2001年12月1日、皇太子ご夫妻に待望のお子様・敬宮(としのみや)愛子さまがお生まれになった。まずはお慶び申し上げたい。
皇太子というのは皇位継承第一位にある存在であるわけだが、その皇太子の長男が第二位になるのは当然である。次男がいれば第三位、いなければ皇太子の弟君が第三位となるのは、どこの王家でも大体同じだろう。
ところが、今回お生まれになった敬宮は、内親王、つまり女の子だった。
実を言うと、私は女の子であることを期待していたところがある。
というのは、皇太子の第一子が女の子であれば、カビの生えた皇室典範の見直しを強いられるに違いないと思っているからだ。
皇室典範では、天皇家は代々、直系の男子が継ぐということに決められている。上に女の子がいくら産まれても関係ない。現に、今上天皇には姉君が何人もおられる。
しかし、それはあくまで戦前の発想である。戦前は、天皇家に限らず、どの家でも直系男子によって相続されることに決まっていたのだから、問題はなかった。
しかし、戦後になって相続法が変わった。子供には、男女の別を問わず、当分の権利が認められるようになった。そのためにかえって年老いた親の面倒を見なくなったというようなマイナス面もあるものの、とにかく男の子と女の子に差をつけるということはなくなったのだ。男女は平等の権利を持っており、それが当然だという社会的コンセンサスも出来上がった。
こういう世に、天皇家だけ例外ということがどこまで通るだろうか。
女の子として生まれたばかりに、長子であってもそれだけの理由で皇位継承権から外されるというのは、正しいことなのだろうか。
そういう議論が、必ず湧き上がるはずである。
今回お生まれになったのが男の子だったならば、
──まあ、あれこれ議論したところで、実際に次の継承権を持っているのは男の子なのだから……
ということで、問題が先送りにされるのは眼に見えていた。
それゆえ、女の子だったことで、不謹慎かも知れないが、俄然面白くなってきたと私などは思っているわけである。
皇室典範などは明治時代になってから出来上がった、たかだか百年ちょっとの歴史しかない決めごとであり、長い皇室の伝統に基づいているなどとはとても言えたものではない。
日本史上には、れっきとした8人10代もの女性天皇が存在している。中国では女性の皇帝は7〜8世紀の武則天(則天武后)ただひとりであることを考えると、いかにも多い。前例にこだわる宮内庁といえども、今や女帝の可能性を考慮せざるを得ないのではないだろうか。
日本の女帝を列挙するならば、33代推古(在位592ー628)、35代皇極(642ー645)、37代斉明(655ー661)、41代持統(690ー697)、43代元明(707ー715)、44代元正(715ー724)、46代孝謙(749ー758)、48代称徳(764ー770)、109代明正(1630ー1643)、117代後桜町(1763ー1770)となる。このうち、皇極と斉明、孝謙と称徳はそれぞれ同一人物の重祚(ちょうそ)であるから、8人10代ということになる。
称徳から明正までは860年も間があいているものの、推古天皇の即位から称徳天皇の崩御までの180年ばかりの期間中、女帝の在位は半分の90年間にも及び、日本の7〜8世紀はまさに「女帝の世紀」と呼んでよいほどの壮観だったことがわかる。
女帝の存在をどう位置付けるかについては、学者の間でも諸説があるようだ。
単なる傀儡、と言って悪ければ象徴的な存在で、実際には男性の実権者に操られていたに過ぎない、という考え方。戦前派の学者はこの意見が多いようだ。
それに対し、女性に政治能力がないなどというのは江戸時代から明治時代にかけて作られた迷信であって、女帝といえどもきちんと自己主張もしたし、実権をふるっていたのだという考え方もある。
