めば、問題は大きくならなかっただろう。
 だが、当時の大名の不始末は、それだけでは済まない。
 当然、お家取り潰しということになる。
 播州浅野家には300人近い家臣がいたが、それらが一斉に失業することになるのだ。
 失業保険などもなく、再就職も容易でない時代である。浪人となった家臣たちは、その日から困窮してしまう。
 こんな時、世を呪いたくなるのは誰でも同じことだ。
 そしてもし、恨める相手がいれば、そいつを恨みたくなるのも世の常である。
 この場合、格好の標的がいた。おとがめなしで済んだ相手方、吉良上野介である。

 赤穂浪士の討ち入りというのは、突き詰めて考えれば、それだけの騒ぎなのである。
 吉良という、明確な敵と見なせる相手が存在したがゆえに、失業の不満をそこに結集できたのだ。
 むろん、これは暴挙である。一旦結審した事件を蒸し返し、一種のテロでもって自分たちの主張を通そうとしたのだ。だが、そうでもしなければ彼らの鬱憤はおさまらなかった。
 大石内蔵助は、そういう浪士たちを見捨てることができなかったのだ。
 不法行為であることはわかっている。だがどうせやるなら、成功させてやりたい。そのために自分自身が旗頭となり、全体の統率をとろうとしたのである。
 討ち入りに参加した浪士には、3種類の人間がいたと考えられる。
 第1種は、浅野内匠頭に個人的に寵愛され、もっとも純粋に「主君の仇討ち」を考えていた者たち。これは実際にはいちばん少数派であり、片岡源五右衛門磯貝十郎左衛門などがこれに属する。
 第2種は、同じ主君の仇討ちでも、「武士の面目」といったものを重視した者たち。比較的新参の武士が多く、面目にこだわるのも無理はない。堀部安兵衛奥田孫太夫、それに脱落はしたが高田郡兵衛もこれに属する。
 そして第3種が、お家再興派で、本来大石もここに属していた。内匠頭の縁者をいただいて、浅野家を1万石くらいの大名として存続させようという考えの者たちである。彼らは、浅野家が再興できるならば吉良の首など取らなくてもよいと思っていた。が、結局彼らが担ごうとしていた内匠頭の弟、浅野大学も、広島の浅野本家に預かりとなってしまった。この時点で、再興派の一部が、そして大石自身が、討ち入りの仲間に加わったのである。

 そもそも、主君の仇討ちというのは、この時代、法的に認められていない。法的に認められたのは自分自身の尊属、つまり父や兄などの仇討ちだけである。
 法的に認められないばかりか、日本には古来、主君の仇を討ったなどという事件は、ほとんどないのである。秀吉が光秀を討つ時に、主君信長の仇を討つと呼号したことは確かだが、実のところそれは味方を増やすための大義名分でしかなかった。その証拠に、秀吉は瞬く間に信長の遺児たちを骨抜きにし、自分の下に従わせてしまっている。
 播州浅野家でも、300人近くいた家臣のうち、200人以上が、おとなしく城を退去し、各地の親類のもとなどに身を寄せた。それが当然だったのである。
 実際のところ、江戸期を通じてお家取り潰しの憂き目をみた大名家は200家に及ぶ。中には播州浅野家以上に理不尽な取り潰され方をした藩も少なくない。これらの藩でも必ず一度は、城を枕に討ち死にしようなどというような、勇ましい意見が叫ばれるが、それが実現したケースはひとつもない。
 赤穂浪士の事件こそは、日本史を通じての例外中の例外であり、それだからこそ人々の耳目を惹きつけ、やんやの喝采を浴びることとなったのだった。
 しかし考えてみると、幕府の理不尽を堂々と掲げて反抗したわけではない。城でもないただの屋敷に攻め込んで、大して厳重に警護もされていなかった老人の首をとっただけのことである。
 ただそれだけのことでも、日本人には素晴らしく輝いて見えた。

