他の稿でも書いたが、日本の15〜16世紀を「戦国時代」と呼ぶのは、もちろん中国史からの借用である。
中国史における戦国時代は、はるか昔の紀元前のことだ。殷王朝を亡ぼして天下を統一した周王朝が、12代目の幽王の代になって、異民族を引き入れた重臣のクーデターにより政権を失い、東方の洛陽(らくよう)へ逼塞して一地方政権と堕してしまった紀元前770年から、秦の始皇帝が他の国々を亡ぼして再び天下を統一した紀元前221年までの550年ほどを春秋戦国時代と呼び、その前半が春秋、後半が戦国と名付けられているわけだ。
春秋と戦国の境目はどこかということについては、いろいろな説がある。春秋というのは古代中国では単に各国の年代記を意味しており、特別な言葉ではないのだが、「春秋時代」の語源となっているのは孔子が著したとされる(どうも嘘っぽいが)「魯国春秋(春秋経)」で、大体この書物に記されている時代(B.C.722〜B.C.481)を指すのが本来の意味である。だから紀元前481年が境目とする人も居るが、「魯国春秋」は「獲麟」の項で記述を終えている。聖獣の麒麟(きりん──麒は雄、麟は雌だそうだ)が捕獲されたという話なのだが、これをもってひとつの時代の終わりとするのはいかにも弱い。
そこで一般には、その約80年後、北方の大国であった晋(しん)の国君が逐われて、国土が有力な家老たちに分け取りにされ、韓(かん)・魏(ぎ)・趙(ちょう)の3国に分裂した紀元前403年を戦国の幕開けとすることが多い。
国君が逐われ、その下にいた階層の者が代わって国主の座に就く──いわゆる下剋上の現象こそ、戦国時代のもっとも顕著な特徴と考えられるからである。
ちなみに東方の大国であった斉(せい)でも、この三晋分裂事件からほどない紀元前386年、累代の国君であった呂氏(周の建国の重鎮、太公望・呂尚の子孫)に取って代わり、筆頭家老のような立場であった田和(でんか)が斉侯に封じられ、以後彼の子孫が国主の座を継いでゆく。これも下剋上の時代の到来を象徴するような出来事であった。
そして、実際に国主の座には就かないまでも、これよりのち、国主自身よりもむしろそれを輔佐する人々が歴史の主人公となってゆく。春秋時代に活躍した斉の桓公、晋の文公、宋の襄公というような個性的な国主たちは影をひそめ、戦国時代の国主はどうにも印象が薄い。これもまた、一種の下剋上と呼ぶべきか。
日本の戦国時代も、下剋上というキーワードで捉えられることが多い。
実際、その前の時代(室町時代)の支配階級であった守護職のうち、江戸期まで命脈を保ったのは常陸の佐竹と薩摩の島津だけで、きわめて広大な領地と勢力を誇ったはずの斯波(しば)、山名、大内、赤松などの連中はことごとく早い時期に滅亡してしまっている。
守護職のうちかろうじて戦国大名化に成功したのは駿河の今川、甲斐の武田、近江の佐々木(六角)、豊後の大友などが居るが、これらはいずれも最終トーナメントにおいて敗退し、歴史から姿を消した。
守護職ではないにしても室町時代の高官の家名が残ったものとしては細川と上杉があるものの、江戸大名としての細川氏の始祖である幽斎(藤孝)は足利12代将軍義晴の落胤と伝えられ、天下の管領として権勢を誇った細川氏とはやや別系統と見るべきだろう。上杉に至っては、山内上杉氏の家老であった長尾氏のそのまた傍流であったに過ぎない長尾景虎(上杉謙信)が、かつての主筋である上杉憲政から名跡を譲られただけの話である。
残りの江戸大名は、ほとんどすべて、もっと低い階層から成り上がった連中ばかりだ。守護代(守護職の現地管理人のようなもの)出身ならまだ出自がよい方で、将軍たる徳川氏からして、どこの馬の骨だかわかったものではない。大方は国人(こくじん)、地侍(じざむらい)といった、室町以前にはほとんど庶民と変わらなかったような階層の出身である。まさに下剋上の世と言ってよい。