即位のいきさつとなると、確かに「本命の皇位継承者が成長するまでの中継ぎ」という印象が強い。あとで詳しく見るが、江戸時代の明正・後桜町を含め、8人の中で皇太子だった経験があるのは孝謙/称徳天皇ただひとりで、あとはみんな、諸般の事情からワンポイントリリーフとして登板している。推古天皇の37年間を例外として、いずれの在位も10年に満たない(ただし持統天皇は即位前4年間、皇后の座にあるまま「称制」という形で統治していたので、それを加えれば10年を超える)のもその事情を窺わせる。
しかしながら、「だから実権のない傀儡に過ぎなかった」と短絡してよいかは別問題である。
私の考えでは、「女帝が傀儡だったか、実権をふるったか」などという問い自体がナンセンスであるような気がする。男の天皇だって、ばりばり実権を行使した人、実力者の傀儡みたいだった人、表立ってはおとなしいが裏であれこれ画策したフィクサータイプなど、いろいろ居るのに、なぜ「女帝は」とひとくくりにして考えなければならないのだろう。江戸時代のふたりはどうにも印象が薄いのだが、古代の6人はまさに六人六様、それぞれに立場のあり方も権力行使の仕方も異なっている。「女帝だから」どうこう言うのではなく、もっと個性を認めてやるべきではないのか。
推古天皇はいうまでもなく日本最初の女帝であり、記録に残る限りでは(邪馬台国の卑弥呼のような例は別として)東アジア最初でもある。実際にはそれ以前にも、天皇が不在の期間女性が統治したようなこともあったようだが、とにかく即位したことが確実なのは推古が最初だ。
この人についても、聖徳太子の傀儡であるとか蘇我馬子の傀儡であるとか、いろいろ言われていたが、近年の研究では、かなり自分の意志で政治をおこなっていたらしいことが明らかになってきている。
30代敏達天皇の皇后として政務にも携わり、続く用明・崇峻両帝の擁立についても、彼女の発言が大きくものを言っている。推古天皇がただのお飾りであったとはとても思えない。
崇峻天皇が蘇我馬子と対立して暗殺されたのち、いわば皇太后の立場にいた推古がみずから即位し、用明天皇の子である厩戸(うまやど)皇子を皇太子として立てた(聖徳太子)わけだが、この当時厩戸皇子は18歳で、当時としてはそのまま即位しても決しておかしくない年齢になっている。なぜすんなりと厩戸が天皇にならなかったのか、おそらく皇族たちと蘇我氏の思惑が複雑にからみあってそういうことになったのだろうが、何やら謎の多い即位ではある。
ともあれ彼女は38歳にして女帝の座に就き、以後37年間飛鳥の朝廷に君臨した。享年75歳という、その頃としては驚くべき長命だったもので、結局聖徳太子の方が先に死んでしまった。この生命力の旺盛さを考えても、推古天皇は芯のしっかりした、堂々たる女性政治家であったに違いないと思われるのである。
推古天皇の後継者としては、聖徳太子の長子である山背大兄(やましろのおおえ)がほぼ確実視されていたが、当時の蘇我家の総領であった蘇我毛人(えみし)の画策で、敏達天皇の孫である(ただし推古天皇とは別の后の系統の孫)田村(たむら)皇子が即位した。舒明天皇である。さらに毛人の子の蘇我入鹿(いるか)が山背大兄を一族もろとも滅ぼしてしまうわけだが、ここに至るまで聖徳太子家(上宮王家)と蘇我氏の間にどんな軋轢が発生していたのか、いろいろな推測が可能で面白い。
次の皇極女帝は、この舒明天皇の皇后だった人である。ちなみに舒明天皇と皇極天皇の間の息子が中大兄皇子、のちの天智天皇なのだが、舒明帝が没した時中大兄はすでに27歳、これも順当に跡を継いでも良さそうなところなのに、皇位は母の皇極へと移った。これも蘇我氏の横槍が入ったからと思われる。
この頃の皇室と蘇我氏は複雑に婚姻関係が入り交じっていて、特に女系に焦点を当ててみると「蘇我王朝」と言ってよいほどに蘇我氏が密接に入り込んでいた。中大兄が入鹿を殺したのは、入鹿が皇位を簒奪しようとしていたからだと主張する学者もいる。だとすると皇極は、簒奪の前段階として即位させられたことになる。