 日本人が「忠臣蔵」を好むのは、日本人の上への忠義心に訴えるからだとよく言われる。
 私はオペラになった「忠臣蔵」に少々関わったのだが、この時の演出家はドイツ人のヘルツォーク氏であった。氏は冒頭、7人のゴルファーを登場させ、それを7人の侍に入れ替えるという演出をおこなった。
 「あのゴルファーにはなんの意味があったの?」
と疑問に思う観客が多かったが、ヘルツォーク氏によれば、ゴルファーは日本のサラリーマンの象徴として用いたのだという。日本のサラリーマンの会社への忠誠心と、赤穂浪士の忠義をパラレルに見たわけだ。
 だが、考えてみると、サラリーマンの忠誠の対象は、決して社長ではない。自分が帰属している会社そのものである。それが崩れると困るから、一生懸命働いたのだ。社長が交代しようがどうしようが、そんなに気にする人はいないだろう。今後、転職が容易になってくれば、会社への忠誠も揺らいでくるに違いない。
 その点、赤穂浪士とパラレルに見てよいものだろうか。
 いや、逆に赤穂浪士の方をこれとパラレルに見れば、内匠頭への忠誠心が果たしてどの程度にあったものかすら疑問になってくる。上記の第1種の人々だけだったのではないか。
 残りは、自分自身の不満や困窮、あるいは名誉心、そういったものに突き動かされて仲間に加わり、あとは集団心理の赴くままに討ち入ったようにも思える。
 繰り返して述べるが、彼らが団結できたのも、本懐を遂げられたのも、吉良上野介という「悪役」がいてくれたからであり、その意味では吉良は、作られた敵というか、一種のスケープゴートであった。

 実のところ日本人は大変に忠誠心の薄い民族であり、戦国時代に訪れた宣教師たちは、日本人のあまりの裏切りや寝返りの多さに辟易していさえする。この時代、敵と言っても同じ日本人だという感覚があり、主従関係も一方的なものではなく、主君が自分の働きに充分応えてくれなければ家臣の方で主君を見限る、ということが平然とおこなわれていた。
 忠誠心なるものは、江戸時代に入ってから武士の徳目に加えられたものなのであり、「葉隠」などで大いに教育されなければ、自然には身についていない性質であった。戦乱が収まり、もはや槍働きを売り物にできなくなった武士が、何をもって禄を貰うかという問題に直面した時に、「忠誠心」という売り物が代わって登場してきただけのことなのである。
 元禄時代は、ようやくそれが定着し始めた時期であった。
 それだから人々は、武士に「忠誠心の発露」を求め、それに応えた赤穂浪士たちに喝采を送った。
 人間、自分からもっとも遠いものに惹かれることは珍しくない。自分にはできないことをやってくれたからこそ、忠臣蔵は人気があるのである。

 赤穂浪士の人気は、討ち入り直後からうなぎのぼりだった。
 法的には、集団によるリンチ殺人であり、当時としては当然斬罪に価する。
 しかし、人々の喝采の声には、幕府も譲歩せざるを得なかった。
 大石内蔵助以下の浪士たちは、切腹という、武士の面目を保たれた形式で処罰された。
 おかげで、やっぱり浪士たちの行動は正しかったのだという印象が作られ、従ってやっぱり吉良上野介は悪かったのだと思われるようになった。吉良こそいい面の皮であった。
 自分自身のやり場のない憤り。民衆の期待。そういったものが浪士たちを動かして、象徴的な悪役となった吉良上野介を斬った。討ち入り事件はそういうことであって、これを幕府=権力への抗議行動と買いかぶるのは妥当ではない。吉良はその時点で、幕府高官でもなんでもない、ただの隠居老人であり、彼を斬ることによって幕府への抗議をおこなったというのなら、かえって浪士たちが卑怯に見える。幕府に抗議する気なら、なぜ江戸城に斬りこまなかったのか。

 ともあれ、そういったいろいろな人々の思惑を超えて、「忠臣蔵」の物語はひとり歩きして、国民的な存在となった。戦前の話だが、ある作家が雑誌の随筆に、仇討ちという観念が嫌いなので赤穂浪士も嫌いだと書いたら、たちまち読者の非難攻撃を受け、単行本になる時にはそこを伏せ字にせざるを得なかったという話がある。「忠臣蔵」は、「日本人の忠誠心」という幻想のよりどころとして、これからも愛されてゆくことであろう。

(1999.1.6.)


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