下剋上というのは、別に「家臣が主君を討ったり逐ったりして、トップの座におさまる」というだけの意味ではない。もっとも従来、なんとなくそういう意味に限定した印象があった。それゆえ、どうも倫理的に感心したことではないというような感覚があったような気がするし、戦国時代というものが誤解される原因になってきたのではないかと思う。
戦国時代は、何も、倫理の荒廃した無法状態であったわけではない。無法状態と言えばそれ以前の時代の方がそうだったろう。これは中国でも日本でも同様であって、法律というものが整備され始めたのは戦国時代に他ならないのである。上に立つ者の恣意的な裁定を許さないという機運が高まり、公正な法律が求められたことを反映している。法律ができるということは、それを発布する側が
──今後、領国内のことはこの基準に従って裁定します。上の者の気分次第で勝手に裁いたりはいたしません。
ということを、領民に対して約束したわけである。法律とは、むしろ上に立つ者をこそ拘束するシロモノであった。
つまり、上に立つ者がそういうシロモノを発布せざるを得ない状況になったのがこの時代なのであって、それ自体が「下剋上」の一側面であろう。
こういう状況になったのは、技術の進歩により生産力が飛躍的に上がって、地下(じげ)の者たちが経済的に裕福になったのが原動力となっている。
生産が上がって余剰生産物ができるようになれば、当然ながら交易が盛んになる。すると交易に従事する人が広い地域を動き回るようになるわけだが、人が動けば情報も動く。他の地域の情報が入手しやすくなり、人々に競争の意識が芽生えて、ますます技術革新が進むことになる。
また、交易のためには、物財の価値を客観的に判断する必要が出てくるから、人々の合理的な眼が培われる。合理的な眼が培われれば、非合理なことに黙っていられなくなる。民衆のことなどなにひとつ顧みないくせに厖大な年貢を吸い上げているだけの守護職などは、非合理の最たるものであろう。
この事情は、2千年近い時を隔てて、戦国の名が冠せられた日中の時代区分に共通しているように思われる。
そうして下からのエネルギーが爆発的に膨張した結果、それまでの既得権の上にあぐらをかいていた古い支配層が力を失い、消えてゆくしかなかったという現象こそ、「下剋上」の本質なのである。
彼らに取って代わった新しい支配層は、そのエネルギーの上に乗っかっていたに過ぎない。反倫理的だとか、不忠であるとか、そんな個人的な問題ではないのである。
日本の「戦国」を開いた男、とされるのが北条早雲(ほうじょうそううん、1432−1519)である。
彼の前半生はかなり曖昧だ。足利幕府の執事職で、小笠原氏と並んで礼式の家元でもあった伊勢氏の出であるとされているが、そうであったとしても本家ではなさそうで、おそらく備中(岡山県)にあった分家の出身だろう。ただ、彼の遺した法度などを見ると、伊勢流の礼式に通暁していたことは間違いなく、一部の研究者が言うような根っからの素浪人だったというわけではあるまい。幕府の申次衆(諸国からの訴えなどを将軍や幕府高官に取り次ぐ役職)であったという説が有力。
ちなみに早雲自身は一度も「北条」姓を自称したことはなく、伊勢長氏(ながうじ)、あるいは伊勢宗瑞(そうずい)と名乗っている。早雲というのは号、いわばハンドルネームだ。
ともあれ、応仁の乱(1468ー1478)の結果、浪々の身となったことは確かだろう。そののち、駿河(静岡県)の守護今川義忠の側室となっていた妹(北川殿)の縁を頼って駿河に寄食。義忠が不慮の死をとげたのち、北川殿の産んだ嫡子氏親(うじちか)を護って、今川家の家督を狙う小鹿範満(義忠の従兄弟)を討つ。