ともあれ何やらきな臭い政治的な事情により天皇となった皇極であるが、その威信はなかなかのものだったようで、板葺宮ほか豪壮な宮室をいくつも作らせて、皇族の有馬皇子から非難されたりしている。その意味では名君とは言えなかったようだが、傀儡君主でなかったことは確かだ。
入鹿の誅殺は皇極天皇の御前でおこなわれた。皇極はショックを受け、数日後に退位する。中大兄が跡を継ぐのは、彼女の嫡子であることからも、入鹿誅殺の立て役者であったことからも、順当に思われたが、ここでもなぜか中大兄ではなく、皇極の同母弟である軽皇子が即位した。孝徳天皇である。
これはどうやら、中大兄自身の考えだったようだ。即位せずに政治改革に辣腕をふるった聖徳太子の伝に倣ったのかもしれない。天皇に即位してしまうと、さまざまな制約が大きくて、思ったような政治ができないと思ったのだろう。
孝徳天皇はそのうち中大兄と反目し、あっさり見捨てられる。中大兄は母の皇極上皇を再び動かし、重祚させた。斉明女帝の誕生である。
実権は息子に握られていたとはいえ、おそらく、この女帝がトップに居ることが、政情を安定させる重しのような役割を占めていたのだろう。やはりただのお飾りではない。
661年、新羅(しらぎ)と唐の連合軍に攻められ亡国に瀕した百済(くだら)を救援すべく、日本は大規模な遠征軍を起こした。おそらく中大兄の意見によるのだろうが、なんと67歳の斉明女帝の親征ということになったのである。老女帝自身がどう思っていたかはわかりかねるが、ともかく斉明天皇は九州まで御輿を進めた。
だが、やはり老女帝に、軍旅はしんどかったらしい。海を渡る前に、彼女は九州で没してしまう。
百済救援戦の方も、2年後の白村江(はくすきのえ)の海戦で日本軍は唐の艦隊に惨敗し、それ以上に百済の残党の間にまとまりを欠いたため、遠征はなんらなすところなく終結したのである。
中大兄皇子はしばらく皇太子の身分のままで政治を取り仕切っていたが、668年になって即位し天智天皇となった。次の女帝である持統天皇は、この天智天皇の娘であり、そして天智の弟だった大海人(おおあま)皇子すなわち天武天皇の皇后だった。
天智と大海人の間にはやがて隙間風が吹き始めた。病床に就いた天智は、大海人を枕頭に呼んで、
「おまえに皇位を譲りたい」
と言ったが、罠を怖れた大海人は即座に断り、それどころか吉野へ向けて出奔してしまった。のちに持統天皇となる顱野讃良(うののさらら──「顱」の字のツクリは実際には「鳥」)女王は、この時父を捨てて夫に従い、一緒に吉野へ旅立ったのだった。
この時点で彼女が勝ち馬を見抜いていたとまでは思えないが、結果的にはまさにその通り。やがて天智の長子であった大友皇子との戦い(壬申の乱)が勃発して、大海人は勝ちを収めて天武天皇となり、顱野讃良も晴れて皇后の座に就いたのである。
女帝は傀儡に過ぎなかったと主張する人も、持統天皇の力量だけは認めることが多い。才気煥発にして深沈大度、周到かつ狡知にたけた大物であり、女性であることを考えなくても第一級の帝王の名にふさわしい。天智天皇にはじまった政治改革(大化の改新と呼んでもよかろう)は、その娘である持統天皇の治世にいたってようやく軌道に乗ったと見ていいし、古事記や日本書紀なども彼女の代に完成している。天武天皇の在世中は有能な補佐役、文字通りの女房役であり、その死後少しも動ずることなく事業を完成させたところを見ると、むしろ天武の方が持統の傀儡であったのではないかと思われるほどだ。
権勢争いもそつなくやりとげて、天武の後継者として有力視されていた大津皇子を手際よく除き、自分の子である草壁(くさかべ)皇子を皇位継承者にすることに成功。
ただ、この息子は病弱で、いよいよというところで病死してしまう。彼女としては千慮の一失と言えよう。草壁の子の軽皇子はまだ幼少で、即位させるわけにはゆかない。かと言って彼女には他に男の子はなく、他の女が産んだ皇子はなんとしても排除したい。そんなわけで彼女はみずから即位することにした。最初から自分の意志で女帝になったのは彼女だけかもしれない。
ちなみに持統天皇と武則天の治世は重なっている。海を挟んで、有能な大物女帝が君臨している時代であった。
軽皇子が成長したので、持統天皇は皇位を譲り、自分は上皇となった。文武天皇だが、どうも持統天皇の血筋の男子は虚弱であるらしく、これまた24歳の若さで病没する。首(おびと)皇子という男の子がひとり遺されたが、この時まだ6歳。幼すぎて、即位させるわけにはゆかない。結局早世した草壁皇子の妃で、文武天皇の母である阿閉(あべ)女王が46歳で皇位に就く。元明女帝である。なお阿閉女王は天智天皇の娘でもあるので、つまり持統の異母妹であり、従って皇位に就く資格はあったと言える。この辺ややこしい。草壁と阿閉は天智天皇に着目すれば甥と叔母、天武天皇に着目すればイトコ同士、それが夫婦になっていたわけだ。
元明女帝が即位した時にはすでに持統は没しているが、はたして彼女の即位は誰の画策によるものだったのか、いろいろ考え得る。
首皇子が成長するまでの中継ぎであることは明らかだが、そこまでして持統の血脈にのみこだわっていたのはどういうことだろう。天武天皇には他に皇子が居なかったわけでもなく、うるさい持統本人はすでに没しているというのに。
ここに、藤原不比等(ふじわらのふひと)という人物がからんでくるのは確かだと思う。首皇子の母は藤原宮子、首皇子が即位すれば、史上初めて、藤原氏の血が皇統に注がれることになる。不比等は、首皇子を即位させるために、他の系統の皇子を一切継承権に近づけず、元明、そしてその娘の元正と続く女帝の連投を画策したのだ……
そう考えれば一応は納得がゆく。だが、また別の疑問が湧き上がってくる。
元明女帝は715年に自分の娘の氷高(ひだか)女王に譲位する。これが元正天皇だが、その時首皇子は14歳。首皇子に皇統を継ぐのが目的なら、もう数年元明が続投すれば済むことだったのに、なぜわざわざ氷高女王に譲ったのか? しかも元明はこのあと6年も上皇として君臨している。
この女帝ラインは、むしろ首皇子に皇統を継がせたくなかったのではないかという疑いもきざすのである。実は元明女帝の母は蘇我氏の女性であり、藤原氏はむしろ仇敵と呼んでよい立場なのだ。
すると、古代史の大事件のひとつ「長屋王の変」の背景がわかるような気もするのである。長屋王の妃は、元正女帝の妹である吉備(きび)女王であった。長屋王は藤原氏の専横を抑えようとして憎まれ、謀反の罪を着せられて敗死したわけだが、もしかするとそこには元明・元正そして吉備女王へとつながる蘇我系ラインの藤原氏への抵抗という意味があったのかもしれない。蘇我氏は別に大化の改新で亡ぼされたわけではなかったが、それが完全に息の根を絶たれたのが長屋王事件だったのではあるまいか。
藤原氏の意志か。それとも藤原氏に対抗する意志か。まったく相反する解釈が、この類例のない元明──元正の母娘継承には成り立つのである。他にも、天智天皇の血を残そうとしたというような解釈も可能だ。「女帝の世紀」の最大の謎と言ってよい。
ただ言えるのは、男系相続の確立した武家社会と違って、この時代の「家」の継承は、相当に女系のつながりを配慮しなければわからなくなるということである。
元正天皇はあでやかな美貌の女帝だったと言われているが、即位した時は35歳で、当時としては姥桜もいいところ。9年間在位したのち、23歳になった首皇子に譲位する。予定通りだったのか、それとも不本意ながら藤原氏に屈してのことだったのか、なんとも言えない。
この首皇子が聖武天皇である。前述の通り母は藤原宮子。そして妃も藤原氏の出身で、この妃は臣下出身としては異例なことに「皇后」に昇格する。
天皇の正室のことを皇后というのだと思っている人が多いだろうが、この時代はそうではない。推古や持統の例でわかる通り、この時代の皇后(大后=おおきさき)は、場合によっては天皇になることができる存在なのだ。従って、皇族出身の女性でなければならなかった。臣下の出身の女性が皇后になるなどとは、まことにもって前代未聞、破天荒な事態だったのである。