ここまでは、氏親の伯父にして忠臣であるというだけであって、下剋上の世を開いた男というには価しない。
早雲が戦国を開いたというのは、1491年、伊豆にあった堀越(ほりごえ)公方を覆したというあたりからの動きを指して言われることである。
足利時代の当初から、幕府は京都に置かれ、その出先機関と言うべき関東管領が、前時代の治処であった鎌倉に設置されていた。管領職には将軍の一族が宛てられていたが、そのうち称号の嵩上げがなされ、関東公方(鎌倉公方)と呼ばれるようになり、その下の執事職であった上杉氏が管領を名乗るようになった。
4代目の関東公方であった足利持氏(もちうじ)は幕府の意向に従わず、独立の気勢を示した(永享の乱)が、家臣であった上杉憲実に攻め滅ぼされた。これは下剋上ではなく、憲実は幕府の命令を受けて持氏を誅したということになっている。
すったもんだの末、持氏の遺児である成氏(しげうじ)が関東公方となったが、彼もまた憲実の子である管領上杉憲忠(のりただ)とそりが合わず憲忠を誅殺。しかし上杉一族に攻められ、鎌倉を出奔して古河に逃げ延びる。ところがその後上杉氏自体が内部分裂し、4家に分かれて抗争を始めた。他派に対して優位に立つべく、自分たちが追い出したはずの成氏を旗頭に担ぐということを始めたのである。このため成氏は息を吹き返した。
幕府は何かと問題のある成氏を罷免し、8代将軍義政の弟である政知(まさとも)を新たな関東公方として任命したが、政知は成氏や上杉家の勢力にびびってしまい、伊豆でとどまって関東に入ろうとしなかった。これ以後、成氏を古河公方、政知を堀越公方と呼ぶようになった。堀越というのは政知が逼塞していた土地の名である。
政知が死ぬと、堀越公方ではお家騒動が発生した。彼には先妻との間に一男、後妻との間に二男があったが、先妻の子である茶々丸が、後妻とその次子潤丸を殺し、後妻の長子義遐 ( よしとお ) を追い出したのである。義遐より年上であったはずの茶々丸が、茶々丸という幼名のままであったのは異様な気がする。父の政知や継母から疎んぜられていたようだ。政知自身も茶々丸が殺したのかもしれない。
義遐はかろうじて逃れて、京都へ上り、のちに改名して11代将軍義澄となるが、ここの話にはもう関係がない。
北条早雲は、この足利茶々丸を討ったのである。もっとも茶々丸本人は取り逃がしたが、堀越公方を消滅させ、伊豆をみずからの領土とした。
これが「戦国」の始まりと見られているわけだが、どうであろうか。
注意すべきは、早雲は決して、自分の主君に弓を引いたわけではないという点である。早雲が主君と呼ぶべきなのはは今川氏親ただひとりであり、彼は生涯、氏親に対しては忠実な一家臣の姿勢をとり続けた。主君を放逐したり殺害したりしてその地位を奪うという、俗なイメージでの「下剋上」にはあたらないのである。
堀越公方を消滅させたと言っても、足利茶々丸は幕府から正式に公方に任命されたわけではなく、いわば簒奪者に過ぎない。簒奪者を討つことを下剋上とは言わないだろう。義遐なり誰なりを後任に任命して堀越公方を再建しなかったのは幕府の側の都合であり、早雲のせいではない。もし幕府が新しい堀越公方を任命していたら、おそらく早雲はおとなしく伊豆を明け渡したに違いない。しかし結局幕府はそれをせず、早雲の伊豆占拠を黙認する形になってしまった。
早雲が伊豆を占拠したと言っても、
──堀越公方が茶々丸の簒奪により消滅して伊豆の地が無主になったため、隣国駿河の守護職である今川氏親が仮に統治を代行することになり、被官の早雲に命じてその土地を管理させた。