聖武天皇皇后藤原安宿(ふじわらのあすかべ)、のちの名を光明皇后。ノイローゼ気味で放浪癖のあった聖武天皇に代わって政務を取り仕切った女傑で、もちろん皇位にこそ就かなかったが、事実上の女帝だったとも言える。
どうも女傑の産んだ男の子というのは虚弱な傾向があるようで、光明皇后もひとり男の子を産んだが夭折する。もっとも当時天然痘が猛威を振るっており、光明皇后の兄である藤原四兄弟(不比等の息子たち)が全滅するというすさまじさであったから、虚弱なせいであったと言い切っては気の毒かも知れない。
聖武天皇と光明皇后は嘆き悲しみ、ここで──と言っても聖武よりも光明皇后の意見が強かったのだろうと思うが──前例のない決断をする。
なんと、夭折した男の子の姉にあたる阿倍(あべ)内親王を「皇太子」に立てたのである。上にも書いたが、女帝は少なくなかったとはいえ、「皇太子」となった女性は、日本史上この人──孝謙/称徳天皇──ひとりだけである。
孝謙/称徳女帝は、怪僧弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とのあやしげな関係といったことばかり取り沙汰されているが、行きがかり上天皇になったわけではなく、最初から皇位を約束された女性であった以上、帝王学もきちんと教え込まれていたに違いない。実際、権臣恵美押勝(えみのおしかつ──藤原仲麻呂の別名)が専横を振るい始めると、ほとんど苦もなくそれを制圧している。力の使い方をよく知っている女性だったのである。一旦淳仁天皇に譲位するが、そのやり方が気にくわないとなるとたちまち牙をむいて淳仁を追放し、みずから返り咲いて称徳帝となった。
道鏡とは、病気の祈祷が縁で接近したのであった。道鏡は決してラスプーチンのような正体不明の怪僧ではなく、学識に優れた有徳の僧侶である。女帝の悩み相談のようなことに応じているうちに、次第に政治上の意見も求められるようになったのであろう。巨根の破戒僧と淫乱の女帝などといった、程度の低い関係ではなかったはずだ。
帝王は孤独なものである。ましていかに気丈ではあっても、独身の女帝では心細いことも多かったであろう。道鏡は称徳女帝を蔭になり日向になって支え続け、女帝の没後は政敵たちに陥れられて流罪となったが、死ぬまで女帝の冥福を静かに祈り続けたという。現世的な権勢欲があったとは思われない。
称徳帝が道鏡に皇位を譲ると言い出したのも、道鏡の意志ではなかっただろう。そのことについて宇佐八幡宮の神託を受けに行って、否の答えを持ち帰った和気清麻呂(わけのきよまろ)に激怒したのは道鏡ではなくて称徳帝の方であった。
この称徳天皇をもって、女帝の時代は終わりを告げる。道鏡事件に人々が懲りたのだとも言われるがよくわからない。
女帝の場合に、その結婚相手をどう扱うのかという点が問題になってくる。英国女王の夫はプリンス・コンソートという称号を得て、それなりの処遇を受けるのだが、日本の皇室にはその規定が存在しない。
推古、皇極/斉明、持統、元明の4人は、皇族出の皇后であったか、少なくとも皇太子妃であったという経歴を持つ。元正と孝謙/称徳は一生結婚しなかった。江戸時代に復活した明正女帝と後桜町女帝も結婚していない。
今の世で皇族の女性が皇后に立てられることは優生学的にまず許されまい。となると前例に従えば、女帝は結婚できないということになってしまう。しかし、それもまた人道的に許容できない。
皇統の男系が途切れることを心配する向きもあろうし、女帝の実現にはまださまざまな問題が山積している。
しかしながら、実際に、皇太子の長子は女の子であった。このあと男の子が産まれるかどうかもわからない。弟君の秋篠宮のところも女の子ばかりである。女帝を認めるべきではないかという議論は必ず起こるだろう。
どう決着するのか、私は今から楽しみなのである。 (2001.12.8.) |