と見られないことはない。おそらく当時も、表向きは同じような題目が唱えられたことだろう。なお正式には伊豆の守護職は山内上杉氏であったが、敵対する扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の領域の向こう側にあるため、実効支配はまったくできていなかった。
そんなわけで、早雲のこの行動は、まだ室町体制の中での出来事であると考えてよい。徒手空拳の浪人が足利将軍家の出先機関を覆したと考えればきわめてドラマティックであり、「戦国」の開幕を告げるにふさわしい事件であったわけだが、この時の早雲は今川氏親の家臣として興国寺領12郷の地頭職にあり、決して「徒手空拳の浪人」などではなかったのである。
早雲の行動にはっきりと「戦国」の匂いが漂い始めるのは、伊豆を占拠してから4年後の1495年、箱根の坂を越えて、大森藤頼(おおもりふじより)の小田原城を攻略するあたりからだ。藤頼は足利茶々丸とは異なり、特に悪逆非道などということもない、印象の薄い人物である。早雲にとって藤頼が脅威となっていたという形跡もない。
強いて言えば箱根権現の社領が大森氏によって横領されており、早雲は箱根権現の訴えにより大森氏を討ったと言えないこともないが、だからと言って大森氏そのものをその根拠地である小田原から追い払うという理由にはなりにくいだろう。
小田原攻めには、やはり早雲自身の野望が秘められていたと考えざるを得ない。その野望が何であったかはあとで考えるとして、伊豆の「事実上の国主」となっていた早雲が、隣国である西相模の第一人者であった大森藤頼を攻撃し、その領地と城を奪ったこの事件こそ、堀越公方の消滅以上に「戦国」の到来を告げるものであったと言えるだろう。それまでも領地争いは方々で発生していたものの、基本的には同族内での主導権争いであり、縁もゆかりもない他人の土地を奪うなどということはまずなかった。
さらに17年後の1512年、早雲は東相模の盟主であった名族三浦氏を討つ。この時は当主の三浦道寸(みうらどうすん)を斃すには至らなかったが、救援に来た関東管領上杉朝興(ともおき)の軍勢を玉縄(たまなわ)という地で大いに打ち破った。早雲の直接の「下剋上」的行動といえば、これがほとんど唯一のものだったかもしれない。大森氏も三浦氏も、その時点に限ってみれば早雲とほぼ同格の地頭職に過ぎなかったのだから、彼らと戦ったのは必ずしも下剋上とは言えない。しかし、相手が関東管領ともなればはっきりと上位者であり、下剋上の名を冠しても間違いではない。
ちなみにこの時、早雲は実に80歳である。そしてさらに5年をかけて三浦氏を亡ぼし、相模全土を掌握した翌々年、87歳の大往生を遂げたのであった。
早雲の人生を眺めていると、人間、いつ転機が訪れるかわかったものではないという気分になる。
彼が今川氏親の家臣になったのは44歳の時であって、現代ならさしづめ60歳近く、定年も間際という年齢の頃である。そして小鹿範満を討って見事氏親を駿河守護の座に就けたのが55歳。伊豆を占拠したのが59歳。小田原攻略は63歳。
現代ですら、そんな年齢から何か大事業を始めるなどというのは億劫に思う人がほとんどだろう。ましてや寿命の短かった当時のことである。
いわば、中途入社した大企業(今川)を定年で辞めた後に小さな町工場でほそぼそと始めた事業が、思わぬ仕儀から大当たりとなり、たちまちのうちに元いた会社に匹敵するほどの優良大企業に発展してしまったというようなものだ。リストラにおびえる中高年のサラリーマン諸氏にとって、何よりも励みになる話ではないか。還暦を過ぎてから始めたことだって、うまくすれば大当たりするかもしれないのである。
大切なのは、眼の付けどころと、時局を見る観察力だ。
早雲の、老いてのちの大成功を考えるには、その点をしっかり見極める必要がある。
早雲は、ただひとりで成功したわけではない。彼についてくる数多くの人々が居たからこそ、伊豆を、相模を切り取ることができたのだ。早雲が単なる悪賢い梟雄であれば、それほどの広域を20年ばかりで獲得できるわけがない。駿河に来る前は流浪の身であった早雲には譜代の家来などというものも居なかった。のちに後北条家と呼ばれ、関東全域を支配下におさめる大大名家となったそのもとは、早雲という個人に魅力を感じて従うようになった人々に他ならないのである。
応仁の乱で各地の守護家が押し合いへし合いし、領地の統治などをまるっきり顧みなくなったので、各地に「惣(そう)」と呼ばれる自治組織が生まれた。その土地の国人や地侍、寺社などを中心として、自分たちのことは自分たちで決め、守護や地頭などの古い権威を拒否する人々である。一揆、一味などとも呼ばれる。
「惣」の一番の眼目は、年貢の納め先の一元化を図ったことであろう。それまでは、一ヶ村の中でも、守護、地頭、有力寺社、公家など、いろんな連中の権利が複雑に錯綜して、農民たちは何重にも年貢を吸い上げられて苦労していた。年貢を納める代わりに、外敵から護って貰い、村の中の揉め事を裁定して貰うというのが当然の期待だったのだが、守護や有力地頭たちは同族争いに明け暮れてそんなことには眼もくれなくなってしまっている。生産力に余裕ができて、合理的なものの考え方を獲得した農民たちは、護ってもくれない守護に年貢を納める必要はないということに気がついたのだ。それで例えば、京都の東寺なら東寺と、農民の側が年貢を納める先を自主的に決める。まったく納めなければ何かトラブルがあった時に困るので、いわば保険として「寄り親」を決めておくのである。
当然、既得権として年貢徴収にくる守護などとは対立する。だから武装もする。山城や紀伊などでは、そうして守護勢力を完全に排除してしまう村々がいくつも生まれた。加賀はもっとラディカルで、一向宗の本願寺を寄り親とした国人たちが、守護の富樫氏そのものを攻め滅ぼしてしまった。
早雲は、流浪の時期に、そういった風潮をいくつも見聞したに違いない。そして、
──これからは、民衆を足場にし、民衆の支持を得た者こそが力を持ってゆく世の中になるのではないか。
という想いを強くしたことだろう。
しかし、多くの「惣」では、悪平等の弊害も出ていたし、構成員それぞれのエゴがむき出しになって内紛が起こっているところも少なくなかった。加賀では富樫氏を亡ぼしたばかりか、寄り親としたはずの本願寺から派遣されてきた高僧たちをも追放するような騒ぎになっている。
──民衆は、なまの民衆のままではどうしようもない。規律と目的を与えて、「国民」としての教育を施さねば、エゴのぶつかり合いで結局は外敵につけ入られ、自壊してしまうだろう。
見聞を広めるにつれ、早雲の心の中にはそんな考え方がきざして行ったのではないか。
そして、不充分ながら、その早雲の想いを裏書きするような存在が、関東には居た。
太田道灌(おおたどうかん、1432ー1486)である。
扇谷上杉家の家老であった道灌は、江戸城、岩槻城などを建造した築城の名手でもあったが、足軽戦法の創始者でもあった。
足軽は、この時代、武士ではない。武士というのは騎馬に乗れるだけの身分の者を指す。しかし、この時期の武士は非常に軟弱で、戦争ではものの役に立たなかった。代わって勇猛に戦ったのが足軽たちである。多くは農民の次男、三男といった厄介者で、戦があると聞けば出かけて行って金銭で雇われ槍を持つ。雇い主への忠誠心などかけらもなく、危なくなればすぐに逃げ散る。
すでにそういう手合いが日本中に跋扈していたが、その事実をありのままに認め、むしろ足軽を積極的に軍の主力にしてゆこうと考えたのが太田道灌だった。彼は、その時その時で雇われるだけだった足軽たちに恒久的な禄を与えて厚遇し、歩兵軍団としての組織的な訓練を施した。道灌は、日本史上最初の「民兵」の組織者だったのである。
その威力はすさまじかった。道灌に率いられた足軽軍団は、たちまちのうちに関東を席巻し、宿敵山内上杉など気息奄々という状態にまで追い込まれた。山内上杉側は窮したあまり「反間の策」を用い、扇谷上杉の当主定正にさまざまに働きかけて道灌を疑わせ、誅殺させることに成功した。これにより扇谷上杉の勢力は大いに衰退した。
太田道灌は早雲と同い年である。今川家の家督争いに道灌が──もちろん主君上杉定正の命令で──干渉してきたことがあり、その時に顔も合わせている。お互いに敬意を持ったようである。
道灌が足軽という「民衆軍」を重視していることに早雲は感じ入ったことだろう。民衆に規律と目的を与えればとてつもない力を発揮するという実例を、早雲は道灌に発見したはずである。そして道灌が定正に誅殺されたのち、道灌の素志を継いでみようという意欲が早雲の胸の中に湧き上がってきたとしても不思議はない。
早雲は今川氏親に助言して、駿河国内の国人衆を重用させ、民衆を厚く撫育させた。今川家が大きく躍進し、やがて氏親の子である義元の代になって「海道一の弓取り」と称されるに至るのは、おそらくそのあたりに淵源がある。
また早雲は自分の領地である興国寺でも、徹底した愛民を心がけた。年貢率は四公六民という驚くべき安さにとどめたが、ただ甘やかすだけではなく、こまごまと規律を与えてもいる。人に呼ばれたら「あっ」と返事をしろとか、夜は8時までに寝ろとか、大きなお世話だと言いたくなるような細かいところまで指示を出しているが、裏を返せば、「人に呼ばれたら返事をする」という程度のエチケットさえも、民衆がなまの民衆である間は身に付いていなかったということにもなるかもしれない。
早雲は、民衆を「国民」にしようとしたのである。
やがて伊豆を得ると、そこでも同じ流儀を押し通した。人々は最初はうざったく思ったかもしれないが、日常に規律ができると、生活にメリハリが生まれ、安い年貢率とあいまって、生きることに張り合いを覚えるようになったとおぼしい。これこそ、早雲を押し上げてゆく原動力となった。箱根の峠を越えた相模でも、伊豆の人々の生き生きとした様子が伝えられ、今までの大森や三浦などではダメだという意識が高まって行ったことだろう。
相模の住人たちは、歓呼して早雲を迎え入れた。
早雲は、それまでの守護や地頭とはまったく異なる発想で統治した。従来の統治機構がすでにぼろぼろに朽ち果てていることを鋭く見抜いたからできたことである。そして人々も、従来の統治機構の老朽加減に飽き飽きしていたから、この新しいタイプの統治者を喜んで迎えたのだった。
太田道灌の足軽戦法がお手本になったのは間違いないだろうが、早雲は一歩を進めて、足軽の供給源である農民層そのものを鄭重に保護し、彼らの支持を得ることを目指した。人々の間には早雲との一体感が生まれ、敵に対してはすさまじい攻撃力を発揮することになった。
これが「戦国大名」のはじまりである。
早雲は、古い支配層に「取って代わった」のではない。まったく新しい支配の形を「産み出した」のである。その意味では、俗な意味合いでの「下剋上」を成し遂げた男と言うには躊躇を感じざるを得ない。
成り上がり戦国大名として早雲と並び称される斎藤道三、松永久秀、宇喜多直家などと較べても、早雲には簒奪者の後ろ暗さというものが感じられないし、実際のところ自らの主君を裏切ったとか追放したとかいう事実はひとつもないのである。
しかしながら、世の中の下層から湧き上がってくる大きなうねりを的確につかまえて、それに乗ることで古い支配層を打倒したという意味では、早雲はまごうことなく「下剋上の時代」の申し子であった。 (2003.5.26.) |